第3話

 ふと、『ナニカ』は、部屋の空気が音もなく変化したのを感じた。

 それは、先ほどまでの時空の歪みとも、自分自身の内なる力の脈動とも違う、「何か」の気配だった。いつの間にか、部屋の隅の影が深くなったような、あるいは何もない空間から染み出すように、一体の存在がそこに佇んでいたのだ。

 全身の神経を逆立て、凪を翼でしっかりと庇いながら、現れた存在に対して強い警戒心をむき出しにして身構えた。本能が、これは自分たちとは比べ物にならない力を持つものだと告げている。しかし、それが何者なのか、敵なのか味方なのか、全く分からない。

 その存在は、すらりとした人の形をしていたが、明らかに人ではなかった。背には、自身と同じような大きな黒い翼があるが、その存在感はまるで違う。涼やかな顔立ちをしているものの、人間的な温かみは感じられず、むしろ近寄りがたいほどの厳格さと、捉えどころのない異質な雰囲気を纏っていた。

 その存在は、無残に倒れた夫婦の亡骸、血の痕、そして翼に隠れて震える幼子と、その子を庇うように身構える『ナニカ』を、感情の読めない深い瞳で静かに見渡した。

 凪は、その気配にびくりと体を震わせ、とっさに『ナニカ』の翼の中にさらに深く顔をうずめた。

「かみさま……」

 思わず『ナニカ』に縋るような声が漏れる。

 その声に反応した存在が、射るような視線を凪と『ナニカ』に向ける。

(神様、だと……? ……やはり、ただ事ではなかったか。この地の力の流れが、かくも大きく乱れ、我が力の残滓ざんし(ざんし)までが変質するとは……)

 その深い瞳には、ほんの一瞬、悲しみと憐憫の色が濃く浮かんだように見えた。

 ふぅ、とほとんど音にならないような溜息を一つ漏らすと、その存在は、おもむろに倒れている凪の両親の亡骸へと向き直った。そして、その場で静かに膝をつき、深く頭を垂れたのだ。特別な言葉も何もない。けれど、その厳かな所作からは、失われた命への敬意と、魂の安寧を願う深い祈りのようなものが、静かに伝わってきた。その瞬間、部屋に満ちていた生々しい死の気配が、少しだけ和らいだように感じられた。

 凪は、翼の隙間から、その様子を恐る恐る見ていた。『ナニカ』もまた、その予期せぬ行動に、警戒心をわずかに緩めつつも、戸惑いは深まるばかりだった。

 やがてその存在は静かに立ち上がると、今度は凪を庇う神様へと向き直った。

「……さて。人の子の祈りと想いに引かれ、いびつな形で実を結んだ、我が力の残滓よ」

 抑揚のない、平坦な声。しかし、その言葉の内容に、『ナニカ』は息をのんだ。我が力の残滓……?  では、自分の存在はやはり……?

 その存在は、『ナニカ』の動揺を意に介するでもなく、続けた。

「……お前たちは、知っておくべきことだろうな」

 そして、淡々と、しかし言葉を選びながら、事の次第を語り始めた。

「そもそも、この家に祀られていたのは、山里の守り神である我が力をほんの僅かに分けた『分神わけみ』。一枚の御札に宿り、ただ静かにこの家を見守るだけの、あやふやで、本来ならば何の力も持たぬはずの存在であった」

 山神は、わずかに凪の両親が倒れている方に目をやった。

「だが、この家の者たちは……実にあつく、熱心にこの分神を、家の守り神、子の守り神として祀り、日々祈りを捧げておったな。その長年の清らかな祈りの積み重ねが、知らず知らずのうちに、このか弱き器に僅かばかりの力を蓄えさせていたのかもしれぬ。いわば、ささやかな『火種』のようなものを……」

 山神は神棚へ目をやりながら言葉を続けた。

「そこへ、あの極限の状況が重なったのだ。人の子自身の「生きたい」という魂の叫び。我が子を想う親たちの「この子だけは」という断末魔の祈り。そして……」

 山神は自身と同じ姿形をしているが本質的に異なる、『ナニカ』を見た。

「ここにいた、まだ形も持たぬお前の「この子を守りたい」という、ただ純粋で、しかし強すぎるほどの願い」

「その三つの強烈な願いが、日々の祈りによって僅かに灯されていた『火種』に注がれ、本来の容量を超えて燃え上がり、我が力の残滓と結びつき、増幅され、そして暴走したのだ」

 その言葉は、静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。

 山神の目が今度は凪を見る。その目には複雑な色が浮かんでいた。

「結果、人の子よ、お前は人の世から『神隠し』にあった。お前の存在そのものが、現実とは異なる位相である『神域』へとズレてしまったのだ。故に、あの者たちには、お前の姿が見えず、その刃がお前に触れることもなかった」

「結果として、この子の周りの時の流れと、存在のことわりそのものが、外なる現実の世界から切り離された。分かるか?  お前のいう『神様』が自身の神域にお前を連れ去り、現実世界から隔てたのだ。神域で時は、流れぬ。外の世界で百年、千年が過ぎようとも関係ない。季節の移ろいも、命の芽吹きも枯れることも存在しない。ただ、永遠に近い静寂の中で、全てが停滞するのみだ」

 凪は真っ直ぐ見つめてくる山神の目を、その大きな目に涙を溢れんばかりに溜めて見つめ返すしかなかった。

 山形の言葉の意味を、凪はまだ完全には理解できない。けれど、自分がもう、昨日までとは全く違う、不思議な場所にいるのだということは感じ取れた。

 山神は、そんな凪の目をなおも真っ直ぐに見つめて告げた。

「故に、人の子よ。お前はその身に、人の理と神域の理、その二つを同時に宿す、稀有な存在となった。その肉体は、あの日のまま、七つの姿から成長することも、老いることもないだろう。おそらくは、傷を負うことも、病を得ることも、この神域の中ではないはずだ。……じゃが」

 山神は少しだけ言葉を切った。

「心だけは、おそらく時と共に……いや、外の世界とは違う、お前自身の時の流れの中で、育っていくのかもしれぬな。……永遠とも思える時の中で、ただ一人、な」

「……」

 凪は黙って山神の言葉を聞いていた。歳をとらない。病気もしない。それは、なんだか不思議な感じがした。でも、心は育っていく……?  難しいことはよく分からない。ただ、隣にいる神様の翼の温かさだけが、今は確かだった。(父も母もいない世界で、それでも神様がいてくれるなら……)そんな考えが、彼の幼い心にかすかに浮かんでいた。

 そして、山神は再び部屋全体を見渡し、凪から離れず未だ警戒を解こうとしない『ナニカ』へと向いた

「そして、お前。我と同じ翼持つものよ。かつて御札に宿りし我が分神であったもの。お前は、もはや元のひ弱な存在ではない。人の子らの願いと長年の祈りの力を核として、この子……凪を守るためだけに生まれ変わった守護神、言わば『凪の神』だ。お前の力の源も、存在の理由も、その全てはただ一人、この子に繋がっている」

『ナニカ』は、息をのんで山神の言葉を聞いていた。

『神様』――それはあの人たちが、凪が自分に向けて語りかけてくれていた言葉。自分が成りたかったもの。

 自分は今、『神様』に成れているのか? 『凪の神』に?

 瞬間、『ナニカ』の顔が喜色に染まる。

 しかし続いた山神の言葉にその色はすぐに消え失せた。

「この子が在る限り、お前の存在もまた神として在り続けるだろう。だが、忘れるな。それは神としての本来の広がりも、他の神々や世界との繋がりも持たぬ、ただ一点にのみ依存した、極めて偏った、そして危うい在り方なのだ。そして人に過剰に干渉したことにより、おそらく本来の神の理からも、やはり外れてしまっている。お前にとって、この子の存在が楔であり、力の源であり、そして……鎖でもある。この子が健やかであれば、お前の力も安定しよう。だが、この子の心が深く傷つき、あるいはその存在が揺らぐようなことがあれば、お前の力もまた不安定になり、存在そのものも危うくなるやもしれぬ。もし……万が一にも、この子が消えるようなことがあれば……その時、お前もまた、『無』へと還るだろう。主なき力は、ただ霧散する定めゆえにな」

 その言葉は、『ナニカ』の存在理由とその限界を、容赦なく突きつけていた。

「……これが、お前たちが置かれた真実。強すぎた『願い』と、篤き『祈り』が引き起こした、この『神隠し』がもたらした結果だ」

 山神は、突きつけられた事実に愕然とする『ナニカ』とその腕に収まる凪の姿をしばし静かに見つめていた。そして、最後に、ほんの少しだけ口元を和らげたように見えた。

「……道は厳しいやもしれぬ。だが、その歪みから生まれた絆が、如何なる光を紡ぐのか。……また、いずれ見に来よう」

 その言葉には、突き放す響きではなく、どこか遠い未来への、かすかな期待のようなものが含まれている……そんな気もした。

 そして、山神の姿は現れた時と同じように、音もなくすっと掻き消え、部屋には再び静寂が戻った。後に残されたのは、清められたとはいえ、まだ悲しみの癒えない家の中と、重い真実だけだった。


『ナニカ』は自身の内に渦巻く感情の嵐に耐えていた。

 山神に告げられた真実――自分が凪を守るためだけに生まれた『神様』に似た歪な存在であること、そして凪を永遠に人の理から引き離してしまったこと。

(申し訳ない……本当に、すまない……)

 凪の両親の、穏やかだった笑顔が脳裏に浮かぶ。彼らを守れなかった無力感と後悔が、胸を締め付ける。

(助けたかった……!  ただ、この子だけは、どうしても……!)

 後悔と罪悪感、そして凪へのどうしようもない愛しさ、守れたことへの僅かな安堵感。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合い、生まれたばかりの心は、どうすればいいのか分からずに張り裂けそうだった。それでも、この翼の中にいる小さな温もりだけが、唯一の確かなものだった。『守らねば。何があっても、この子だけは』

 一方、翼の中で守られていた凪は、いつの間にかしゃくりあげるのをやめていた。まだ頬には涙の跡が乾いていないけれど、その表情は不思議と穏やかだった。たくさん泣いて疲れたのかもしれないし、『神様』の翼の中が陽だまりのように温かくて心地よいからかもしれない。あるいは、あまりにも突然にたくさんのことが起こりすぎて、この不思議な状況を深く受け入れていないだけかもしれない。父も母もいなくなってしまったけれど、今は、この大きくて温かい『神様』がそばにいてくれる。それが、今の凪にとっては一番大事なことのように思えた。少し眠そうな、ぼんやりとした表情で、彼は翼の隙間から『神様』の顔を見上げた。

「……かみさま……?」

 眠たげな、けれど確かな信頼を込めた声。

『……なんだ』

『ナニカ』は、内心の嵐を悟られまいと、できるだけ穏やかな声で応じた。

「……ずっと……ずっと、そばにいてくれる……?」

 それは、不安からというより、ただ確かめたい、甘えたい、というような響きだった。

 その無垢な信頼に『ナニカ』の胸は再び締め付けられる。この子に、こんな運命を背負わせてしまった自分が、そばにいて良いのだろうか。けれど、離れることなど、もうできはしない。

 内心の葛藤を翼の奥に押し隠し、全ての覚悟と、ありったけの愛情を込めて、力強く、そして優しく頷いた。

『ああ。……ずっと、そばにいる』

 その確かな約束の言葉に、凪は満足そうに小さく息をつくと、安心しきったように、再びゆっくりと目を閉じ始めた。翼の温もりに包まれて、深い眠りへと誘われていく。

『ナニカ』――『神様』はそのぬくもりを少しでも逃すまいとするように凪のからだをしっかりと抱きしめた。


 二人の物語は、始まったばかりである。

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凪の神 @hosi_645

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