風林火山、中原を翔ける ~武田勝頼、三国志異聞~
チャプタ
第一話(前編)『天目残照』
天正十年(1582年)三月十一日。甲斐国、天目山。
春とは名ばかりの、凍てつくような風が、山肌を容赦なく吹き荒れていた。三月も半ばだというのに、峰々にはまだら雪が残り、鬱蒼と茂る木々は、敗走を続ける武田の兵たちを覆い隠すにはあまりに頼りなく、枝の間を抜ける風の音は、まるで敗者の慟哭のように響いていた。土の匂いは冷たく湿り、肌を刺す空気は肺の奥まで凍てつかせるかのようだった。山肌を這うような、苦痛に歪んだ兵たちの荒い息遣い。そして、遠くない山麓から響き渡る、地を揺るがす織田・徳川連合軍の勝利を確信する鬨の声が、容赦なく武田家の、そして武田四郎勝頼(たけだかつより)自身の終焉を告げていた。
岩にもたれ、力なく眼を閉じる男がいた。その顔は、飢えと疲労にやつれ、血の気も失せている。武田四郎勝頼。かつて甲斐・信濃六十余州にその名を轟かせた名門武田の当主は、今、全てを失い、追い詰められた孤狼となっていた。栄華は遠い夢。その顔には、もはや覇者の面影など欠片もなく、深い疲労と、それ以上に重い、拭い難い絶望の色が、鉛のように刻まれていた。
「…すまぬ…皆…わしの…不徳ゆえ…」
血を吐くような、掠れた声が、風にかき消されそうになる。喉は張り付き、肺は軋む。瞼の裏には、偉大な父、信玄公の厳しい顔。長篠(ながしの)の戦場で、鉄砲の前に、無為に、無念と共に散っていった、無数の勇士たちの顔。赤備えが、血の花のように散った光景。そして、飢えに苦しみ、重税に喘ぎ、戦乱に怯えてきた、守りきれなかった家臣、領民たちの顔。痩せ細り、恐怖に歪んだ彼らの顔が、勝頼を責める。彼らの無言の問いかけ、責めるような眼差しが、鋭い爪となって勝頼の胸を引き裂く。己の無力さ、愚かさが、刃のように突き刺さる。「なぜ、お前は守れなかったのだ」と。
「御館様! 御館様! もはや一刻の猶予もございませぬ! 我らが盾となり、時間を稼ぎまする! どうか…どうか、武田家当主としての、最後の御務めを!」
土屋昌恒(つちやまさつね)が、全身血まみれになりながらも、折れた槍を杖に、最後の力を振り絞るように立ち尽くしていた。その声は、悲痛さに満ち、しかし揺るぎない忠誠が宿っていた。その背後からは、僅かに残った武田の兵たちが、鬼神のような形相で押し寄せる織田軍に喰らいついている。彼らの、死を賭した凄絶な奮戦だけが、勝頼に、武田家当主としての最後の務めを果たすための、ほんの僅かな時間を与えてくれていた。
(ああ…もはや…これまでか…)
勝頼は、鉛のように重い体を、全身の痛みに耐えながら、ゆっくりと、しかし確かな意志をもって引きずり、立ち上がった。腰に差した脇差に手をかける。柄を握る手に、微かな、しかし止められない震えがある。白刃が、曇り空の下で鈍く光った。これを己の腹に突き立てれば、全ての苦しみ、全ての責任から解放される。武田家の滅亡という重すぎる罪を、この身一つで清算し、父祖のもとへ逝くのだ。それが、武田家当主としての、そして武士としての、最後の誇りであった。
(父上…信玄公…不肖の息子をお許しくだされ…)
目を閉じ、故郷、甲斐の山々を思い浮かべる。桜の時期には、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の庭が鮮やかに彩られた…勇壮な風林火山の旗が、武田の軍を導き、天下にその名を轟かせた…あの輝かしい日々。
(…だが…まだ…終われない…!)
瞼の裏に、まだあどけない我が子の顔が鮮やかに、そして強く浮かんだ。飢えと疲労に耐えながら、最後まで自分に付き従った、少数の家臣たちの顔が浮かんだ。そして、何よりも強く、浅ましく、彼の心の奥底から、灼けるようなマグマのように、抑えきれぬほど湧き上がる、根源的な渇望。
(生きたい…! まだ死にたくない! この無念…故郷を…皆を…守りきれなかったこの無念…この手で…この手で晴らさずして…! どうして…どうしてこんなところで…犬死にできようか…!)
武士としての誇りと、人間としての本能が、彼の心の中で激しくぶつかり合う。生きるか、死ぬか。無念を抱えたまま、ここで朽ち果てるのか。
そう思った、その刹那であった。
世界が、ぐにゃりと、異様な色を伴って歪んだ。視界が一瞬にして、鮮やかな色を失い、風景が油絵のようにドロドロと溶け出す。耳からは、風の音も、鬨の声も、遠い世界の残響のように遠ざかり、意味を失っていく。ザー…というノイズのような音だけが、耳奥に響く。立っているのか、倒れているのか、上下も左右も、全ての感覚が意味をなさなくなった。内臓を握り潰されるかのような激しい痛みと、鉄槌で頭を打ち砕かれたかのような痛み、そして吐き気を伴う、天地が逆さまになるような激しい眩暈に襲われる。全身の骨が軋み、体がバラバラになるかのような、未知の、恐怖の感覚。
「う…あ…ぐ…っ!」
呻きとも悲鳴ともつかぬ声が喉から漏れ、勝頼の意識は、底の見えぬ深淵へと、為す術もなく、光を失いながら吸い込まれていった――。
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