海面すれすれ、そこに君がいる
@kobemi
海の底にいる
六限、最後の授業は数学だった。しかもテスト返し。憂鬱なものは精神的な作用で自然と質量を帯びて、時間割の底の方に沈殿する傾向にあるらしい。
高校二年になって知ったことだった。真偽のほどは定かではないけれど。
名前を呼ばれて、重い足取りで教卓に向かう。数学の先生は私の答案用紙を見ながらむつかしい顔をしている。分かっていますよ、ひどい有様だってのは。
受け取った後、ええいままよと点数の欄に視線を移す。正直なところ、見ないまま机の奥底に押し込んでしまおうと考えていた。でも結局、歪な好奇心が勝って確認せずにはいられなかった。
29点。惜しくも赤点だ。赤点に惜しいも何も、あったものではないけれど。
分かってはいたことなのに。存外にショックを受けている自分が可笑しかった。またとぼとぼと、重い足取りで自分の席に戻る。そしてその道中で、また歪な好奇心のために、私の視線は吸い寄せられるようにして、最前列の彼女の方に向かっていた。
がっちりと、レンズ越しに目が合う。切れ長の瞳。今日はまた一段と、その切れ味を増しているように思える。もしかしなくとも、睨まれてる……?
すぐさま視線を引っ込める。おーこわこわ。一体いつからあんなに冷たい目をするようになったのだろう。私のせいか?どうにも心当たりがあり過ぎるのがいけない。
「次、栗谷ー」
背後で、先生が彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。追い立てられるように、私はいそいそと自分の席に着く。
「どうだった、どうだった?」
「きもっちゃんは頭いい子ちゃんだもんなー」
席に着くや否や、周りの子達に囲まれた。一年の頃にはあり得なかったことだ。それだけでもう、テストの点数なんてどうでもよくなっていた。
「げげ!私と大して変わんないじゃん!」
おずおずと私が点数を見せると、前の席の子が声高に叫んだ。焦点は合っているはずなのに、水中から覗き見ているみたいにぶれぶれの顔。
「はは、私もここまでひどくなってるとは思わなかったよ」
自分の笑っている声はちゃんと聞こえた。でも、骨伝導?とかって言って、自分の聞いている自分の声と、他の人の聞く自分の声には知らず知らずの内に差異が生まれるものらしい。
今の私の笑っているその表情と、他の人の笑っている表情とを同時に見比べることはできない。集合写真を後から確認してみたこともあったけれど、思っていたよりずっとひどくて、笑い方一つとっても変に気を遣うようになってしまったからもうしないことに決めた。
きっと正解なんてない。どうしても距離は生まれるものなのだと思う。他の人のものとも、自分の理想とも。
その時、スマホが鳴った。私の学校は授業中にスマホを出せば没収されるけれど、それ以外の休み時間は使っていてもお咎めなしの、結構ゆるい校則だった。
数学のテスト返しはホームルームの時間になだれ込んでいて、そのまま帰りの挨拶が始まろうとしていた。六限が数学でよかったことは、数学の先生がクラスの担任だったから、ほんの少しだけ早く帰れることだけだ。といって本当に少しの差しかないのだけれど。
「あ!ねぇ、きもっちゃん。今日みんなでカラオケ行こ―って話になってるんだけど、きもっちゃんも行くよね?」
教科書をカバンに詰め込みながら、LINEを確認していたところを後ろの子に声をかけられた。
誘ってもらえるのはもちろん嬉しい。でも、今日は珍しく気持ちはぐらついていた。いつもだったら二つ返事でOKするところなのに、できなかったのはたぶん、テストがあまりに悲惨だったのと、ちょうどその時、揺り戻ろうとする力が働いていたからなのだと思う。
「ごめん、今日はちょっと用事があって。また今度遊ぼ」
「あ、そう。りょーかーい」
拝むポーズを作って謝ると、後ろの子は快く承諾してくれた。彼女の本心なんて知りようがないけれど、少なくとも嫌な顔をされなかっただけほっとした。
今日の放課後、教室に残ってて
ついさっき送られて来た、簡素なLINEの文面が頭をよぎる。カラオケのお誘いを断ったんだ。それに見合う価値のあることでないと困る。そんなことを考えている内に、先生が終わりの挨拶を日直に呼びかけた。
周りの子達はびっくりするくらいのスピードで、すぐさま教室を飛び出して行く。気持ちは分かるし、私だってそうしたい。みんなと一緒に、モールにでもどこにでも、繰り出して行きたかった。
でもそれと同じくらい、久方ぶりに彼女と話をすることを楽しみにしている自分がいた。そもそもどうしてこう距離ができてしまったのか、やっぱり私が原因のような気がする。容量が悪いから、二つとも全部なんて器用なことのできなかった私がいけなかったのだ。
「そうやって呆けてる時間があるんだったら、少しでも勉強しなさいよ」
絞ったら雫の垂れそうなくらいに、嫌味に二三日漬け込んだみたいな言葉が飛んできて、私はすぐに臨戦態勢をとる。いつの間にか目の前に来ていた言葉の主は、私の鋭い視線をものともしないで、悠然と構えていた。
「そんなの私の勝手でしょ。ていうか、久しぶりに話すのにずいぶんとご挨拶だよね」
「あんな点数取っておいて、よくもまぁ、そう呑気でいられるわね」
カバンを下ろして、彼女ー栗谷温子は私の前の席を逆向きにして、向かい合う格好にして腰を落ち着ける。
「なに、見たの!?」
「あんだけあからさまにとぼとぼ歩いてたら、見えなくたって分かる」
「じゃあ、見てたってことじゃない!さいあく!」
「最悪なのは、あなたの点数の方でしょ?」
相変わらずの減らず口だ。そのしてやったりみたいな顔もむかつく。
また前みたいになんて、期待した私がばかだった。温子とは一年生の頃に、入学式で隣になって仲良くなった。毎日のようにお昼だって一緒に食べていたし、あの頃はまだ私も成績はよかったから、教え合いっこみたいなこともよくしていた。
でもそれは一年の頃だけのことで、二年に上がって、彼女が生徒会長に立候補して忙しくし出してからというもの、温子はいつもぴりぴりするようになった。もともと神経質な子ではあったと思うけれど、その性質は顕在化して、また先鋭化もして、よくない方へとばかり突き進んで行っているような感じだ。
それでも温子自身は上手くやれていると思っているみたいだから、余計にたちが悪いというものだ。
「で?なに?わざわざそんな悪口言うために、教室残ってなんてLINEしてきたわけ?」
なるだけ皮肉を込めて言ったつもりだったけれど、眼鏡のレンズ越しだといまいち彼女の表情は窺えなかった。そうだ。この飴色フレームの眼鏡だって、私と温子が出会った高一の頃から変わったことの一つだった。
「それもある。でも一番は……」
「なに?もったいぶらなくたって」
「瞳の成績があんまりにもあんまりだから、勉強見てやってくれって頼まれたの」
「誰に?」
「そりゃ先生以外にいないでしょ」
ぴしりと言い放たれてしまって、それだけで私はもうなんだか堪えてしまった。まさか先生に目を付けられてしまうほど、事態は悪化しているものとは思っても見なかったからだ。
「私よりひどい点数取った人、もっといっぱいいるだろうに。なんで私だけ?」
「そんなの知らない。……さ、こうやって話をしてるうちに、どんどん期末テストの時日は近づいてるんだから。早くさっきのテスト出しなさい」
その後は、先生を気取った温子にテストの出来の悪さをこれでもかとなじられ続けた。彼女の解説にはいちいち私への嫌味や皮肉がセットになっていて、その度にけんかになるから、テスト直し一つ終わらせるのに夕方近くまでかかってしまった。
部活動をしている生徒たちへの帰宅を促す最後のチャイムが鳴ったとき、
「ここまでひどいとは思わなかったわ。明日からは毎日教室残ってなさい。期末まで私が全教科みっちり教えて差しあげますからね」
腰に手を当てて仁王立ちをする温子の姿は、幼稚園の頃、お受験の勉強をさせられて泣いている私のお尻をこれでもかと叩き続けた母のことを思い出させた。
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