千古のうみの童うた
沙雨ななゆ
第1話とおいむかしにみたゆめは
それはひどく暑い夏の日のことだった。
ずっととおい、知らないところで、だれかが泣いている声を聞いた気が、していた。
暑い。
あまりに暑すぎて、きっと今にも頭のてっぺんが燃え出してしまう。そんな夏。それが今日。そういう夏は、きらいではないけれどたいへんだ。陽は容赦なく首のうしろを焼くのだし、そうやって少しずつ僕にきびしいからたいへんだ。前髪はべたべたになっている。それを砂まみれの手でかきあげる。瞬間、視界の片すみにぎらりと光をとらえたので、ぎゅっと目をつむると、汗も同時に白眼の中に入ってきて、あけたらすぐに光に目を刺された。
「……んぁーぅう……」
べこっとした声が喉の深いところから漏れ出す。
陽のほうを見て、やっぱりすぐに目を背けて、それから、指を折った。ひい……ふう……みい……。今日でちょうど一とせ回っていたらしい。僕が漁師見習いになってからの、だいたいの日々のことだ。それは、とりあえず知っている季節のすべてを過ごしたということだった。
みんなよりもはやく漁師の生活をはじめた。でも僕は、昨日できなかったことを、たぶん今日もできていない。成長は、分からない。
(でも、少しは何かあるといいんだけど)
思いつつ、ぐいと漁網を引く。すぐに後方でずるずるずる……という音がする。砂を這うそれ。なんだかいまの僕みたい。
「ん……」
うめく。一拍おいて吐息する。
(……きっと)
父さんはこんなんじゃあ、ない。僕のはまだ、何をとってもひどく未熟だ。ふんわりと視界がぼやけそうになる。またまただ。ごまかすように上を向いた。空は、雲ひとつない青い空。へぐ、と鼻をすする。奥歯が砂を噛みしめている。昨日も今日もどこを向いてもずっと暑くて、空を睨もうにも垂れてくる汗はずっと目にしみている。どこを向いてもそれは変わらない。夏は繰り返しずっと夏のまま。この村もずっとこの村のまま。
それでもむん、と背を伸ばす。僕はいま、この村を少しは背負っている……はずだ、今じゃなくても、いつかは。このうみ、椎ノ瀬戸の端にある僕たちの翁村。この村の年貢は、ほとんど漁のあがりから出ている。それで、漁っていうのは、冬がいちばんの「かきいれどき」だ。だから今の季節は、基本的に年貢がとれない。この季節のあがりは、僕らの食いぶちではなくて、年貢になる。かわりに僕らは米を育てている。きっと翁村はものをつくるのに向いていないのだ。冬のうちに作った干物を半分は食べてしまう。夏って食べるのにはさいあくだ。うみはすごくきれいなのに。そして、この村の夏はすごく長い。
そう、この村の夏は長く蒸し暑いのだ。そして中くらいの時期には極端に雨が少ない。今は雨がないほうの夏だ。だから仕方がないけれど、今日だって陽に負けないくらい、砂もぜんぶ、ぎらぎらまぶしい。だからやっぱり手が止まって、ぎゅっと目をつむった、そのとき。
「おーい!」野太い声。うみにも決して負けない強いもの。僕の誇り。僕の目標。村いちばんの漁師のそれ。「カイルやあ!」呼ばれた名前は僕のもの。口角がわずかに上がるのを感じる。
「そろそろ引き上げるで、めしや!」
父の声である。
「はあい……っ」
夏が喉を焼いたのが悪い。覇気のない声が漏れた。父は、またずるずる網を引きずる僕を見やってから、大きな漁網をかかえて軽々と持ち上げる。息をつぐいとまもないくらいのあざやかな動き。やや遅れて息を吐いてから、けれどもすっとその背中を見つめて、それで。
(あれ?)
それがなんだかぼんやりゆがんだ気がして、目をこすった。ゆがんだのは、僕なのか、それとも。けれどもしかして、やはり。
(……ここの、ところは)
父が、うみをいとうているような、そんな気が、少しして。
ぶるぶる首を振る。もう一度はいと返事をする。あの背に早く追いつきたい。追いつかなくてはいけないのだから、立ち止まるいとまなんてもちろんない。足元の砂を蹴って小さくなっていく父を見る。やはりいつもと変わらないのかもしれない。きっと僕がへばっていただけだ。網を背負い直す。昨日よりもう少し、そしてそのうち、だんだん慣れてきたらいい。このうみに──
(あっ)
ふと頭にぽんと一つの冒険が浮かんだ。たぶん、口角は自然に上がっている。
(陽が沈むには、まだ時間がある)
──見てこよう。うみを。
つないであった小舟のほうへ走り出す。途端叱る父の声僕の背を追いかけてくる。「あっこら、おんしまた……!」しかし僕は、振り返らずに舌を出して返事をするのだ。
「いってきまーっ!」
(へっへ、父さんには申し訳ないけど)
うみなのだ。漁をしていなくても、僕の心安らぐ場所で、元気になれる場所。それはいつだって変わらなくて、けれどいつも同じ顔を見せないうみなのだ。だから自然と足取りだって軽くなる。そして舟に乗ってしまえばもうこっちのものだ。浜をかける僕の気持ちはしだいに加速していって、それは、このうだるような暑さも、数瞬前に感じたもやもやさえも、完全に押しのけていた。
だからというわけではないけれど、しかしそれがひとつの原因であること自体は、否定できないことなのかもしれない、気がする、と思う。……結論。気づかなかったのだ。僕が今から乗り込もうとしている小舟には、すでに先客がいた、なんてことには。
「……え?」
押し出した小舟がみょうに重い気がして、中を覗き込む。ふわふわした黄色が、ふさふさ、揺れた。
「……うそだろ?」
何かけものでも紛れ込んだのだろう。もう一度中を覗いて、すると。
「夢じゃ、ない」
けものではなかった。正しくは、とても小さな女の子がいて、舟のなかで眠りこけていた。その子は髪をてっぺんで無造作に括っていて、その髪は黄色くも白くも見えて、それがとにかくきらきら輝いている。吐息するときにふっと肩が上下する反動で、また髪が揺れるから、それで何かけもののようなものに見えたのだ。
(……ええっと)
とりあえず、つんつん突ついてみる。反応なし。
(がーっ! もう……っ!)
落ち着け僕。
頭を抱えたくなる気持ちをおさえて、女の子をまたつつく。反応はない。見ていて分かったことは、ふわふわ髪が揺れること、その拍子に真っ白い肌がちらちら見え隠れすることだけ。
それはうみにはひどく不釣り合いな色だった。肌も、そしてその子の衣も。女の子は水浅葱色の水干のようなものを着ていて、袖が長くて大きくて、なんだかいやに暑そうだ。
どちらにしろこのままだとどうしようもない。僕はうみに出たいし、女の子は眠ったままだ。そしてちょっと厄介なことは、ここに放置するわけにもいかないってこと。
起こさなくてはいけない。広がった長い袖をぐうっと引っ張ってみる。予想はしていたけれど、初めから決めこんだように無反応だ。昼を過ぎて西に傾きはじめた陽は、いよいよというほど高く僕を焼いていく。だから、自然と、起きないこの子にも苛立ちが増していく。
そんな僕の気持ちなんか知るはずもなく、女の子は相も変わらずすうすうと寝息を立てている。
「むう……」
(くそ)
やってられるか、こんなこと。
そうして生暖かい風が頬をなぜる前に、しびれをきらしたのは僕のほう。女の子の髪を、ぐいっと引っ張った。途端。
暗転。
それが浅瀬に落ちたと気づくのに数瞬、次の瞬間にはげしっ、と、おそろしい力が腹の上を掠めた。
(えっ?)
明らかに何かがおかしい。一瞬目を閉じてから、またゆっくりと開ける。
やや空色が視界にちらついている。
いやな予感がして、その方を見た。
月色の髪のあの女の子が、腕組みをして僕を見下ろしていた。きれいな花の色の瞳がきらりと光る。それはもう、どうしようもないくらいにえらそうだ。
(これは……)
その、当たり前だけれど、ぜったい良い意味じゃないやつ。
「……わたしのあんみんをさまたげるとは、きさま、いいどきょうね」
薄桃色のくちびるがふっと開く。そこから吐かれた舌足らずなせりふ。
(な、な……?!)
生意気な子だという直感はきっと間違っていない。生意気も生意気、大生意気だ。
上から下まで女の子を見る。もしかしたらどこかのおひめさまなのかもしれない。着ている水干の生地がなめらかなものだったことは、僕でも分かることだから。
「ねえ」
けれどそんなことは関係ないのだ。そういうやんごとなき身分の人のこどもだからって、僕みたいな百姓を見下した態度を取るのは、ひどく気に食わない。だから無視。ぜったいに無視だ。
足の間をするりと抜ける。女の子なんて最初からいませんよというふうに、その子からぷいっと顔を背け、立ち上がり、黙々と舟を押し出して、浅瀬に出たところを乗り込む。網を放ることも忘れない。(後ろではぱたぱたと駆ける音がして、ドンッという衝撃音とともに舟が少し重くなった。)
網はぱさあと宙を舞って、後方に落ち着いたように思う。ずるり、とすべるような効果音もついてきた。……僕だって分かっている。それでも僕はやっぱりだんまりを続けた。
ねえちょっと、と声がする。続けてぐいと袴を引っ張られる。それが何回か繰り返されて、いつの間にか女の子の声も聞こえなくなった。
(やっと静かになったなあ)
櫂を進める。空を拝む。陽光があふれ出したようにまぶしい。漕ぎ出だすたび白がぱしゃりと鳴った。それはふっと消えてしまう、一瞬のいのち。しかしまた巡り会える。この白は、蒼と碧の間に繰り出され続けるからだ。……しばらくして、息を吐いた。
空気が、重苦しかったのだ。ざぱんという白波の音で、はっきりとは聞こえないけれど、ぐずるようなおともあるような気がしたから余計に。
ちょうど浅瀬を出たところで、折れたのはやっぱり僕のほう。仕方なしに振り向いたら、泣きそうな顔でうつむいている。泣いているわけではないのに、なんだか放っておけなくなるような顔をしていた。(あー、)胸の奥が、ぐずぐずと苛まれている。
でも、と思う。勝手に他人の舟で寝ていたくせに、えらそうな口をきいたのはこの子だ。再び櫂を持つ手に力を込める。波の音にまた紛れてしまうけれど、どうしても、ぐずるような声はやまない。
(あーもう)
ばかじゃ、ないのか。
「ごめん、なさい、」
「……へ」
「えらそうな、くちきいて。いつものくせが、でちゃって、……ごめんなさい」
女の子の手を取ろうとした瞬間、小さく、けれどはっきりと聞こえた声。それは相変わらず舌足らずでとても幼げで、心なしか不安定で、今にもうみに呑まれてしまいそうなもの。僕が何も言わずにいると、その子はちょっと僕の目を見てからうつむいて、やや空色の水干の裾をぎゅっと握る。そうして強く握りすぎたのだろう、真っ白になったつめの先。それが余計にその子の手をあやうく見せる。
気づけばあのきれいな瞳も揺れていた。ちいさくて、かよわい生き物みたいな反応に、拍子抜けしたのかもしれないし、「ひごよく」ってやつを駆り立てられたのかもしれない。たぶんそれは今となっては分からない理由で、僕はその子に手を差し出した。
「あー、……うん」
そのとき片手に預けた櫂の重さは半端なものではなかったけれど。
立てるかい、とその子にたずねた。半泣きの目をいっしょうけんめいこすって、うんとうなずくその子。ふと見たうみの顔は、陽光が水面に反射して、とてもきれいだなあなんて思ったりもして。その子の名前をきくのを忘れたのに気づいたのは、かなり後だ。
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