スプリング・キッチン
のりのりの
スプリング・キッチン
室内飼いのチョコがそわそわしはじめるのは、午後四時を過ぎた頃から。
「もう、そんな時間か……」
昭子は軽く伸びをすると、デスク周りに広げていた書類を片付ける。今日の進捗状況と終了時刻を入力して、会社から支給されているパソコンを終了させた。
パソコンやアプリケーションの性能がぐんと上がり、己のスキルも上がれば作業スピードも上がるはずだが……。
ここ最近は『老い』というものを感じていた。
視力、体力、ひいては集中力の衰えによる作業効率の低下。
いわゆるトントン。プラマイゼロというべきか。
いや、この先、作業量は減っていくのだろう。
画面が黒く反転する直前に「ポン」という音が鳴るが、その音の意味を知っているのか、チョコの動きがさらに激しくなる。
窓の外はまだ明るい。
一ヶ月前はもっと暗かった。日を重ねるごとに太陽の沈む時間が遅くなり、雨戸を閉める時刻もそれにあわせて遅くなる。
西の空は白くて薄い水色をベースに、オレンジや紫、イエローなどの色が微妙に混じり合い、雲の部分は少し灰色がかっていた。
オレンジ色のぼんやりした空を見つめながら、雨戸を閉めるのはもう少し暗くなってから……と昭子は心の中で呟く。
いつもなら慌てて洗濯物を取り込むが、今の時期は花粉が飛来しているので室内干しだ。
足元でぐるぐると走り回っているクリーム色のチワワを抱き上げると、昭子はゆっくりと階段を下りる。
臆病なチョコは階段を登れても、ひとりでは降りることができない。
チョコという名はチョコレートではなく、チョコチョコ走り回っていたから……という理由で娘の成美が命名した。
人の気配がなかった一階はひんやりと冷たく、向かいの家の影になっていて薄暗い。
暴れるチョコを床上に置くと、廊下を勢いよく往復しはじめた。
ひとりといっぴきの世界。
チョコの廊下を走る音だけが響く。
昭子は米を二合用意すると、結婚してからずっと使い続けているステンレス製のボウルで研ぎはじめた。
ふと、その手が止まる。
(しまった。ボウルを買うのを忘れてた!)
後悔しながらも、手早く準備を終えて炊飯器のスタートボタンを押す。
(そういえば、計量カップも買ってなかった)
廊下を往復ダッシュしていたチョコは、いつの間にか昭子の足元にいる。
昭子がキッチンに立つと、決まってキッチンの中へと入ってくるのだ。
この部屋は天からご馳走が降ってくる部屋だとでも思っているのだろうか。
以前、レタスを切っていたときに、うっかり床に落としてしまった。それをチョコが拾って食べてから味をしめたようである。
炊飯器のランプを確認してから、昭子はチョコのドライフードを用意する。
銀色の皿に入れて「よし」と声がけしたが、チョコはなかなか食べようとはしない。
食べたくなったら食べる。マイペースなチワワだ。ただ、少しばかり元気がないように見えるのが心配だ。
犬も犬で住人の数が減ったことに気づいているのかもしれない。
あまり構いすぎてもよくないので、昭子はキッチンへと戻っていく。
食器棚に目を向ければ……今まで三個あったご飯茶碗が二個に減っている。
色々な物がひとつなくなっていた。
昭子は気を取り直すと、冷蔵庫の野菜室を開ける。
色々な野菜が入っているが、まず最初に目に飛び込んできたのは、ほうれん草だった。
反射的に『報・連・相』という単語が浮かび、昭子は溜め息をつく。
娘の成美は数日前から就職を機に、一人暮らしをはじめた。
それだけならどこにでもありそうな話なのだが、成美は『報・連・相』のできない娘だった。
早生まれの成美はひとりっ子だ。
それゆえ、夫をはじめとして、じいじやばあばなど周囲が無条件で甘やかす。
娘を中心にみなが行動するので、昭子は「誰かひとりは厳しくしなければ」と思い、育てた結果だろう。
自分が両親に厳しく育てられたから、そういう育て方しか知らなかったということもある。
それでも過干渉気味で娘にはとことん甘い夫の和夫には相談するようだが、ほとんどが事後報告で、昭子に伝わるときは決定事項であることが多い。
昭子が『ノー』と言えば、再検討はされる。
しかしながら『相談』も『連絡』もなく、いきなり『報告』だ。なので、再検討しようにも手遅れだったりする場合も多々ある。『事後報告』もざらだ。
今の『就活』とやらはネットが占める割合が高い。
何十通と履歴書を書いて応募したり、リクルートスーツを着て一日数社の企業巡りということはしないようである。
就職氷河期世代の昭子には仰天の時代だ。
成美はスーツに袖を通したのも数回で、いとも簡単に就職先を決めてしまった。
最初の『報告』では自宅通勤可能な店舗勤務だったのだが、実際は通勤不可能な他県に勤めることとなった。
面接時に「他県になっても構わない」と娘が答えた結果だろうが、反対するわけにもいかず、慌てて送りだすことになったのである。
学生時代にアルバイトはしていたが、服やゲーム課金、趣味などに全て使い、成美の貯金はゼロ円どころか和夫に借りてマイナスだ。
自制心が乏しい。感情のコントロールができない。人の忠告が聞けない。空気が読めない。予測ができない。同じミスを何度も繰り返す。自分がついた嘘を本当のことだと信じてしまう。などなど。
とにかく成美は育てにくい子どもだった。
同じ月に誕生した子どもたちと比較すると、どうもなんだか様子がおかしい。
昭子は訴えるが、誰も真剣に話を聞いてくれなかった。
そして、全てのことに対して、こちらから問いかけると、まずは『イヤ』と答えることから始まる。
話を聞き終わらないうちから『イヤ』だ。嫌いなものに対する『イヤ』ならわかるが、好きなこと、楽しいこと、やりたいこと、それらも全部『イヤ』だ。
嫌というのなら……と言われたとおりに片付けたり、予定をたてると、怒りだして手がつけられなくなる。
色々な人に相談すると「早いイヤイヤ期ですね」と言われ、一般的なイヤイヤ期が終わる頃になっても終わらずに相談すると「終わるのが遅いのかもね」と言われた。
いつまで待っても『イヤ』は終わらず、さらに相談すると「どうやら早めの反抗期が始まったようですね」……という具合に休まるときがなかった。
医師から病名を告げられたのは、成美が中学生になってからだ。
そういう娘が先日から一人暮らしをはじめ、社会人として働く。
住まいも新生活に必要な道具一式も、両親である自分たちが揃えて用意した。
自宅通学、自宅通勤から結婚した昭子と和夫には一人暮らしの経験はない。しかも告知から入社式まで時間もなく、慌ただしい準備となった。
娘からの『連絡』は初日の入社式が終わったというものだけだ……。
今日はほうれん草の気分ではない。
冷蔵庫の中からピーマンを探しだす。
メインは解凍している豚肉とピーマンを炒めて、塩コショウで軽く味つけすることにする。
ピーマンは先に切って用意しておき、調理は食べる直前にすればいい。その方が美味しい。
サラダはレタスにサニーレタス。キュウリにプチトマトだ。
冷奴で食べる代わりに豆腐サラダにしたら、皿が一枚減る。
(あと一品……)
野菜をゴソゴソと探っていると、鮮やかなグリーンと黄色が見えた。
(菜の花か。早く食べないと、冷蔵庫の中で花が咲くかな)
購入したときは蕾部分は緑色だった……と記憶している。
(菜の花のおひたしにしよう。辛子醤油、ポン酢、マヨネーズどれにしようかな)
成美は「苦い」と言って菜の花のおひたしを嫌っていた。まあ、子どもだから仕方がない。
娘が家を出たことで、メニューにも変化がでてきた。
少し苦みのある『菜の花のおひたし』が解禁だ。今日はマヨネーズで食べることにする。
シンクキャビネットの扉を開けて、フライパンをとりだす。
かがんだときに、シンク下に収納しているピンクキャップの黄緑色の洗剤ボトルが目に入る。
(あの子……知っているかな?)
フライパンに湯を沸かし、軽く菜の花を湯がいて水にさらす。
とても鮮やかな色に、春が来たなぁという気分になる。黄色い蕾もよりくっきりと存在感が増していた。
湯が湧くまでの間にサラダの準備をしていたのだが……実際にガラス皿に盛りつけてみると、レタスの量が多かったことに溜め息がでる。うっかり三人分の野菜を切ってしまったようだ。
皿に入りきらなかったレタスは、明日に使うことにする。
後は肉を焼くだけになったのだが、夕飯には少しばかり時間がある。
雨戸を閉めて、風呂の準備をしようかと思っていたら、スマートフォンが鳴った。
チョコが音に反応してクルクルとリビングを走り回っている。
画面の表示は『なるみ』だ。
「もしもし!」
元気な娘の声が聞こえた。
「配属先が決まった」
「そう。研修がんばったんやな。これからもがんばりや」
「うん」
「ところで、成美。ボウルは買ってる?」
「いいや」
「お米を研ぐときは、炊飯器の釜で研いだらあかんねんで」
「どうして?」
「釜の表面に米が当たって、塗装がきずついて、釜によくないらしい。研ぐっていうくらいやからね」
「マジか。知らなかった。ボウル買うわ」
思ったとおり釜で米を研いでいたようだ。
「計量カップは買ってなかったよね」
「買った!」
袋ラーメンを調理するときに必要だろう。
「そうか。あと、塩素系漂白剤の洗剤。キッチンや浴室のカビとかをとる臭いやつ。買ったよね?」
「うん」
「あれは、混ぜるな危険やから、他の洗剤と混ぜて使ったらあかんよ」
「なんで?」
「有毒ガスが発生して死ぬから」
「マジ?」
「うん。死んだ人がいるから、絶対に混ぜて使ったらあかんやつ。パッケージに『混ぜるな危険』って書いている洗剤を使うときは気をつけや。換気を忘れたらあかんで」
「わかった。それじゃぁ」
会話が終わる。
あっさりとした会話だったが『イヤ』ではなく『わかった』というやりとり。
それにほっとしたものを感じながら、昭子はまな板に残っていた菜の花の欠片をパクリと口に入れた。
〈完〉
スプリング・キッチン のりのりの @morikurenorikure
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