タイムスリップ - 罪の清算
及川明
第1話
夕暮れの光が障子を通して薄暗い和室に差し込んでいた。八十九歳の佐々木清は、畳の上に敷かれた布団の上で横たわっていた。その隣には、八十五歳の妻、佐々木みどりが座り、夫の手をそっと握っていた。
「みどり…」清の声はかすれて、弱々しかった。「もう、長くはないんだ」
みどりは涙をこらえながら頷いた。「大丈夫よ、清さんあなたはずっと私のそばにいてくれた。七十年もの間…」
七十年の結婚生活。二人の子供と五人の孫、そして三人のひ孫に恵まれた人生だった。清とみどりの長い人生は、日本の戦後復興と共に歩んできた道のりでもあった。
「あの日から、随分と時が経ったな…」清はぽつりと言った。みどりには、夫が何について話しているのか分かっていた。あの戦争の日々のことだ。
清は太平洋戦争の最中、若き兵士として南方の島々で戦った。彼が二十歳の時、陸軍に志願した。多くの戦友を失い、奇跡的に生還した清だったが、戦場での記憶は深い傷となって彼の心に刻まれていた。
「みどり…俺は…」清は言葉を詰まらせた。
「俺はずっと言えなかったことがある」
みどりは静かに夫の手を握りしめた。「なんでも話して、清さん」
「戦場で…俺は人を殺した」
みどりはゆっくりと頷いた。「戦争だったのよ、清さん。あなたは兵士だったのですから」
「いや、それだけじゃないんだ」清の目には涙が浮かんでいた。「一人の日本兵を…戦友を…」
みどりは息を呑んだ。
「怖かったんだ」清は震える声で続けた。「島を撤退する時、彼が負傷していて…敵に見つかれば皆が危険だった。彼は『置いていけ』と言ったが…俺は…彼の苦しみを終わらせようと…」
清は顔を背けた。「七十年間、この罪を抱えて生きてきた。許されることのない罪だ」
みどりは夫の老いた頬に優しく触れた。
「清さん、あなたはその後、何十人もの命を救ってきたじゃない。医師として」
戦後、清は、地方の小さな診療所で医師として働いた。彼は田舎町の多くの人々の命を救い、尊敬される存在となっていた。
「償いにはならない」清はつぶやいた。
「彼の名前は山田…山田和彦…顔を忘れたことはない…」
部屋の空気が変わりみどりが身じろぎ一つしない状況にまるで時が止まったかの様だった。
清は、部屋の隅に立つ人影に気づいた。
黒い着物を着た老人が、静かに清を見つめていた。
「佐々木清様」老人は低く落ち着いた声で言った。
「私はあの世の案内人で御座いますお迎えに参りました」
清はゆっくりと頷いた。
「分かっていた…もう時間なのですね」
老人は頷いた。「しかし、あなたには選択があります」
「選択?」
「あなたの魂は重い罪を背負っています。このままでは、あの世で安らぎを得ることはできないでしょう」老人は言った。
「しかし、あなたが医師として多くの命を救ったことも事実です。だからこそ、一度だけ、過去に戻り、あなたの犯した罪と向き合う機会を与えましょう」
清は目を見開いた。
「過去に…戻るのですか?」
「はい、山田和彦との別れの日に」
老人はうなずいた。
「あなたがどう行動するかで、魂の行く末が決まります」
清はみどりを見た。時が止まっていると言うのにみどりの目には何処か私を元気づける様な感情が浮かんでいたが、彼女の手を強く握り
清は老いた妻に向き直り、最後に彼女の手に口づけをした。「七十年間、ありがとう、みどり。あなたと出会えて幸せだった」
清は老人に向き直った。「行きましょう」
老人は頷き、清の額に手を置いた。「目を閉じなさい」
清は目を閉じた。体が軽くなり、意識が遠のいていくのを感じた。遠くで、みどりの泣き声が聞こえた。
そして、別の音が耳に飛び込んできた。爆発音。銃声。叫び声。
清は目を開けた。彼は太平洋の小さな島にいた。身体は若く、手には銃があった。空には戦闘機が飛び交い、そして彼の目の前には…負傷した山田和彦が横たわっていた。
---「佐々木!早く来い!撤退するぞ!」
遠くから聞こえる声に、清は我に返った。彼の周りは混沌としていた。砲撃の音、叫び声、そして死の匂い。これが彼の若き日々の現実だった。太平洋戦争の最前線、1945年、マリアナ諸島のどこか。
清は自分の身体を見つめた。かつての若さと力が戻っていた。二十歳の自分、ただの一兵士だった頃の自分。
「こ、これは…」
言葉が口から漏れるが、その声も若かった。時間が巻き戻ったのだ。そして目の前には、負傷して倒れている山田和彦がいた。前回の人生で、清が命を奪った戦友。
「佐々木…」山田は苦しそうに言った。「行け…俺はもう…」
山田の脚は砲撃で吹き飛ばされ、腹部からは血が流れ出ていた。生存の見込みはほとんどない。前回の人生で、清はこの瞬間に決断を下し、山田の苦しみを終わらせるために彼を殺した。そして七十年間、その罪の重さと共に生きてきた。
「山田!まだ諦めるな!」清は叫んだ。今回は違う選択をしようと心に決めていた。
清は急いで応急処置を始めた。彼はまだ本格的な医学の知識を持っていなかったが、未来で身につけた医師としての経験が、彼の手を導いた。止血帯を作り、傷口を抑える。
「何をしている!早く来い!」小隊長の須藤が叫んだ。「敵が迫っているぞ!」
清は一瞬、頭の中で計算した。このままでは山田を運び出すことはできない。しかし、山田を見捨てることはできなかった。前の人生での罪を繰り返すわけにはいかない。
「小隊長!山田を運び出します!」清は叫び返した。
小隊長は唇を噛んだ。「無理だ、佐々木!敵の大部隊がすぐそこまで来ている。山田はもう…」
「見捨てません!」清は決意を込めて言った。「どうか、少し時間をください」
小隊長は一瞬迷った後、頷いた。「五分だけだ。それ以上は全員の命が危ない」
清は急いで山田の傷の手当てを続けた。山田は意識が朦朧としていたが、清の顔を見上げた。
「なぜ…佐々木…」
「黙って!力を温存しろ!」清は言った。「生きて帰るんだ、山田。お前には帰りを待つ人がいるだろう?」
山田の目に涙が浮かんだ。「母と…妹が…」
「そうだ。彼らのために生きるんだ」
清は傷口を圧迫しながら、簡易的な担架を作る方法を考えた。すぐ近くにある木の枝と、自分の上着を使えば…
突然、銃声が鳴り響いた。清は本能的に身を伏せた。敵の斥候部隊が彼らの位置を発見したのだ。
「佐々木!時間切れだ!」小隊長が叫んだ。
清は決断を迫られた。山田を置いていくか、それとも…
「小隊長!私が敵を引きつけます!その間に、皆で山田を運び出してください!」
「何を言っている!それは自殺行為だ!」
清は苦笑いを浮かべた。「私は…必ず追いつきます。信じてください」
清は自分が嘘をついていることを知っていた。しかし、これが彼の償いの方法だった。前の人生で犯した罪を、今度は自分の命と引き換えに清算するのだ。
小隊長は清の決意を見て取り、重々しく頷いた。「分かった。だが、できる限り早く態勢を立て直して、お前を迎えに戻る」
清は銃を手に取った。「山田を頼みます」
須藤と残りの兵士たちは、急いで山田を担架に乗せて引き揚げ始めた。清は逆方向に走り出し、意図的に音を立てて敵の注意を引いた。
彼は丘を駆け上がりながら、振り返って山田たちが無事に撤退していくのを確認した。そして、敵兵の姿が見えた瞬間、彼は発砲した。
彼の脳裏には、みどりとの七十年の記憶が走馬灯のように流れていた。彼女との出会い、結婚、子供たちの誕生、そして医師として働いた日々。彼が経験したすべての人生が、この瞬間のために存在したかのように思えた。
「みどり…さようなら」
銃声が鳴り響いた。清は胸に激痛を感じ、地面に倒れた。彼は青い空を見上げながら、笑みを浮かべた。
「これで…許されるかな…」
彼の意識が遠のいていく中、不思議な光が彼を包み込むのを感じた。
第二章 - もう一つの選択
清は目を開けた。彼はまだ同じ戦場にいたが、状況が変わっていた。
「どうした、佐々木?ボーっとしているな」
声の主は小隊長だった。清は混乱した。さっき自分は撃たれたはずだが…
彼は周りを見回した。同じ風景、同じ状況、そして…同じく負傷して倒れている山田。
「何が…」
清は理解した。あの世の使者は彼に「一度だけ」と言ったわけではなかった。「何度でも」正しい選択をするまで、この瞬間に戻ってくるのだ。
これは二度目の機会だった。
前回、清は自己犠牲を選んだ。それは勇敢な行為だったかもしれないが、結局は逃避でもあった。彼の罪から逃れるための簡単な道だった。本当の償いはそうではない。
清は深く息を吸い込んだ。
「小隊長、山田を運び出します」彼は言った。「しかし、今回は別の方法で」
清は急いで周囲を見回した。彼らがいたのは小さな林の近くだった。木々の間には隠れる場所がある。
「敵は北から来ています」清は確信を持って言った。彼は前回の経験から、敵の動きを予測できた。「南の低地を通って撤退すれば、発見されにくいはずです」
小隊長は眉をひそめた。「どうしてそれが分かる?」
「直感です」清は言った。「信じてください」
小隊長は一瞬考え、頷いた。「分かった。だが、山田は…」
「私が担ぎます」清は言った。
彼は山田のもとに駆け寄り、応急処置を施し始めた。前回よりも効率的に、そして確実に。
「佐々木…俺を置いていけ…」山田は苦しそうに言った。
「黙れ」清は言った。「お前は生きて帰るんだ。母親と妹のために」
山田の目が驚きで見開かれた。「どうして知っている…?」
清は答えず、山田の体を持ち上げた。若い身体の力を存分に利用して、山田を背負った。
「行くぞ!」清は小隊に声をかけた。
彼らは南の低地へと向かい始めた。清は山田の体重で苦しんだが、彼の医師としての知識が、負傷者を運ぶ最適な方法を教えてくれた。そして何より、彼には強い決意があった。
彼らが低地を半分ほど進んだとき、北から銃声が聞こえた。敵が彼らの元の位置を発見したのだ。清の予測は正しかった。
「急げ!」
彼らは懸命に進んだ。清の肩には山田の血が染みていた。山田の意識は朦朧としていたが、まだ生きていた。
「もう少しだ、山田」清は囁いた。「諦めるな」
突然、清は足元の地面が崩れるのを感じた。隠れた地雷原だった。彼は恐怖で体が硬直した。一歩間違えれば、彼も山田も…
「動くな!」小隊長が叫んだ。「地雷だ!」
全員が凍りついた。清は慎重に周りを見回した。彼らは地雷原のど真ん中にいた。どちらに進むべきか…
その時、遠くから敵の声が聞こえてきた。彼らを追ってきたのだ。
「どうする…」小隊長は震える声で言った。
清は深く考えた。前の人生で、彼は医師として多くの危機的状況に対処してきた。冷静さと正確な判断力が必要だった。
「私が先に行きます」清は言った。「私の足跡を正確になぞってください」
須藤は驚いた顔をしたが、反論しなかった。
清は山田を背負いながら、一歩一歩、慎重に前進し始めた。彼は地面のわずかな変化、不自然な盛り上がりを見逃さないように目を凝らした。一歩、また一歩…
彼らは息を殺して進んだ。敵の声はどんどん近づいていた。
そして、奇跡的に、彼らは地雷原を抜けた。
「急げ!」清は言った。「あと少しで合流地点だ!」
彼らは最後の力を振り絞って走った。そして、ついに日本軍の待機していた場所にたどり着いた。医療兵が駆け寄ってきた。
「負傷者だ!すぐに手当てを!」
山田は担架に移され、すぐに治療が始まった。清は疲れ果てて地面に座り込んだ。
「よくやった、佐々木」小隊長は彼の肩を叩いた。「お前がいなければ、山田は…いや我々全員が危なかった」
清は微笑んだ。今回、彼は正しい選択をした。山田の命を救い、そして自分自身もこの世に残ることを選んだ。
彼が空を見上げると、黒い着物の老人が彼を見下ろしていた。老人は静かに頷き、そして消えていった。
「ありがとう…」清はつぶやいた。
しかし、彼の戦いはまだ終わっていなかった。
山田は一命を取り留めたが、その状態は依然として危険だった。彼は野戦病院に運ばれ、清も同行した。
清は医療テントの外で待っていた。彼の手は血で染まっており、疲労が体中を支配していた。しかし、彼の心は決意に満ちていた。
「佐々木上等兵」
声がした。振り返ると、野戦病院の医師、中村大尉が立っていた。
「山田はどうですか?」清は急いで尋ねた。
大尉は深刻な表情をした。「我々は最善を尽くしているが…正直言って厳しい。失血が多すぎる。それに、この環境では適切な手術も難しい」
清は拳を握りしめた。彼は未来で医師になった自分の知識を持っている。現在の医療技術の限界を知っているが、同時に、改善できる点も理解していた。
「大尉、私に手伝わせてください」
大尉は眉をひそめた。「何?」
「私は…医学の知識があります」清は言った。「何かお手伝いできることはないでしょうか」
大尉は清を疑わしげに見た。「君は兵士だ。医療は我々の仕事だ」
「でも、人手が足りていないでしょう?」清は食い下がった。「少なくとも、雑用なら手伝えます」
大尉は一瞬考え、ため息をついた。「確かに人手は足りない。いいだろう、来なさい。だが、指示に従うことだ」
清は頷き、医療テントに入った。
テント内は悲惨な光景だった。負傷した兵士たちが至る所に横たわり、うめき声が空気を満たしていた。医療スタッフは少なく、皆疲れ果てた表情をしていた。
山田は隅のベッドに横たわっていた。彼は青白い顔をし、意識がなかった。
「まず、包帯を持ってきなさい」中村は指示した。「あそこの棚にある」
清は言われた通りに動いた。彼は未来での医師としての経験を思い出しながら、効率的に準備を進めた。
数時間が過ぎた。清は大尉の指示に従いながらも、時折、自分の知識に基づいた提案をした。最初、中村は清の提案に懐疑的だったが、その効果を目の当たりにして、徐々に彼の言葉に耳を傾けるようになった。
「どこでそんな知識を身につけた?」
「本で読んだことがあります」清は曖昧に答えた。
夜が明けるころ、山田の状態は安定し始めた。彼はまだ危険な状態にあったが、最悪の事態は脱していた。
清は疲れ果てていたが、満足していた。彼は山田の命を救うために全力を尽くした。そして、それは彼の償いの一部だった。
「佐々木少し話そう」
彼らはテントの外に出た。朝日が地平線から昇り、新しい日の始まりを告げていた。
「君は並外れた知識と直感を持っている」大尉は言った。「普通の兵士ではないな」
清は黙っていた。
「戦況は厳しい」中村は続けた。「我々は撤退を余儀なくされるだろう。しかし、負傷者たちをすべて運び出すことはできない」
清は緊張した。「どういう意味ですか?」
「重傷者は…置いていくしかない」中村は苦しそうに言った。「軍の命令だ」
清は息を飲んだ。これは彼が前回の人生で直面した状況だった。そして、その決断が彼を七十年間苦しめたのだ。
「それは…できません」清は強く言った。
「命令だ」大尉は冷たく言った。
「では、私が責任を持ちます」清は言った。「私が山田と他の重傷者を運び出します」
「無理だ。そんな余裕はない」
「方法はあります」清は考えを巡らせた。「小さなグループで先に出発し、安全なルートを確保します。それから、残りの部隊が来る」
大尉は疑わしげだった。「そんな計画が通るとは思えない」
「大尉、お願いします」清は懇願した。「彼らを見捨てることはできません。彼らには帰りを待つ家族がいるんです」
大尉は清を長い間見つめた後、ため息をついた。「提案は上に伝えよう。だが、期待はするな」
清は頷いた。これが彼の戦いだった。前回の人生での過ちを繰り返さないための戦い。
その日の午後、清は再び野戦病院で働いていた。山田は目を覚まし、弱々しい声で話し始めた。
「佐々木…なぜ俺を…」
「黙っていろ」清は優しく言った。「力を温存するんだ」
「お前は…危険を冒して…」
「当たり前だ」清は微笑んだ。「我々は戦友だ」
山田の目に涙が浮かんだ。「ありがとう…」
清は山田の手を握った。「必ず帰すぞ、山田。約束する」
夕方、大尉が戻ってきた。彼の表情は硬かった。
「上層部の決定が下った」彼は言った。「明朝、全軍撤退。重傷者は…」
「置いていく!?」清は声を張り上げた。
中村は目を逸らした。「すまない、佐々木。命令だ」
清は怒りに震えた。しかし、怒りは建設的な解決策をもたらさない。彼は冷静に考える必要があった。
「何時に撤退が始まるのですか?」
「午前五時」
清は頭の中で計画を練った。「分かりました」
中村は去っていった。清は山田のベッドに戻った。
「何があった?」山田は弱々しく尋ねた。
「何でもない」清は微笑んだ。「休みなさい。明日は長い一日になる」
山田は頷き、再び眠りについた。
清は静かに立ち上がり、テントの外へ出た。彼は決断を下していた。命令に従うふりをして、実際には別の計画を実行するつもりだった。
彼は信頼できる数人の兵士を集め、密かに計画を説明した。彼らは最初は躊躇したが、清の情熱と決意に動かされ、協力することに同意した。
真夜中、清と彼の仲間たちは行動を開始した。彼らは静かに重傷者たちを担架に移し、準備を整えた。
「いいか、誰にも気づかれずにこの森を抜け、南の浜辺へ向かう」清は囁いた。「そこには小さな漁船がある。それを使って、隣の島にある連合軍の基地に向かう」
「捕まったら、処刑されるぞ」一人の兵士が言った。
「分かっている」清は頷いた。「だが、これが正しいことだ」
彼らは静かに夜の闇の中を進んだ。清は山田の担架を自ら担いだ。彼らの前には長く危険な道のりが待っていた。
闇の中、清と彼の仲間たちは慎重に森を抜けていった。風の音と彼らの足音だけが、静寂を破っていた。清は山田の担架を持ち、額に汗を浮かべながら前進した。
「もう少しだ」清は山田に囁いた。山田は意識が朦朧としていたが、かすかに頷いた。
彼らの小さな一団は、六人の重傷者と四人の健常な兵士で構成されていた。清は先頭に立ち、安全なルートを見つけながら進んでいった。彼の頭の中には、七十年後の人生で得た知識と経験が詰まっていた。
「敵の哨戒が近くにいるはずだ。注意しろ」清は仲間たちに警告した。
予想通り、彼らは敵の哨戒に遭遇した。しかし、清はその可能性を予測していた。彼は手信号で一団を止め、低い姿勢で敵を観察した。二人の敵兵が、たき火の周りで談笑していた。
「どうする?」一人の兵士が囁いた。
清は考えた。彼の目的は人を殺すことではなく、命を救うことだった。「彼らが気づかないうちに迂回する」
彼らは慎重に森の中を迂回し、無事に敵の哨戒を避けることができた。
夜明け前、彼らはついに浜辺に到着した。清が言った通り、そこには小さな漁船があった。それは老朽化していたが、まだ使えるようだった。
「急げ。夜明けまでにここを出なければならない」
彼らは急いで重傷者たちを船に乗せた。エンジンは古かったが、幸いにも動いた。
「佐々木、もう撤退が始まっているだろう。我々は軍を裏切ったことになる」一人の兵士が不安そうに言った。
清は彼の肩に手を置いた。「私は君たちに強制していない。ここで降りてもいいんだ。でも、私はこの人たちを見捨てるわけにはいかない」
誰も船を降りなかった。彼らは全員、清の決意に動かされていた。
船は静かに浜辺を離れた。海は穏やかで、彼らの逃避行を助けているようだった。
「あと数時間で隣の島に着く」清は言った。「そこには連合軍の野戦病院がある。彼らは負傷者を受け入れてくれるはずだ」
「捕虜になるということか」一人の兵士が言った。
「そうだ。だが、それが彼らが生き延びる唯一の方法だ」
船は静かに海を進んでいった。太陽が昇り始め、新しい一日が始まった。
連合軍の基地に到着すると、彼らはすぐに拘束された。しかし、清が予想していた通り、医療チームは重傷者を受け入れ、治療を始めた。
「あなたたちは捕虜として扱われますが、命は保証されます」連合軍の将校が清たちに告げた。
清は安堵した。彼の計画は成功した。山田と他の重傷者たちは適切な治療を受け、生存の可能性が高まった。
しかし、彼らの行動は日本軍にとっては裏切りだった。戦後、彼らは軍事法廷にかけられることになった。
1946年、東京。清は軍事法廷の被告席に立っていた。
「佐々木上等兵、あなたは戦時中、直接の命令に背き、敵に投降したという罪で告発されています」裁判長が言った。
清は静かに立っていた。彼の心は穏やかだった。彼は正しいことをしたと信じていた。
「あなたの行動は、日本軍の規律を著しく損なうものです。しかし、あなたがそうしたのは負傷した仲間を救うためだったという証言もあります」
清は目の前の裁判官を見つめた。「私は自分の行動を悔いていません。私の責任は命を守ることでした」
法廷は静まり返った。
「被告人、最後に何か言いたいことはありますか?」
清は深く息を吸い込んだ。「私は医師になるために学んでいました。戦争が始まり、兵士として従軍しましたが、私の使命は変わりません。命を救うことこそが私の役目です。軍律に背いたことは認めます。しかし、人としての道義に従ったことは誇りに思います」
裁判長は長い間、清を見つめた後、判決を下した。
「佐々木清、あなたは軍律違反の罪で有罪です。しかし、その行動の動機と戦後の情勢を考慮し、禁固三年の刑に処します」
清は頷いた。三年の刑期は、彼が予想していたよりも軽かった。そして何より、彼は山田の命を救ったのだ。
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