荊鞭の乙女(試作版)
きめら出力機
chapter 0.「パティ・ストーク 〜蒼を知らない瞳〜 」
第1話 「カントリー・ロード」
炭鉱街の少女は、海をその目に映しはしない。どれだけ海の蒼さを語ってみても、きっと青空程度に思ってしまうのだろう。そして、海の涙の様なサファイアを掴んで、空を夢見る。滑稽な気さえしてくるが、見える世界とはつまりそういう物だ。知らぬ者には分からぬ答えがいつも潜んでいる。
──鞭使いよ!
そう言って、彼女らを見つめる少女の瞳は炭鉱街の少女の眼だ。真実を知らずに、不相応な世界を描く。しかし、そういう無知がなければ、挑戦なども無い。犠牲無くして、平穏は無い。──彼女らは“
***
一本のあぜ道が伸びていた。その道の上には何人もの行商人が通った様な車輪のわだちが出来ている。それに乗れば易々と苦労もせずに、辿り着けるだろう、何処であったとしても……そんな確信を上擦った声に載せ、パティは客人に声を掛ける。
「この様子なら、1時間も掛からずに辿り着けそうです。もっと、急いだ方が良いでしょうか?」
パティの問い掛けに客人は少し身を振って思案した。お召した黒いドレスが馬車の車輪に挟まりそうになるので、パティは思わず手で布を引いた。
「……ありがとう。親切ついでに返事もするわ。時間通りで結構よ。1時間半きっかり。急ぎ過ぎると文句を言われるんだから」
「分かりました」
パティは会釈をすると、手綱を掴み、馬を緩やかに走らせた。客人はうっとりした瞳で木陰が伸ばす安らぎを楽しんでいる。こうしていると、普通の少女の様に思えてくる。そんなパティの不相応な親近を諌める様に、ちらりと懐から鞭が見え隠れする。薄らと、紅い棘が付いていた。
──鞭使い。
恵まれぬ全ての少女の憧れであり、人類の希望。パティもまた彼女らを信奉者の一人であった。
***
「女の子の運転士なんて、珍しいね」
峠を越えた辺りで、客人がそう語り掛けてきた。街はもうそろそろと言った所だった。
「はい、この街だと私ぐらいですかね。西の方なんかだと、人手が足りないだなんて言って雇ってくれるみたいですけど……」
パティはそう答えた。客人はふんと、軽く鼻を鳴らしてパティの言葉を待った。
「私なんかは、その……お金がありませんから。孤児でして……運転士をするにしても、自動車は扱えないんです。つまり……」
「乙女でいられる身分じゃなかった……かしら?」
客人は笑いを堪える様に口に手を当てた。くだらない話をしてしまった。パティは思わず赤面してしまうが、客人は気にした様子も無く続けた。
「良いのよ。別に。……私も、というより、鞭使いの多くは貴方の様な孤児。気持ちはよく分かるわ……」
「……そうですね……」
あの、晴れやかなドレスが。血の気の引いた美しい柔肌が。元は私と同じ?到底、信じられる話ではなかった。だが、その事実が少女達の中で拭えぬ希望となっているのだ。
そんな会話をしていると、街が見えて来る。客人は馬車から身を乗り出して、街の方を眺めた。
「ああ、あそこよ。あの大きな時計塔の広場。そこに停めて頂戴」
パティは返事の代わりに手綱を引っ張った。車輪はぎこちなく止まり、鈍い音を出しながら止まった。
「ご乗車ありがとうございました」パティは胸に手を当ててお辞儀をする。「お気を付けて」
客人はそんなパティの口調に多少、面食らった様に目を丸くしたが、すぐに口元を緩ませながら言った。
「貴女もお気をつけて。貴女の様な子が死んでしまう世の中なら私、嫌になるもの。……ヨハナ・モシロック。それが、私の名前。貴女は?」
「パティ。パティ・ストークですッ!」歓喜に潤んだパティの瞳は海の涙色であった。
「お元気で、ストークさん」
ヨハナはゆったりと馬車を降りると、目の前に広がった広場を見つめた。ここが広場かとため息を漏らすと、独り言の様に呟く。誰かに対してハッキリ言っている素振りは無いが、的は絞っている。そんな鋭い声色であった。
「そこのど腐れ。醜い猿芝居はよしなさい」
民衆はどよめいて、キョロキョロと辺りを見回す。そして、ヨハナの黒いドレスを認め、ようやく言葉の意図を理解した。
「こ、この中に魔獣が混ざっているのかッ!?」
ヨハナは答えなかった。答える必要など無いのだから。ヨハナは徐に腰に手を当てて、そこから鞭を音もなく取り出す。その間の彼女の視線は、小さな葉の揺れすら動きも見逃さない猫の様であった。アクションを起こして、変化を見る。
──そういう、“慣れ”が彼女の全てから感じられた。
──ビキッ、ビキッ………。
ヨハナの鞭はその姿を民主の前に現すと、徐々に棘を表面に広げていった。表に、それから裏に、タイルに流れる水の様に滑らかに伸びていく。パティの眼にはその鞭が酷く痛々しく、美しく映った。紅い棘が生え終えると、ヨハナは天を突くように鞭をしならせ、胸元に引き寄せる。
「飢えた獣が、服を着てッ!」
店先の商品を入れ替えていた青年の脳天を、レイピアの様な一突きで捉えると、そのままヨハナは思い切り捻じ込んだ。鞭の棘は青年の脳天から溢れんばかりの裂傷と血液を生み出し、ヨハナはそれを確認すると、鞭を横薙ぎに振って、すぐに青年を民衆の足元へ放り捨てた。青年の死体はぐつぐつと煮え繰り返って、桃色の体表へと変わっていき、一つ目の異形へと変わっていった。
「チッ、この服、気に入ってたのにっ……」
ヨハナはそう言い放つと、その美しい顔を歪ませてぎこちなく笑った。
──黒い薔薇に赤みが差している。
パティはそんな彼女をもう一度馬車に迎え入れると、突然、声が掛かった。女の声だ。
「待ってよッ!どうして、私の夫をそんな簡単に殺せるのよぉッ!」
女の手には、化けの皮が剥がれ、一本角と一つ目が覗き見える怪物となった青年の姿があった。民衆はそんな彼女を冷ややかな目で見ていたが、ヨハナはそうでは無かった。ただ、ドレスを手で払って馬車に足を掛け、気にも留めない。とても公平な態度だ。
「パティ・ストーク。私は宿に帰ります。此処から一時間きっかり。よろしくって?」
「え、えぇ。でも……」
パティの視線の先では、女が歪な形状をした手で爪を立てて、ヨハナを睨んでいる。ヨハナは煙たがる様に人差し指と親指で自身の前髪を払って見せた。
「二度も同じことを言わせないで頂戴。……パティ・ストーク。私は宿に帰ります」
パティが前席に乗り込むと、馬はいなないて馬力を上げる。その炭鉱街の少女の眼は少し、曇って……しかし、その輝きは、やはり未だ海を知らないままであった。ヨハナはそんな彼女の瞳を冷ややかに見つめると「パティ・ストーク……」と試す様に呟いた。
***
「着きましたよ。鞭使い様」
パティが手で降りるよう促すと、ヨハナはだらけた様子で礼を言って降りた。どうやら、車内で眠っていたらしく寝癖がピンと立っていた。肩を回しながら、ぶつぶつと独り言を言うヨハナを眺めていると、パティの視線に気付いたのか、ヨハナは小走りで宿内に戻っていた。
「あ……うぅ、面目ない……はしたない真似しないでよ、パティぃ……」
しかし、馬の縄を解いて帰ろうとした時に、また声が掛かった。
「パティ・ストーク、お入り。許可は取ったわ」
「へ?」
所在無くて口をパクつかせていると、焦ったそうにヨハナが手をグイッと引いた。ヨハナに手を引かれ、そのまま部屋に入ると背の方で扉が閉まる音がした。逃げられない。元よりそんなつもりは無かったが、確認する様に脳がその事実を反芻してみせた。ヨハナは鞭をハンカチでなぞる様にして拭きながら、此方を見るでもなく覗いていた。
「どうして、私なんかを招いたんです?鞭使い様」
「愚問ね。パティ・ストーク、訳なんか無いわ……でも、そうね。貴女次第かしら」
「と言いますと……?」
パティが首を傾げて言葉を待っていると、ヨハナは窓を見やって「来たみたい」と呟いた。何が、と聞いても答えてはくれないのだろう。観念した様にパティは黙り込んでいると、扉を叩く音がした。無遠慮で、女を相手取るにはガサツなリズムだった。
「入るぞ。ヨハナ」
ヨハナが扉越しに男を招くと男はズケズケと入り込んできた。男は一瞬、パティの方を見て脚を止め、それから直ぐに思い直した様に、ヨハナの前にスーツケースをドサっと置いた。中身は報酬だろうか?木製の机がズッシリとした重みに軋む音がした。
「ヨハナ。また、黙って仕事をしたな。街の連中に説明を付けるのに苦労したぞ。こういう態度は辞めにして欲しいものだな」
男はヨハナをやんわりと叱る様にして言うが、その顔は意地悪に歪んでいる。建前すら通せぬ、苛立ちに満ちた表情だ。男のそれが嫌味だと分からないでいるかの様に、ヨハナは鬱陶しそうに鞭をいじくっていた。男もその嘲りを当然分かっているのだろう。小さく舌打ちをすると、頭を掻く仕草を見せると面倒臭そうに続けた。
「お前がラクをするのは勝手だがな。そうすると、後任が苦労する事になる。お前だって、他の鞭使いを相手取るの様な苦労は避けたいだろう?」
「ハムスターだって共喰いぐらいするわ。あんなにお可愛いのに……昆虫めいてさ……鞭使いだって、そういう様が自然とは思わなくって?」
「思わないね。お前のそれは責任逃れだ。まったく、お前は私が後見した鞭使いの中でも最悪の部類だね」
男の言葉にヨハナの視線がとうとう、手元の鞭から離れた。鞭は随分前から血を吹き切れていた様で、褐色の艶を表面に取り戻していた。
「どうしてこう、私の嫌いな奴は全て……口振りから嫌いになるのかしらね。少しは自分を卑下なさい。私が聞く耳を持たないのは、聞く意味を持たないからよ」
窓の外には既に雨が降り出していた。もう少しすれば土砂降りになるだろう。それにしても窮屈な部屋だった。黴臭く……思わず吐き気を催してしまう様な匂いのする小屋の一室に彼女達はいた。埃を被ったゴミ箱の様な匂いがパティの鼻を突くが、気にしない。ここの空気と比べれば、気にしよう筈がない。手持ち無沙汰になってそそくさと部屋を去ろうとした矢先、ヨハナが引き留めた。
「お待ちなさい。貴女を留めているのは何も意地悪しようってだけじゃないのよ?」
──嘘を付いている。そんな事はパティの眼にも明らかだったが、指摘出来る筈も無い。私がここに存在する意味。それを探る様な男の視線もパティの硬直に拍車を掛けた。初めて私が乗せた“憧れ”の鞭使いに、どうも私は嵌められたらしい。
「……パティ・ストーク。今は黙っていて。後で、コーヒーを淹れてあげるから」
「な、なにを言って……貴女、変です……」
ヨハナは返事をせずに男へ向き直った。
「そこのど腐れ。私と交渉なさい。私を鞭使いに引き込んだ男は?まだ、組織に居るはずよね?その男を私の後見人に変えて頂戴」
「なんだ、そういう事か……フフフッ……君を鬼の様に思っていたが、それで中々、可愛い一面もある様だね」
ヨハナの言葉に男は笑いながら答えた。当然、嘲笑に違いないとパティは思っていたが、現実ではある種、感心している様子だった。ひとしきり笑った後、男はやはり一切の悪気なく言葉を続ける。
「そうやって、後見を替え続けて私で4人目。そろそろ無駄とは思えないのかね?……復讐か?鞭使いになったのがそんなに嫌なのか?」
「えっ……?」パティは思わず、声を漏らした。
鞭使いは私達の様な孤児が人並みに返り咲ける憧れの地位の筈だ。その筈なのに、ヨハナは復讐をしようとしている?それは、つまり、私が見せられていた世界は虚構で、私が近づこうとしていたのは、擬似餌に過ぎないという事なのか。パティはすがる様な視線をヨハナに向ける。瞳に映る彼女は迷っている様でもあった。そういえば、彼女はこれまで碌に私を見てはいない。何を迷っているというのか?
「下卑た思考はお辞めなさい。お似合い過ぎて、気の毒だわ。なあに、私は自分で望んで入った口……恨む筈など無いわ」
「そう言って楯突いた奴を私は何人か知っているがね。……それに、替えてやったとして私になんの得がある?今月のノルマはまだ未達成だ。駒を無くしては、私は路頭に迷う他無い。で、その代案は?当てはあるのかね?」
──この男も嘘を付いている。この声色はある程度、推測を立ててから話している声色だ。パティは刺す様な男の視線から逃れる様に、両手を組んで胸元に引き寄せた。ヨハナはちらりとも此方を見ずに、男を見据えて言った。
「四度目にもなるとそういう話になるわよね。分かってたわ……」
パティは部屋を去るヨハナのドレスの裾を引っ張ったが、伏し目がちに睨む彼女の視線に阻まれて、硬直した。そんなパティの後ろ手を男が縄できつく縛り上げる。
「や、辞めてッ!!痛いッ……鞭使い様!どうしてこんな事をッ!」
ヨハナの代わりに男が返事をした。
「そう言うな……君の様な子は皆んな鞭使いに成りたがるんだ。まったく、有り難い話だよ……ヨハナ、替えの奴は本部が用意してくれる。だから、月末には戻って来るんだぞ」
ヨハナは返事をせずに、男から視線を逸らして、躊躇いがちに部屋を出た。黒ドレスの手は酷く冷たかった。
──パティはその日、自分がどれだけ滑稽であったのかを知った。
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