第20話
——ゴォッ
機体が、揺れる。
雲の壁へと突入した瞬間、世界は《音》を失った。
風の唸りも、翼を切る空気の反響も、まるで水に沈んだように掻き消えた。
空気が重い。
肌に貼りつく湿気が、思考を鈍らせる。
周囲一面は、漆黒に近い灰の濃霧。
それは「雲」と呼ぶにはあまりにも異質で――
まるで、何か別の次元に足を踏み入れたような錯覚すら覚えさせた。
「前が見えないッ……」
セラの声が無線機越しにかすかに響いた。
だが、その声も、どこか反響がずれていた。
前方に広がるはずの風の標(ウィンドパス)は、一本たりとも見えない。
ルーンの灯りが何かに覆い隠されたように、まったく届いてこなかった。
「……おい、なんだこれ……!」
ジークが舵の補助に回りながら、焦りのにじむ声を漏らした。
ミリアは必死に風の癖を読み取ろうとしている。
だが、風そのものが迷っていた。
通常であれば、風は空の層に沿って一定の流れを保っている。
だが、ここには“道”がなかった。
風が逆巻き、ひとところに渦を巻いたかと思えば、次の瞬間には反転する。
まるで生き物の心臓のように、息を吐き、吸い、脈打っていた。
「……風が、閉じてる」
トレインが呟いた。
誰もが言葉を失った。
何かがおかしい。
空そのものが、何かを拒んでいるような圧力。
その時だった。
コンソールに走る警告灯。
機体を包む魔導障壁に、微細な震えが走った。
「重力が歪んでる……機関、調整中……!」
セラが必死に調整装置を叩く。
機体が、ゆっくりと傾いた。
天と地の感覚が反転する。
空中にあるはずの浮遊艇が、まるで深海を沈む船のように、下へと引き込まれていく。
「くそっ、方角が――!
エアリアのコンパスも狂ってる!」
ミリアが声を荒げる。
トレインは、窓の外に目を凝らした。
霧の向こう。
ほんの一瞬だけ――何かが、揺らいだ。
巨大な、影。
鳥か、島か、それともまったく別の何かか。
見えたはずのその輪郭は、すぐにまた濃霧に呑まれ、消えていった。
「落ち着け、誰かが舵を取らなきゃ、本当に沈むぞ!」
ジークの声が響き、全員がその一言で、わずかに正気を取り戻す。
トレインは自らの機体のハンドルを握りしめ、全身に力を入れた。
「オレが行く!」
ミリアが一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに頷いた。
「風を感じろ。空は、見えなくても“鳴いてる”」
トレインは目を閉じた。
耳に集中する。
霧の中にも、風のささやきはあった。
ただ、聞き取りにくいだけで――確かに、そこにある。
風紋の裏。気流の癖。
指先と頬に触れる圧のわずかな違い。
(この風……右。そこに……空がある!)
トレインは舵を引き、斜めに旋回した。
機体がぐらつき、きしみを上げる。
が、次の瞬間――
霧が、裂けた。
一本の、風の筋が姿を現した。
「見えた! 航路だ!」
セラが叫ぶ。
5つの軌道を描く《ノースフェザー》は、かすかな光の向こうにある風の道を捕らえ、再び前へと滑り出した。
だが、誰も気を抜いてはいなかった。
雲の峰の中に、何かが潜んでいる。
この空はただの“天候”ではない。
“何か得体の知れないもの“、——“空の形そのもの”を変える何かが、霧の中で蠢いている。
先に待つものが何であれ――
もう、引き返すことはできなかった。
霧が、裂けた。
《ノースフェザー》は、まるで囁きに導かれるように、乱流の出口をすべり抜けた。
外の空は、沈黙に包まれていた。
先ほどまでの狂気が嘘のように、風も、音も、ほとんど消えていた。
だが、その代わりに――
眼前に、島があった。
ただ一つ、ぽつりと浮かぶ巨大な漂流島。
周囲の空域から明らかに孤立しており、
空の地図にも、航路にも、その存在は示されていなかった。
「……あれは……」
ミリアが、呆然と呟いた。
島は黒曜石のような岩肌に包まれ、中心には倒壊しかけた塔のような構造物があった。
島全体が、風の流れからも外れている。
まるで時の止まった空間に、ぽつんと置かれた記憶の断片のようだった。
「おかしい……試練リストに、あんな島はないはず」
セラが懐中端末を睨みながら言う。
「位置もおかしい。予定航路からどれだけ逸れてるのかすら……判断できない」
カイが、いつになく真剣な顔で言葉を継ぐ。
「ただの遭難じゃ済まないかもな。こりゃ……予想外の展開だ」
風が、どこか遠くで震えた。
ジークが唇を引き結びながら、短く言った。
「選択するしかないな」
「……降りるか?」
トレインの問いかけに、一瞬沈黙が走った。
だが、誰も否定しなかった。
今いる空域がどこなのかすら把握できない中、唯一目視できる拠点はあの「島」だけ。
「補給と測量の確認もしなきゃ。
一度降りて、状況を整理するしかない」
セラが冷静にまとめる。
「よし。じゃあ、行こうか」
ミリアが、強く舵を握り直した。
《ノースフェザー》が、ゆっくりと高度を下げる。
近づくにつれ、島の輪郭がはっきりと見えてきた。
岩肌には、何かを封じるような紋様が刻まれていた。
しかし、長い年月に風化され、もうその意味を読み取ることはできない。
島の表面には、草木もほとんど生えていなかった。
ただ、静寂があった。
風の音すら、島の周囲で唐突に消えていく。
「風が……止まってる……?」
トレインがそう呟いた時、
島の中心、倒壊しかけた塔の頂部から――
ひとすじ、細い光が立ち昇った。
まるで、誰かが訪れたことに応えるかのように。
「……なにかが、待ってる」
カイの低い声が、風の中に消えた。
《ノースフェザー》は、岩の裂け目にできた天然のランディングスポットへと静かに着陸した。
まだ、この島がなんなのか、誰にもわからなかった。
だが確かなことが一つだけあった――
それは、“ここで何かが始まる”という直感だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます