描破
数田朗
描破
今週の日曜日は、部活は午前練だけ。
練習が終わって駅に向かう部員たちを見送った俺は、コンビニでサラダチキンやおにぎりを買う。そうして学校へ戻る。最初はからかい半分だった部員たちも、最近は何も言ってこない。それがかえって、居心地が少し悪い。なんだかこれでは、本当に俺が真剣になっているみたいだ。学校へ向かいながらサラダチキンの封を開ける。含有タンパク質量がグラムで書かれている。練習後にプロテインも飲んだので過剰摂取な気もするけど、タンパク質ならいくらとってもいいだろう。俺はまだ成長期だ。
まるでアイスでも食べるみたいに、左手でサラダチキンを持ち、食べながら右手でスマホを操作する。メッセージアプリを開き、波多野薫を探す。デフォルトのアイコン、馬鹿正直なフルネームなんてこいつだけだから、すぐに見つかる。
――悪い。ミーティング長くなって、ちょっと遅れる。
口の中に肉と胡椒の味が広がる。今、あいつは一人で昼食を食べているのだろうか。部員の一人に言われたことを思い出す。
――毎回一人で食ってから向かってんの? だったら一緒に食えばいいじゃん。
確かにその通りだ。だけど俺はあいつにそう言われるまで、まったくその発想は無かったし、そう言われたとき、余計なことを言わないでほしい、と思った。その感想が自分でも予想外すぎて、そこから先を考えるのをやめてしまった。
コンビニのレジ袋にサラダチキンの包装をねじ込んで、おにぎりの封を開けて食べる。のりのかけらがぱらぱらと、風に流されながらアスファルトの上に落ちていく。辛子高菜味。
ポケットが震えたので、おにぎりを口にねじ込んでからスマホを取り出した。
――ゆっくりでいいよ。
そう言われても、既に俺は校門の前にいた。そのまま美術室へ向かう。
扉を開けると、もう鼻も慣れた絵の具のにおいがする。
薫はすでにイーゼルを立ててその前に座っていた。
窓から差し込む光が、薫の髪の毛の茶色さを際立たせている。柔らかそうなにこ毛が、吹き込む風に揺れている。俺の坊主頭の真っ黒く太い毛とは大違いだ。
薫の大きな目がこちらを見る。黒目が、まっすぐこちらを見つめてくる。
「悪い、待たせた」
そう言うと、「全然大丈夫」。そんな薫の返事を聞きながら、エナメルバッグを机の上に置き、カッターシャツのボタンを外していく。上二つだけを外して体を通してシャツを脱ぐ。どうせ脱ぐからと、シャツの下には何も着ていない。続いて、ベルトを外してズボンを下ろした。先ほどの部活終わりに、下着はスパッツに着替えていたので問題ない。
俺は薫が準備した台に立つ。
「今日も、よろしくお願いします」
薫がそう言い、頭を下げる。
「……よろしく」
「じゃあ、いつものポーズで」
薫が言う。俺は左手で右手首を軽く握り、そのまま両腕を頭の上に高く持ち上げた。頭は斜めに傾ける。
これが、薫の描きたいというポーズだった。
最初、絵のモデルを頼まれたとき、ボディビルダーみたいなポーズでも取らされるのかと思った。
それを言うと薫はけらけらと笑いながら、
「そんなの、描かないよ」
と言った。何がツボに入ったのか、よく分からない。
最初の数回はポーズ探しだった。
初回、美術室に着いた俺に、薫はすぐ「じゃあ服を脱いで」と言う。分かっていたことだし、別に男の前で裸になるなんてなんでもないはずなのに、変な緊張を覚えた。その日はどうすればいいのかをよくわかっていなかったので、ぴったりしたアンダーシャツを下に着ていた。俺はまごつきながらそれを脱いだ。背中を向ける俺に薫が言う。
「背中の筋肉、すごい」
そんな風に、一直線に体を褒められることは意外とない。俺はむず痒い気持ちになった。
「褒めてもなんも出ねぇぞ」
そう言いながら、俺は振り返ってわざと粗野に見えるようにアンダーシャツをその場に投げ捨てた。ふうっと一度息を吐き、心をリセットする。
「むさ苦しいだけだ」
「ううん、いい体。理想的だよ」
薫が嬉しそうな顔をした。
確かに、俺の体は大きい。多分、骨格が立派なのだ。恵まれた体格だと人は言うだろう。
まっすぐ立つ俺の周りを、薫はゆっくりと二周した。うんうん、なるほどね、と言いながら。俺は落ち着かず目を薫と反対に動かしながら、口をきつく結んだ。
そして今日と同じように台に立たされて、薫はあれこれと指示を出した。まるでリモコンで操作されるロボットみたいに、俺は薫の言う通りに動いた。
「もっと、顔を傾けて」
「もっと、腕を上に突き出して」
「足を少し開いて」
言われた通りのポーズをとる。
中には無理な体勢もあった。もしこれが俺でなければ、すぐに音を上げるようなポーズだ。
「筋肉の緊張が、その方が良く見えるから」
薫はそう言っていたが、結局、今のポーズへ落ち着いた。
俺は両手をぴったりと固定して、じっと留まって黙っていた。自分の毛の生えた腋が目の前にある。見た目の割に、俺はそんなに毛深くない。とはいえ、人並み程度には茂っている。練習後のそこからは、少なからず臭気が漂っている。雨の後の芝生のような、鈍いにおいだ。本当はシャワーを浴びたかった。だけどそれは薫を待たせることになるから、日曜日はそのままここに向かっている。俺は自分の苦いにおいに嫌気が差す気分だった。
何度も考えた不安が、また頭を過ぎる。
薫は、こんな俺の体を描いて、楽しいんだろうか。
薫の絵を見たことがある。何かの賞に選ばれたという絵が、掲示されていたのだ。教師たちがやたらと騒いでいたし、何かの取材も来ていたので、多分すごい賞だったのだろう。
薫とはクラスメイトだったが、特に接点も無かったし、絵を描くのが趣味なんて、オタクだなとしか思わなかった。
だから、その絵を見たときはびっくりした。
一羽のカラスが飛び立つ瞬間を描いた大きな絵。
カラスはゴミの散乱した雑踏の中から、工事現場の眩しいライトに向かって飛び立っていた。その、瞬間の躍動感。
――圧倒的だった。
絵心のない、美術の成績が2の俺でも、わかる。
散乱したゴミは、いかにも腐臭でも放っていそうで、見ているだけで眉間に皺が寄ってくる。そこから、光のなかへ飛び立つカラス。
写実的ではなかった。いわゆる写真みたいな、リアルな絵というのとは、少し違っている。荒々しいタッチだった。
俺は、呆然と絵の前に立ち尽くした。そのとき、俺以外誰も廊下にいなくてよかったと思う。俺はなぜだか泣きそうな気持ちになって、ずっと絵を見つめていた。
その日以降、俺はこっそりと薫を目で追うようになった。あんな素晴らしいものを、すごいものを作り出すのはどんな人間なのか気になったのだ。
しかし、日常生活の薫は、極めて普通だった。
仲の良い友人が数人いて、そいつらといつもつるんでいる。くだらない話をして、げらげら笑っている。授業中に寝て、突然指名されて驚いている。
俺と、なんら変わるところはなかった。
ある日、急に薫が俺のところへとやってきて、俺に絵のモデルになってほしいと言った。
思わず聞き返した。
「俺?」
薫は頷いた。
「モデルだってさ」
俺の隣にいた友人が、肘で俺を小突きながら冷やかした。俺は何も言えず薫を見返していた。
「部活が、忙しいから、ちょっと」
口が勝手にそう言った。
「そっか、そうだよね」
薫はすぐに納得した顔をした。そして、いつものように友人の元へ戻っていった。
俺は再び友達との会話に戻った。ふわふわして、なんだか、夢の中にいる心地だった。友人が何を言ったのかよくわからなかった。ぼんやりと濁った靄の中を泳いでいるみたいだ。
何か、今、とてつもないことが起きた気がする。そして俺は、それを取り逃した気がする。それはもう、二度と戻ってこないかもしれない。そう思った。焦りが急速に俺の中で膨らんだ。まだ間に合うかもしれない。まだ間に合う、俺はまだ、それを手にできる。俺は想像した。薫の筆が俺を描く。あの絵を思い出した。俺が、薫の絵の中に描かれる。
黙り込んだ俺の顔を、友人が心配そうに覗き込んだ。
「フミ、どした?」
――薫の絵の中に存在することができる。
俺は立ち上がって、連れションに向かった薫を追いかけた。
「波多野!」
その背中に呼びかける。薫が立ち止まって振り返った。
「俺、やるよ。モデル、やる」
薫は笑った。
だけど、薫はなぜ俺をモデルに選んだのだろう。俺の体は確かに大きいし、鍛えられているが、もっと映えそうな体のやつは他にもいるだろう。
絵を描いている間は会話もほとんどない。最初は色々と雑談していたが、だんだん薫が真剣になっていったので、自然と会話は無くなった。
モデルをしてずっと動かずにいると、思考だけがぐるぐると巡る。
いろんなことを考える。今日の晩飯はなんだろうとか、あのアイドルグループの今度のセンターは誰だろうとか、それから、野球部のこととか。
今度発表される試合のレギュラーに、自分は選ばれないかもしれない。自分のポジションに、下級生が入るかもしれない。考えないようにしたいと思うけれど、思考がそこに向かう。そこには、出口がない。
俺は自分のことを、物事を深く考えない方だと思っていた。あっさりと、さっぱりとしたタイプ。
だけどそれは、違ったのかもしれない。
俺はただ、考えないようにしていただけなんだろう。
不安な気持ちが、広がっていく。
何かに選ばれないこと、何かに選ばれること。自分も同じように選んでいるはずだ。毎日、毎日俺は何かを選んで何かを捨てている。なんて残酷なんだろう。
俺はポーズを取っているから、当然スマホを触ることもできない。誰かから何か連絡が来ているかもしれない。通知のバッヂの数字が増えていくのが想像できる。だけど、そんなのはほとんどがどうでも良いことなんだと、俺はこの何もできない時間を通じて知った。本当に緊急の連絡などは滅多に来ないし、本当に俺じゃなきゃ駄目なコミュニケーションも、きっとない。
でも、今ここに立っているのは俺なんだ。それは、俺じゃなきゃいけないんだ。薫の真剣な眼差しが、雄弁にそれを伝えてくる。
薫はきっと、きまぐれやなんとなくで俺を選んだんじゃない。
そう考えるだけで、俺の心にあたたかいものが注がれる。
「そろそろ、一回休憩しようか」
薫が言った。
俺は腕を下ろす。じんわりと痺れている。心地よい痺れだった。
「はい」
薫がスポーツドリンクをカバンから取り出して俺に差し出した。いつも、俺のために買ってくれている。最初は遠慮したが、毎回買ってくるので今は受け取っている。キャップを開けて流し込む。ぬるかった。
「そろそろできそうか」
そう尋ねる。
「うん。もうすぐ、完成する」
「そうか」
俺はそれだけ言って、スポーツドリンクを流し込んだ。勢い余って少しこぼれたその液体が、俺の胸筋の間を垂れていく。俺は手のひらでそれを拭った。手についた液体を臀部のスパッツで拭う。薫がこちらを見ていた。
「なんだよ」
「ううん。なんか、羨ましいなって」
「羨ましい?」
なんのことだ。
「
俺が話についていけず眉間に皺を寄せていると、
「そういう話」
それだけ言って、薫は手を洗いに行った。
作業が再開した。
俺はポーズをとりながら、薫の様子を確認する。腕が動いて、筆がカンバスの上を滑っている。薫の腕は細かった。
あの細腕から、あんな生命力に満ち溢れた絵が生まれるのだ。
俺は背筋が痺れる気持ちだった。
さっきの薫の言葉を思い出す。確かに俺は、誰かがぶつかってくることなんてない。わざとぶつかる人間がいるなんて、想像もしたことがなかった。それを薫は、羨ましいと言った。
頭を少し傾けて、肩の筋肉に預けた。膨らんだその弾力が、俺の頭を押し返す。俺は思う。
――それは、羨むようなことだろうか?
また俺は、ぐるぐると考え込んでいる。
いつの間にか日が傾いて、美術室がオレンジ色に染まっている。サッカー部かどこかの練習の声が聞こえる。明日の朝からまた部活だ。
流れる水が渦を巻いて、またあの排水溝に流れていく。考えの巡る先はいつもそこだ。
野球。
野球が好きだ。
俺は何よりも野球が好きだった。野球に対する気持ちは、誰にも負けてない自信があった。なのに最近、分からない。
俺は、本当に野球が好きなんだろうか?
野球は楽しい、はずだった。
俺の野球への愛情は、いつの間にか惰性になっていたのかもしれない。どうしても捨てられない、幼い頃から使っているシミだらけ毛布のような。
プロになりたかった。
プロになれないのかもしれない。だって、そもそも……。
――大学に入ったら、別のスポーツをやろうかな。
俺はそんなことを考えた自分が信じられなかった。
俺はそんなことを考えちゃいけないはずだった。
でも、考えてしまった。
野球は俺とは分かち難い存在だった。
野球なしの自分を想像できなかった。
もちろんプロになりたかったが、プロになれなかったとしても、何かのかたちで自分はずっと野球と生きていくと思っていた。
野球をどうして始めたのかはもう覚えていない。母親の話によれば、俺は自分で少年野球に入りたいと言ったという。多分、メジャーリーグに行った選手の活躍をテレビで見たからだろう。俺は子供の頃から体が大きかったし、運動神経も良かったから、すぐに活躍した。俺が初めてレギュラー入りしたとき、同じ学年のやつはまだ一人もいなかった。
もしあのとき俺がレギュラーになってなかったら?
俺は野球を続けていただろうか?
もし俺がこの肉体じゃなかったら?
そうしたら、俺は野球を楽しめただろうか?
「史治」
声が聞こえた。
「腕、下がってる」
「あ、……わりぃ」
俺は、腕を少し持ち上げた。高く持ち上げる。腕が軋むような感覚がある。まるで、磔にされているみたいだ。
俺は何かに囚われているのだろうか?
ぐるぐると渦を巻く思考。
目を強く瞑って、その渦巻いた水の栓を抜く。
集中するんだ。
「そう、そのまま。動かないで」
薫が言う。
俺は静止する。
動かない。それだけを考える。
石像になったみたいに、俺は止まる。石像になった俺を想像する。
その石像を、薫が買ってくれたらいい、そうして俺は薫に所有されて、鑑賞される。
どうしてそんなことを考えたのだろう?
馬鹿げた妄想だった。だけど、なんだかそれは、すごく素敵だと思う。
薫が、俺を見ている。どこを見ていても何も言われないので、俺は視線は自由に動かすことができた。だから今、薫を見つめ返す。薫は俺を見ているはずだけど、目が合わない。たぶん、俺の全部を見ているんだ。
俺は薫の前にあるカンバスを見る。木目で固定されたカンバス。その裏側に、どんな絵が描かれているのだろう?
今まで、何度か確認を促された。でも、薫が自分をどう描いているのか、俺は見なかった。大事なものは最後までとっておくタイプなのだ。
薫は、俺をどう描くだろう。
俺の逞しい体を、どう描くのだろう。
薫は俺を、雄々しく凛々しい存在として描くのだろうか? 薫があの筆使いで、俺の体を描いたら、どんな姿になるだろう。
そうであってほしいと思った。あの飛び立つカラスのような勇敢な姿で俺が描かれるのを見たかった。
でも、同時に、そうであってほしくなかった。俺は描いて欲しかった、ありのままの俺の姿を、ありのままに。
薫のいつになく真剣な表情を見て、完成が近いのだろうと思う。
もう、終わってしまう。この時間が終わってしまう。
完成した絵を見たい。俺が描かれた絵を見たい。
でも、完成して欲しくない。
俺は奇妙な気持ちになってくる。ずっと薫のモデルをしていたい。本当に俺は石像になって、飯を食べることも、煩わしい連絡もなく、ただずっと、薫の前に立っていたい。
だけど、世界にはもっと素晴らしいモチーフがいっぱいあって、薫はきっとこれからそういう素晴らしいものをその目で見て、あの筆で描いていくのだろう。
俺の頬をぬるいものが伝って、泣いてしまったと思う。
「わりぃ、ごめん、ゴミ入って……」
思わずポーズを崩し、慌てて目元を拭うと、薫が言った。
「大丈夫、お疲れ様」
見返した先の薫は、何かを成し遂げた顔をしていた。それだけで、俺は理解する。薫は言う。
「できました」
一人の男が立っている。
背景は、渦巻くような暗色。男は筋肉質な体をしている。男の体が、緊張し張り詰めているのがわかる。男は何かを叫ぼうとしているのかもしれない、いや、叫んでいるのかもしれない。
俺は何も言わず、そんな絵を、見つめていた。
薫は俺のすべてを見抜いていた。
そこには何の誇張もなかった。
見慣れた自分の肉体がそこにあった。そこに描かれているのは、俺に違いなかった。
――躍動感のある筋肉が、緊張しているのが伝わってくる。
俺は薫の前で、こんなに自分をさらけ出していたのかと思う。
それとも、薫が見抜いていただけなのか。俺は横に立つ薫を見る。薫が俺を見返してくる。真っ黒い大きな目で。
「今日まで、ありがとう」
そう言って薫は、俺に手を差し出した。握手を求めていると理解するのに時間がかかった。俺は自分の手がじっとりと汗ばんでいることに気がついて、慌ててまたスパッツで拭って、手を差し出した。
「すごい、マメだらけだ」
薫はどこか嬉しそうに言う。
「なあ、波多野」
「ん?」
呼びかけた俺に、薫が反応する。
「――なんでもない」
俺は、薫と手を離した。
脱ぎ捨てたシャツとズボンのところへ歩いていく。シャツに顔を通して、靴下とズボンを履く。
服を着た俺に薫が言う。
「おかげさまで、すごくいい絵になったよ」
そうか。
それは良かった。
俺と薫は、駅までの道を歩いていた。会話はなかった。スマホを触ることもしないで、俺たちは並んで歩いた。
空には丸い月が浮かんでいる。やけに大きい気がする。
「そういえば」
俺は思いつき、薫に尋ねた。立ち止まった俺に、薫が振り返る。
「あの絵、なんてタイトルなんだよ。俺の名前とかは、やめてくれよ」
また、薫は楽しそうに笑った。
「大丈夫だよ、そんなことしないから」
「で、なんてタイトルなんだ」
「それはね、前から決めてたんだ」
そう言うと、薫は向こうを向いてしまった。そして言った。
「――『青春』」
そのとき、何かの風が吹き抜けた、ということもなく、ただじっとりと汗ばむ空気が、ただ俺たちの周りに立ち込めていた。だけど俺は、その風を感じたかもしれない。
「そうか」
俺はそう言い、歩き出した。
あれが、青春か。
俺はなんだか面白くなった。思わず口から笑いが漏れた。
あれが青春だとすれば。
だとすれば俺は、野球をきっとやめるだろう。俺は俺の、何よりも大事なものを手放すだろう。それも、そう遠くないうちに。あの絵が、それを俺に教えてくれた。
青春。青春か。
野球をやめたら、俺はどうしようか。
やっぱり、何か新しいスポーツを始めようか?
ふと思う。
絵でも、描いてみようか。
美術の成績は2だし、絵なんて自分で描いたことなんて一度もないけれど。それでも、絵を描くというのはなんだかとても魅力的な提案だった。
俺はきっと、薫の描いた絵を思い浮かべて絵を描くだろう。
自分の才能のなさをずっと感じるだろう。
でも、それはもしかするととても楽しいかもしれない。そこから始めるのは、きっとそんなに悪いことではない。
描くとしたら、何を描こう。そんなことを想像しただけで、なんだか世界が違って見えた。そして俺は、すぐ近くにとても魅力的なモチーフがあることに気がついた。
「薫」
そして、振り返った顔は、
(完)
描破 数田朗 @kazta
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