第1話 (3)

 当たり前と言われればそれまでなのだけれど、父は僕よりずっと前に漁を終えていたようで、「何しとんじゃ」拳骨を食らう。

「お前というやつは、どういていっつもわしの言うことをきかんで勝手にうみへいく」

「……はい」

「はいではのうて、きいとるがよ。どういてち」

「……ごめんなさい」

 らちがあかん。父は一回僕にげんこつを落としてから、捕ってきた魚たちを仕分けていく。みやこへの租税用と、それから僕らのものだ。……あの。ちいさなぬくもりが僕の服のすそを引く。うんとうなずいて、えへと笑ってみせる。

「……ともだちを、連れてきたんだけど。」

「おう」

「……女の子なんだけど。」

「……」

 きれいな、金色の髪の。そこまで告げたとき、父はようやくこちらを向いた。それから一瞬ひどく驚いたような顔で女の子を見て、破顔する。おうとうなずいて、大きな手が女の子の頭に近づいた。ぺや、と目をつむる女の子へ父の手ががしと重ねられる。ん、と女の子が目をつむるのと同じくして。

「……ふふっ」

 ねえ、きみのかぞくは、こんなにもあたたかね。

 そう言ってわらうきみは。

(……っ)

 ねえねえと頬を突つかれる。はっとして目を向ければ、どうしたのと笑うきみと父の顔。へえと息を吸う。あのね、ええと。次の言葉を言おうとして、しかしそこで固まった。

 続けようとしたことばは、まだ知らないきみの名前。きみも同じ気持ちだったようで、うんと口ごもる。

 まずは僕から言うべきなんだろう。けれど、カイルっていうんだと名乗るのは、なんだかちょっとだけ照れくさい。嫌いじゃないし、むしろこの名前は好きだけれど、どうしても詰まってしまう。「みやこのぶ」の「みぜ」の惣領さまに名乗るのでさえ、こんなにはどもらなかったろうのに。

(でも)

 ぐい、と女の子の方を向く。きみはきっかけをさがしているような顔をしている。

 だから。

「僕のなまえは」

 かいる、って、言うんだ。

 言った途端に目をそらして、次の言葉を忘れてしまったようにうつむいて、再び閉口する。

 そんな僕を見てか、きみはくすりと笑って、僕はきみの息を吸いこむおとをきく。

「……キアゲハ。わたしキアゲハっていう。」

 小さな声。それはきっと、そのとき波が押し寄せていたら、かき消されてしまうくらい小さなものだった。きみはもともと色の白い両手を、さらに白くなるくらいに握りしめて、それでも、しっかりと僕を見ている。その瞳に花が咲いている。それはきっと、こういう言葉が似合っているって思うんだ。

(きれいだなあ)

 先刻の自分の、女の子みたいな言動を棚に上げて、無意識のうちにキアゲハにうなずいた。そっと握った右手はやわらかい。キアゲハ。この子にぴったりの名前のおとが、まだ耳のおくでじんわりあたたかい。

 一度、名前を呼んでみた。するとキアゲハはゆっくり笑いながら、アゲハでいい、と言う。握られていた右手には左のそれが重ねられている。アゲハはうんとうなずいて「そうだっ」そのまま、「遊ぼうよ!」走り出す。陽光が乱反射してきらきらと白くかがやくうみは、きれいすぎて、まぶしい。

 アゲハ。気づかれないようにもう一度つぶやく。やわらかなそれ。途端、ほえ? とか、アゲハがふしぎそうに振り向いた。気づかれてしまっただろうか。ごまかすように笑いかける。視界に入るその背丈は、やはり小さい。なんだかむしょうにかわいく思えて、しかしそれはこころの奥にしまっておこうとも思うのだ。はぐらかしてゆるく笑った意味を、きみはきっと気づかないから。

 舟の方へ走り出せば、アゲハは待ってよとついてきた。その追いかけっこが楽しくなって、速度は上がるばかりだ。ひざ上までの足袋は焦れったそうに脱ぎ捨てられる。それからアゲハは逆に僕の手を引いて走り出した。子鹿みたいなその足の、どこにと思うほど速い少女は、ときおり僕の方を振り返りながらくすくす笑う。

 そんなわけで、入江から三番目の舟できらきらかがやくうみに乗り出したのは、アゲハの笑い声が収まってからだった。ふうと息を付くアゲハをのぞくように見やれば、えへへえと笑われるかわりに、その瞳の花色を拝める。

「ねぇ、すごい、ね」

「ん?」

「……うみ。こんなの、見たことなかったから」

 きらきらしていて、あおあおくて、玉(ぎょく)みたいね。きき慣れない言葉だったから、やや東に首を傾げた。けれど人は、おのれが知っているものこそ説明しがたいものだ。アゲハは手をぱたぱたさせて、目をぐるぐるさせてから、「……きれいな石のこと」と言って指と指をくっつけた。

 もしそんなものがあるなら、僕はアゲハの瞳こそ「ぎょく」なのだと思う。けれどそんなことなんて言えるわけもなくて、すんとうつむく。

 アゲハを見る。水面に白くてちいさな手を伸ばしている。すーっと指で弧を描いて波紋を広げるそのしぐさに、落ちやしないかと心配にもなる。くいと袖を引っ張ったらむすっとした顔でこちらを向かれた。こういうの、たしか「あんのじょう」っていうらしい。

 へんなかいる。アゲハは再び前を向く。白い肌が薄桃色に染まり、ささやかに吹いた風はやわい金色の髪をなびかせる。

(……あ、)

 なんなんだろう、このもやもやとしたものは。

「かいる? どうしたの」

 不意に、むに、とほっぺをつねられてからはっとする。

「……なんでもないよっ」すぐに笑って右手をつねる。そうかあと吐息して、アゲハはおとなしく縁に腰かける。それは、ほんのわずかに、僕の吐息と重なった。

 だって、きみは、この子は、この世のものではないような。笑ってほしいと思ったのに、たとえばそれがほんものだったとしたら、こんなに。

 おもいを封じ込めるように、右の手を左のそれに、重ねた。

 そんな僕を見て、なにしてるの、とアゲハがふしぎそうにいう。手を握っていたらしい僕は、いつの間にか左手に櫂を預けていたらしい。舟は動きを止めてこのあおいうみに漂っている。櫂はわりと重いのだ。背筋を直してぐいとそれを引けば、波が引き寄せられるようにざぷんと鳴った。アゲハはそれをとても楽しそうに見ていて、目を大きくさせる。

 ころころ、よく表情のかわる女の子だなあと思う。

(嫌ではないし、……むしろ、)

 そこまで考えて、はっとする。僕はなにを、おもっていたのか。アゲハを、見た。ちゃぷ、と白いあわを生じさせてうみを漂う小舟の中で、驚いたりわらったりしながら、アゲハの髪は今日の暑すぎる陽光に照らされて、水面と同じようにきらきらしている。

 そんなことを考えながら、高くなる陽に照らされて、あてもなくうみを漂っている。ぐるるきゅうぅ、とどちらからともなく音が鳴ったのが、たぶんきっかけ。

「……おなか、すいたね」

 ほわほわした口調でつぶやくアゲハに、僕は何と返していいのかは分からなかった。うん、とあいまいな返事をして、アゲハを見やる。

「帰ろ、っか」

 あいにく小腹が空いたとき用に持っているのは一人分の煮干だけで、きっとそれでは絶対に足りない。無意識に吐息する。

 するとそんな僕を想定していたように、アゲハはごそごそ、と袖の中をさぐりはじめる。それからへんな音がしそうなしぐさで、「何か」を取り出した。

「なんでしょう!」

 得意げな顔でむん、と胸を張るアゲハ。そのてのひらに乗っているものをまじまじと見つめた。ややきつね色のそれ。湿っぽい風がひゅう、と吹いて、嗅ぎなれた潮のにおいとともに香る甘いようなそれ。きっと、みやこびとの子たちがときおり食べるとかいう、「もものかし」とかいうものに違いない。

「……うん」

(そういえば僕、おなかがすいていたんだ)

 突然にして襲いかかる食欲、それに呼応するようにじわっ、と出てくるつばをごくりとのみこむ。目を焼くような陽光に照らされて、それはいっそうおいしそうに見えるからふしぎだ。ほしいですかー、ほしいひとは手をあげて、とアゲハが満面の笑みで言う。薄水色の大きな袖に包まれた、ちいさな白い手を広げてしてやったりという口調で告げるから、ちょっとだけむうっとしたけれど僕はがまん強い方ではない。観念して、手を上げた。すると目の前のきれいな金糸の髪の少女は、ふわりと、ほんとうにしあわせそうに微笑むので。

 きつね色の菓子を受け取り、それをちびちび食べながら、そっと顔を背けた。

(だって、そんな、そんな表情をされたら、ずるいじゃないか……)

 取り繕えない。断ることもできない。こっちの思っていることをすべて見透かして、まっさらにしてしまうふしぎな笑顔がそこにある。

 すう、と水面を指でなぞる。この日照りを反映させてか、生ぬるい温度を指先に伝わる。李菓子(もものかし)っていうんだよ。桜色っぽいほおを膨らませつつ、アゲハがいう。それにしてもこの子はよく食べる。李菓子、というそれがいくつあるのか、僕にはさっぱり分からないけれども、こうして僕がこのひとつを食んでいる間に、もうみっつは確実に食べ終わっていた。速いよ、と言いかけて口をつぐむ。僕が食べるのが遅いことは僕にだって分かっている。

 そうしてしばらくの間もそもそと李菓子を食べながらアゲハを見ていると、んええ、と小さくつぶやいて顔を背けられるから、お互いさまなのだろう。気づけば、あんなに強かった日差しもやや西に傾き始めている。

「……かえろっか、」

 ぐい、と、けれどできるだけやさしく、手を引いた。口内に残る甘い菓子の残りかすが、なんとなく消えない。それが、僕のこころの底に住みついたねがいを見透かしているようで、ごまかすついでにもう一度アゲハのてを引きつつ、盗み見た。アゲハはうつむいて、何も言わない。

(もしかして帰りたくないのかな、この子も)

 なんてばかな期待は胸にしまった。

 そうしてもだもだ、結局その結論ははっきり提示しないままで、しばらくうみに漂う小舟に、僕たちはいた。ずるい、とは知っていた。あの子も、僕も。けれどもそれは、なんだか、仕方のないことのように思えた。ほんの少ししか、ここにはいないけれど、この子はこのうみのきれいさを知ってしまったし、僕もこの子の笑う顔や、もらった李菓子の味を、きっと知ってしまったものだから。まだここにいようか、なんて僕もアゲハも言い出せずに、唐突に、うみがきれいだねえなんて分かりきっていることを話しかけて、そしたら。

 返事が、返ってこなかったから。

「へ、」

 頭を櫂で殴られるような感覚と視界に混ざるざらついた音。それだけがこの世界で唯一のような気がした。

(何か、)

 つぶれていくような意識のなかでようやく吐き出されたそれは、結局空気を無理やりねじ込んだようなそれだった。前髪に指を引っ掛ける。それから漁師の子である証の、腕に巻いた赤い布をきゅうと引っ張った。いたい。何が? そう自分に問い返す前に、いやな笑いがちょうど背後からぐさりと僕を貫く。そして聞いたつんざくような声、これはきっとあの子のもの。ぐぎゃん。後ろを向く。途端視界をよぎったのはあまりにもきれいな金糸の髪、ザザ、と雑音がそれを歪ませる。

 きしんだ首の感覚は無視して、思い切り後方に向けた。カシャン。耳が変な音を聞く。首の音かもしれなかった。手の甲でまぶたを叩く。そんな音は知らない。きみのぬくもりはここにはないから。

 考えろ考えろ。きみは今どこにいる、ここではない、だから、別の舟にいる。きみはさっきまでここで笑っていたはず。どうして別の舟にいるのが。そうじゃない、たぶんちがう、そういうことではきっとない。あの子を見る。目が見開かれている。動けないみたいだ。からだに乱暴に縄が巻き付けられているからだ。

「……け、」

 たす、けなきゃ。

 舟べりに足をかける。うんと踏ん張る、向こうの舟に飛び移る、ちがった、飛び移ろうとして、いやな笑いの男の足が目の前にある。頭を下にする。なんとか避けられた。勢いをつけてもう一度。今度は気づけば蹴飛ばされていた。ドン! 櫂か何かに頭をぶつけたらしい。視界がわずかにふらふらもする。それでもだめなんだ、僕がここでやめたら、きみはきみは。もう一度まぶたを叩く。いける、だいじょうぶ。足を掛ける。

「こいつ……っ!」

 舌打ちとともに鈍い痛みが腹に走る。きみを見る目が一段下がる。首を上げる、きみは、何かを言おうとしている。布で口をおおわれたきみは何も言わない。僕に向けてなのだろうか。助けてほしいと言っているのかもしれない。男にしがみつく。腕に噛みついた。櫂の方へ走って、そのまま持ち上げる。「おい!」振り上げる。あと少し。けれどもそれは、はるかに大きな衝撃によって妨げられた。意識が、ぼんやりする。目を閉じる。そんなとき、父の声が、うらがわで思い出された。

『うみは、危険だ』

 それはまだ何も知らなかった、今よりもっと幼い日。僕が漁師になりたいと言ったとき、父が僕にくれたことば。うみは楽しいかもしれないけれど、同時に危険でもある。──お前はそれを分かっているのかときかれた僕は、漁のしたさにろくに考えもせずうんとうなずいてしまった。

 初めてうみがこわいと思った。底抜けのあおは、きっとすべてを飲み込んでしまう。しかも運の悪いことに、もう陽は落ち始めていた。あと少しして空が群青に染まったら、うみはその色になる。僕の舟もきみの声も塗りつぶされてしまう。

 右手を左手でおさえる。右腕に巻いた布がひらりと揺れる。僕は、まだ、だいじょうぶだ。ぜんぜんへいきだ。まぶたは叩かなくてもいい。前を見ろ、前を見るのはきみをそこから連れ出すためだ。

 櫂は手の中にあった。あの子を乗せた舟はだんだんと遠ざかっていく。全力で波をかき分ける。遠ざかりそうな男の舟のへりへ手を伸ばす。──アゲハに、手を伸ばす。波の影響で、舟はとおくなったり近くなったりもどかしい。泣きそうになりながらアゲハを見た。ほんとうはアゲハの方が泣きたいはずなのに。ひゅうと、風が吹く。途端によぎった悪い予感を無理矢理押しとどめてかみ殺して、きみを、見て、僕は。

 ひょい、と。

 視界からアゲハが消えて、連れ去った男たちの身体すれすれに矢が飛んできた。矢の方向を見ると、僕のよりも大きな舟がいる。男たちのそれよりもはるかに大きな舟だ。そこにはためく旗を、僕はどこかで見たような気がする。その朱塗りの旗にある蓮と、金色の蝶を。

 息を、呑んだ。

「……っ!」

 だって見間違うはずがない。あれは「みぜ」の旗だ。そしてその先に立つ、弓を引いたりりしい瞳のあのお方は、最近みやこの方で活躍されている「みぜの惣領さま」。みやこの「ぶかん」のとにかくすごく偉いひとで、僕らに懇意にしてくださる、ひと。僕ら内海の漁師をよく守ってくださる方。そのひとの片腕には連れ去られたはずのちいさなちいさなアゲハがいる。

(このひとが、)

 アゲハを助けてくれたのだろうか、と思った。

 ほんとうは、そう思いたいだけだった。

 アゲハは「ばつ」が悪そうな顔をして、惣領さまからはたぶん意図的に目をそらしている。惣領さまはそんなアゲハをちらと見て、ぽんと頭に手を置いて。何も言わずに、そのままゆっくりとアゲハをなでる。その側にいる、男のひとは、惣領さまの側近で、海瀬(みぜ)の筆頭家人の晁河黄津(あさかわのきしん)さま。黄津さまはなでられたことでやや安心したようなアゲハに軽く拳骨を落とす。いてて、とあの子が目をつむる。

 ああ、と嘆息する。それだけで分かってしまう自分が、今はとても憎い。

 男たちは惣領さまを見るや否やヒイッと情けない声を上げて退散していく。代わりに反対側から、父がおういお前たち、と舟を漕ぎながらやってきた。そしてちょうど僕のそれの近くに来ると、ごつん、と拳骨をかます。やはり村一番の漁師は伊達ではない。硬そうな拳の一発に、頭がてっぺんから悲鳴をあげた。そして昼に比べ、それは何倍も痛い。父はこちらに乗り込んできて、先刻の拳の痛さに頭をさする僕をぐいと掴み、そのまま親子で惣領さまに土下座する。

「誠に申し訳ございませぬ。うちの倅が……よもやそちらのお嬢さんが、紅氏(こうのうじ)海瀬の一門の一のおひいさまだとは思いませんで。……申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ……」

 僕の頭をぐわしとつかんだまま、父は何度も惣領さまに謝り続けた。僕を押さえつけた手は、だけれども、小刻みにふるえている。初めて、もうしわけないことをしたのだ、と思った。目頭がぼうっとするのは、たぶん、それだけではないけれど。

 ちらりとあの子を見る。やはり先刻と変わらずうつむいたままだけれど、僕のふと視線が合うとすぐに目をそむけられる。そんな反応をされたら、今度は僕の方が泣きそうだ。惣領さまはふうと嘆息されて、それから、僕とあの子をちょっと見て、すうと息を吸った。

「義悟(よさと)、斯様に謝らずともよい。カイル、お前はアゲハを守ろうとしてくれたのであろう。その事に関して、まず儂から礼を言わねばなるまい。有難う……儂の娘を、賊どもから守ってくれて。あと少し遅ければ、ともすれば、こやつは賊どもに攫われていたやも知れぬ。

 そしてアゲハ。お前は、義悟やカイルに、己が海瀬の一門の者であると言わなかったのであろう?」

 静かに、さとすように、惣領さまは特有のきれいな低音でいう。いつもは、その低音がとてもうつくしく、大人になったらそういう声で話したいなあなんてあこがれるところだけれども、今日はそういうわけにはいかなかった。これではっきりしてしまったのだ。

(この子は)

 アゲハ、いや、キアゲハ様は、やはり海瀬一門のお姫さまで、僕ら平民とはまるで住んでいる次元が違うんだ。

 せっかく友達になれたのになあなんて、場違いなことを考えた。

(それなら、もう少し、ずっと、知らないままがよかった。)

 知ってしまったら、だって、遊べる時間も、それどころかきっと会える時間も、キアゲハ様が成長するたびに減っていってしまうだろう。僕たちはいっしょにはいられないのだ。むしろ明日からでも、それはやって来るのかもしれない。

 キアゲハ様は、やはり顔を背けたままだった。僕にはどうしても、キアゲハ様をわかることはむつかしいのように思えた。ふと思う。どうしてあの子は、いやキアゲハ様は、自分の身分を言わなかったのだろう。

 つ、と下唇をうっ血しそうなほどかみしめるのは、あの子。その姿が夕闇に染まりゆく空と重なって、余計に痛々しげに見える。

「……ごめんなさい」

「そうだな、お前は反省すべきだ。いくら貴志と喧嘩したとはいえ、毎度家出をしていたのでは話にならぬ」

「はい、父様……カイル殿、義悟殿。まことめんぼくしだいもござりませぬ。」

 深々と頭を下げる口調は、どうしようもなく硬い。ふわふわとわらいながら、李菓子を食んでいた女の子の面影はどこにもない。そこにあるのは、正しく「紅氏海瀬の惣領のむすめ」の、いっそ笑ってしまうほど礼儀正しい姫君様。

 僕は、わずかな動揺さえも隠すことができなかった。だが父はさすがに大人だ。こちらこそ申し訳ございませぬ、惣領様の姫君様を守ることが出来ずと、さっきも謝ったのに、負けないくらい頭を下げた。つられて今度は、僕もじぶんから頭を下げる。けれど、途端に思い出すのは、「紅氏海瀬の姫君様」に、こちらこそ「無礼千万な態度」を取ってしまったこと。哀しいくらいに、僕たちの距離は、僕とキアゲハ様になってしまったこと。

 熱を持ったように、まなじりが急に熱くなる。生ぬるい夏の夜の風は、それを冷ましてくれるほど優しくはない。せめて月に見られていないことが救いだった。何をおいてもとにかくは、謝っておかなくては。

「さきほどの、無礼千万な態度、申し開きようがありません。姫君様に対しては、まこと、申し訳なく、思うております。」

 するとキアゲハ様の眉がまたピクリと動いた。

(そんなこと言うから、言わなかったのに、……?)

 くちびるの動きからそんなことを言っていると考える。でも、と反論しそうになる自分をぐいと抑えこむ。わからなかったキアゲハ様の、あの子のこころがぼんやり形を帯びはじめる。それもいちばん望まない形で。 さまざまな葛藤が、一気にぐるぐる、胸の中に渦巻いて、痕を残していく。それは消えない。消えようもない。なんだあの子も同じ気持ちか、ではなかった。ぐちゃぐちゃどろどろ、甘やかな菓子が溶け出すみたいな感覚が、べたべた張り付いて、消せそうにないんだ。

 瞬間、日没の生暖かい風がねとりとほおに張りついて、きもちを溶かしていく気がした。なんだか不安になって、僕は無意識にキアゲハ様の右手を握る。けれどもそれは、途端にひどい後悔を呼んだ。そんなことをしたら、おわかれのような気がしてならなかった。

 けれど。

「あの、カイル、」

 もし迷惑でなければ、と。

「また、きたい」

 手を握り返された。僕はちょっとびっくりして、惣領さまや黄津さまを見上げる。おずおずと目の前の少女と視線を合わせる。

(……許されるだろうか、僕がいても。)

 さっきみたいに危ない目にあわせて、それでもいっしょにいられるだろうか。

 怖いと期待が半分ずつで、白っぽいその手を握る。

 ふるえる指先の温度が伝わったのか、わたしと同じ、とかすかにきこえた言葉は、きっと今だけは僕だけのもの。それは宣告のようで免罪符のようで、つたない僕の輪郭をたしかに映し出す。

 そのままそうしていると、ふっ、と笑い声が降ってきた。

「──合格だ」

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