癒しの調べ
春の陽は、果てしない小麦畑一面に黄金を撒く。
摘みたての緑の香りが風のなかにほのかに混じり、畦道では小さな蝶が舞っていた。
青空の下、陽炎に揺れる麦の穂――そのうねりのなか、
男は苦しげに身体を丸め、膝を抱えていた。
傍らで、幼い息子が小さな肩を寄せている。草の匂いに混じる涙と不安。
そこへ、少女が音もなく足をとめた。
純白の髪が陽光に透け、長いまつげの影が青白い肌に落ちる。
銀色の瞳は小麦畑の光さえ跳ね返し、どこか現実離れしている。
繊細な模様が刺繍されたローブ、胸元で揺れる銀の飾り――
すべてが、まるで異国の精霊をそのまま連れてきたかのよう。
畑の風がいちど、その髪と服をそっと撫でる。
少年が思わず息を止めた。父もまた、苦しみの合間にこの娘を真正面から見つめずにはいられなかった。
ソラは、低く小さな声でたずねる。
「大丈夫……?」
男は、答えずに小さく首を振る。
もう平気だと言うでもなく、ただ苦しさを堪えるように。
少年が父の手をぎゅっと握りしめる。
するとソラは、ほんのひと呼吸の間を置き、
麦の上を渡る風とともに、静かに口ずさみ始めた。
最初は遠く霞む春の光のように、
やがて透明な旋律となって、空を染める。
その声は、かすかな歌だった。
力強くもなく、主張するのでもなく、
澄んだ小川に小石が落ちるように、ささやかで柔らかな響きだけを残していく。
歌とともに、ソラの手がそっと男の肩に触れる。
すると、白い光がふわりと溢れ出す。小麦の穂、草や花、風の音までもが一瞬静止したようになる。
銀の瞳は閉じられ、白い髪が光を受けて淡く揺らぐ。
ソラが持つ特別な回復魔法。
「癒しの調べ」は、彼女が穏やかな歌声を旋律として響かせることで発動する。
その歌には生命の力を高め、病や傷、穢れすらも清める不思議な力が宿っており、聞く者の心と身体をやさしく癒す。
父は呼吸が自然と深くなり、苦しみがほどけていく。
やがて、ソラの歌は麦畑の風に消えゆき、男の顔色はみるみるうちに元へ戻る。
父親は驚いたように、自分の体を見つめ、そしてゆっくりとソラに頭を下げた。
「ありがとうございました――」
ソラは、何も言わず静かに微笑むだけだった。
白い髪、銀の瞳、異国の精霊のような気配。
畑の中で、彼女だけがもう一つの世界から来た存在であるかのように見えた。
風が麦の穂を揺らし、淡い雲の影が流れる。
父と息子は、いつまでもその背中を目で追い続けた。
麦畑にはまた、春の光と風の音が戻っていたが、あの瞬間だけは――
確かに世界が止まっていた。
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祈りを捧げる者たち 青ピー @AOP_yomyom
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