第2話

 家の奥、少し高い場所に据えられた小さな神棚。そこに、永いこと、ひとつの気配のようなものが宿っていた。

 それはまだ、はっきりとした意志も、定まった形も持たない、ただ温かく、静かな『ナニカ』。家の柱を伝う朝日のぬくもりや、雨が屋根を打つ音、家族の笑い声や、時にはすすり泣く声。それらを、ただ漂うように感じながら、静かに、そこに在った。

 ある日、その家に新しい命の気配が満ちた。小さく、か弱く、しかし太陽のように明るい、赤子の息吹。

 神棚の存在――『ナニカ』は、その新しい光を、不思議な心地で感じていた。興味、というのとは少し違う。けれど、その小さな命の営みから、目が離せないような、心が自然とそちらへ引き寄せられるような、そんな感覚。

 凪と名付けられた赤子が、はいはいを始めた。畳の上を、小さな手足で一生懸命に進む。時々、柱に頭をごつんとぶつけて、ふえ、と泣き出す。母があやすと、すぐにけろりとして笑う。その無邪気な繰り返しを、『ナニカ』は飽きることなく感じていた。

 しばらくすると、赤子はたどたどしい言葉を話し始めた。「まんま」「とと」「かか」。その一つ一つの響きが、家の中に温かい光を灯すようだった。その子が、自身の一番近く、神棚の前で小さな手を合わせる姿を見るのは、格別な喜びだった。彼が何を願っているのか、『ナニカ』にはまだ分からない。けれど、その純粋な祈りの気配は、心地よいさざ波のように、静かな水面を揺らした。

 季節は巡り、赤子はすくすくと育っていった。畑を駆け回り、泥んこになって帰り、父に肩車をされて満面の笑みを浮かべる。時には、熱を出して母に甘え、心細そうに神棚を見上げることもあった。

 その度に、神棚の存在は、ただ静かに、温かく、彼を見守っていた。特別な何かをするわけではない。ただ、彼の喜びを共に感じ、彼の痛みにそっと寄り添うように、そこに在る。

 彼の笑顔は、他のどんな光よりも明るく感じられ、彼の涙は、他のどんな悲しみよりも心を締め付けた。

 漠然としていた存在の中に、ひときわ強く、ひときわ優しいなにかが、静かに、しかし確かに、育まれ始めていた。それは、名付けるなら「愛しさ」と呼ぶものに近かったのかもしれない。

 その子が七つになった年の春。今年も周りの山々には桜が咲き、穏やかな日々が続いていた。

 しかし、その頃からだろうか。遠くの村から聞こえてくる風の噂に、時折、不穏な響きが混じるようになったのは。旅の者が持ち込む、遠くの村々で、作物の出来が良くないという話。蓄えが底をつき始めたという嘆き。そして、それに乗じるように、良からぬ者たちが徒党を組んで、人里を襲っているという、穏やかならぬ噂。作物の不作を嘆く声。

『ナニカ』は、それが何を意味するのか、理解してはいなかった。ただ、これまで感じていた穏やかな空気の中に、ほんのわずか、影が差し始めたような、そんな予感を覚えていた。

 それでも、朝になれば陽は昇り、凪は元気に笑い、家族は食卓を囲む。その繰り返される日常の、かけがえのない愛おしさを、その存在はただ、静かに見守り続けていた。


 春が過ぎ、夏が近づくにつれて、『ナニカ』が感じていたほんのわずかな影は、少しずつその輪郭を濃くしていくようだった。


 凪の両親もまた、その不穏な空気を感じ取っているようだった。夜、囲炉裏の火が落ちた後、二人がひそやかに言葉を交わす気配。その声には、以前にはなかった硬さと、ため息のような重さが混じっている。

 そして、神棚に手を合わせる時間が増えた。特に母親は、凪が眠った後、一人静かに神棚の前に座り、ただじっと、切実な想いを込めて祈りを捧げるようになった。「どうか、この子を……この家を……お守りください」と。

『ナニカ』は、その祈りの一つ一つを、神棚の中で静かに、深く受け止めていた。「神様」という呼びかけが、以前とは少し違う響きをもって、この存在の内に届くようになっていた。自分は、ただ見ているだけの存在ではないのかもしれない、と。その不安に、痛みに、ただ寄り添うのではなく、この愛しい人たちを守りたいという感情が、静かに芽生え始めていたのだ。

 それでも、日中の家の中は、まだ陽だまりのような温かさに満ちていた。

 凪は、外の世界の不穏さなど知るよしもなく、相変わらず元気に畑を駆け回り、泥んこになって笑っていた。神棚の前で手を合わせる時も、彼の心は曇りなく、ただ「今日も一日ありがとう」というような、素直で純粋な感謝の光で満ちている。

『ナニカ』は、そんな凪の姿を感じるたびに、育まれ始めていた「愛しさ」が、さらに強く、深く、存在の奥底に根を張っていくのを感じていた。この無垢な光を、何があっても守りたい。守らなければならない。・・・・・・・・・・・それは、まだ形を持たない存在の中で、唯一確かな、強い強い想いとなっていた。

 季節は流れ、実りの秋が近づいても、世の中の空気は晴れなかった。むしろ、影はさらに色濃く、人々の心を覆い始めていた。村の男たちが、夜回りをするようになった気配。家の戸締りを、いつもより厳重にするようになった父の姿。

 そして、運命の日が訪れる、その朝。

 神棚の存在は、夜明け前から、これまでに感じたことのないような、強い胸騒ぎを覚えていた。空気が、まるで嵐の前の海のように、不気味なほど静まり返り、重く張り詰めている。家の者たちの気配も、いつにも増して硬く、不安の色を隠せないでいる。

(おそろしいものが……くる……)

 漠然とした、しかし確かな予感。それは、凪への愛しさが深まるにつれて、より鋭敏になった感覚なのかもしれない。

 自分を神様と呼んでくれる愛し子たちに、『神様』として何かを為すべき時が近づいているのかもしれないという、漠然とした、しかし抗いがたい確信にも似た感覚が、その存在の内側から湧き上がってきていた。

 神棚の存在は、ただじっと、これから起ころうとしていることの気配を、そして何よりも、愛しい凪の小さな気配を、注意深く感じ取ろうとしていた。

 朝餉の支度をする母の音、畑に出る父の気配、そして、布団の中で寝息を立てる凪の温もり……。

 その一つ一つが、今はただ、かけがえのないものに感じられた。


 その朝、神棚に宿る存在は、いつもと違う空気の重さを感じていた。空は白く濁り、光は弱々しい。家の中を満たすはずの穏やかな気が、どこか張り詰め、揺らいでいる。

 食卓を囲む父と母の気配にも、隠しきれない不安の色が滲んでいた。幼い凪だけが、まだ何も知らずに小さな口でご飯を頬張っている。その無垢な姿が、今はかえって胸を締め付けた。昨日聞いた、遠くの村の不穏な噂。それがただの噂ではないことを、『ナニカ』は本能的に感じ取っていたのかもしれない。

(どうか、この平穏が続きますように……)

 心の内で、そう願わずにはいられなかった。それは祈りというより、凪への愛しさからくる切実な響きだった。

 昼過ぎ、外で土いじりをしていた凪の、無邪気な気配が途切れた。駆け戻ってきた父と母の、切迫した強い感情の波が伝わってくる。

「凪!  はやく家の中に入れ!」

 父の声には、これまで感じたことのない恐怖と焦りが滲んでいた。家の中に駆け込む三人の気配。雨戸が閉められ、閂がかかる音。家の中が一気に暗く、息苦しくなる。

「……野盗だ」

 父の低い声に含まれる絶望と覚悟。母の息をのむ音と、凪を強く抱きしめる腕の震え。

 外から聞こえ始めた、たくさんの荒々しい気配。怒声、馬のいななき、何かが壊れる音。それが、確実にこの家へと近づいてくる。

(来てしまう……!)

『ナニカ』は、自身の中に眠る、まだ形にならない温かい何かが、不安と怒りで脈打つのを感じていた。凪の恐怖が、直接自分の痛みのように伝わってくる。

 母が、必死に祈る気配がした。

「神様、どうか……!」

 その祈りに応えたい。この家族を、そして何よりも凪を守りたい。その想いが、存在の内側から強く、強く湧き上がってくる。「守らねば」という、抗いがたい衝動。

 ドン! ドン! ドン!

 戸を打ち破ろうとする激しい音。男たちの下品な怒鳴り声。

 ミシミシと家が軋む。

(守らなければ……! 私が……!)

 自分が「神様」と呼ばれる存在であるという意識が、この極限状況の中で急速に輪郭を持ち始めていた。そして、内なる力が、凪を守りたいという想いに呼応して、熱を帯びていくのを感じる。

 バリバリッ!

 ついに戸が破られた。

  穢れた、暴力的な気配が、土足で家の中になだれ込んでくる。『ナニカ』は、強い嫌悪と怒りに震えた。

 父が立ち向かい、そして力なく打ちのめされる気配。

 母が凪の手を引き、奥へ走る。押し入れに隠す母の、祈るような必死の想いが伝わる。

(どうか、見つからないで……!)

 しかし、無情にも襖は開けられ、凪は引きずり出された。

「やめて!」

 母が凪をかばう。その瞬間、『ナニカ』の内にあった何かが激しく反応した。

(いけない!)

 だが、間に合わなかった。刃がきらめき、母の気配が急速に弱まり、そして……消えた。凪の目の前で。

 その喪失の痛みは、『ナニカ』自身の存在をも深く傷つけた。

 そして今、穢れた気配は、血に濡れた刃を、泣き叫ぶこともできずに震える凪に向けた。

 男の、何の感情も宿らない冷たい殺意。

 凪の、絶望的な恐怖と、心の奥底からの叫び。

(たすけて……かみさま……!)

 その魂の叫びは、雷のように『ナニカ』の存在を貫いた。

 凪への愛しさ、父の無念、母の最後の祈り、守りたいという燃えるような衝動、そして今まさに目覚めようとしていた神としての力。その全てが、臨界点を超えた。

『ただ、この子を守らねば』

 それは、意志というより、存在の根幹からの、ただの魂の叫び。自分が何者か、何ができるかなど、考える暇もない。ただ、凪への想いだけが、その存在を満たしていた。

 その純粋すぎる衝動が、自身も予期せぬ形で、周りの空間そのものを奇妙に揺らがせ始めた。まるで水面が波紋を広げるように、凪の周りの世界の「層」が、現実から一枚、ふわりとズレていくような、不思議な感覚。現実が薄まり、凪の存在だけが別の位相へと滑り込むように、穢れた気配から切り離されていく。

『ナニカ』自身も、何がどう作用してこうなったのか、全く理解できない。ただ、自分の内から溢れ出た何かが、凪を守るためだけに、現実の法則を捻じ曲げた。それだけは感じ取れた。

 凪の気配は、変わらずすぐそばにある。けれど、すぐ目の前にいるはずの野盗たちの殺意や荒々しい気配は、もう凪には届いていない。まるで、見えない、けれど絶対的な膜のようなもので守られているかのようだ。

「守れた」……のだろうか?

 漠然とした安堵と、凪との間に生まれた、これまでとは違う、より強く、直接的な繋がりを感じる。

 しかし、自分が何をしてしまったのか、これからどうなるのか、全く分からない。ただ、何かとてつもないことが起こり、自分自身も、そして凪も、もう元の状態ではなくなってしまったことだけは漠然と感じる。

 大きな戸惑いと、自分が変わってしまったことへの当惑、そして凪への揺るぎない絶対的な愛情だけが、まだはっきりとしない意識の中に渦巻いていた。

 野盗たちが、姿を消した凪に驚き、混乱し、やがて逃げ去っていく気配を、どこか遠い出来事のように感じながら、神様はただ、すぐそばにいる凪の気配だけに、全神経を集中させていた。

「う……うわあああああん!」

 凪が、倒れた母親の亡骸にすがりつき、その身の全てを振り絞るように泣き叫んでいる。その悲痛な声が、心を鋭く締め付ける。

(ああ……泣かないで……どうか……)

 何かをしてあげたい。慰めてあげたい。その一心で、『ナニカ』は、まだおぼつかない自身の存在を、泣きじゃくる凪のすぐそばへと、そっと寄り添わせた。温かな気配で、彼の悲しみを少しでも和らげることができれば、と願いながら。

 すると。

『かみさま……?』

 か細く、涙に濡れた声が、すぐそばで響いた。

 その声と、真っ直ぐに向けられた凪の瞳が、『ナニカ』の存在の根幹を、まるで静かな水面に小石が投げ込まれたかのように、深く揺さぶった。 これまでとは違う、何か特別で、直接的な繋がりが、凪との間に生まれたのを感じる。それは、言いようのない戸惑いと、そして同時に、無視できないほどの強い引力のようなものをもたらした。

 そして、その繋がりと呼応するように、自分の存在が、凪の目の前で意図せず具体的な形を結んでしまったことにも気づき、さらに当惑する。背中に感じる、慣れない大きな翼の重み。人の形に近い、けれど完全ではない、この奇妙な身体の感覚。そして……凪が見つめる自分の顔には、おそらく、彼の失った両親の面影が映り込んでいるのだろうか……?

(なぜ……?  どうして、私はこのような……?)

 理解できないことばかりだった。ただ凪を守りたい、その一心だったはずなのに……。

 しかし、目の前で、凪がまたぽろぽろと涙をこぼし始めた。小さな肩が震えている。

 その姿を見た瞬間、全ての混乱や戸惑いは、一旦どこかへ押しやられた。

 ただ、この子を安心させてあげたい。その涙を止めてあげたい。その一心だけが、強く胸を打つ。

(泣かないで……どうか……)

 何か、温かい言葉をかけてあげたい。そう思った時、自分の中から、初めて「声」が生まれた。

『……もう、大丈夫だ』

 それは、自分自身でも聞いたことのない、低く、けれど穏やかな響きを持った声だった。この声で、凪は安心してくれるだろうか?

 恐る恐る、言葉を続ける。

『……私が、いる。ずっと、そばにいる』

 その言葉が届いたのか、凪の嗚咽が、少しだけ小さくなったように感じられた。そして、小さな体が、震えながらも、そっと、自分に寄りかかってくる温もりを感じる。

 神様は、まだぎこちない動きで、その大きな黒い翼をそっと動かし、凪の小さな体を優しく包み込んだ。翼の内側の温もりが、少しでも彼の心を慰めることができればいい、と願いながら。

 凪の体温、小さな寝息のような呼吸、そして戸惑いながらも自分に向けられている戸惑いながらも確かな信頼の気配。

 それらを感じていると、『ナニカ』の心の中の混乱は、不思議と少しずつ静まっていった。

 自分が何者になったのか、凪に何をしてしまったのかまだ分からない。

 これからどうなるのかも、全く分からない。

 凪の親を守れなかった後悔はずっと消えないだろう。

 けれど、この腕の中にいる、温かくて、かけがえのない存在。

 この子を守るためだけに、自分は「生まれた」のだ。

 そして、これからも永遠に、この子のそばにいる。

 この子の『神様』になろう。

 大きな戸惑いと不安の中で、しかしそれ以上に大きな、凪への深い深い愛情だけを確かなものとして、生まれたての神様は、静かに、その運命を受け入れ始めていた。

 ただ、寄り添うように。この小さな命と共に、長い長い時を生きていく覚悟を、静かに固めながら。

 

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