第19話



——ボッ



朝の陽光を切り裂くように、《ノースフェザー》が勢いよく空へと滑り出した。


塔の発着港を離れた瞬間、風はまるで生まれ変わったかのように別の鼓動をもって5人を迎えた。


空は夜明け前の深い蒼を湛え、空域を漂う無数の漂流島が、薄明かりの中でぼんやりと輪郭を浮かべていた。


その姿はまるで宇宙に咲いた花々のようで、ひとつひとつが、世界の断片の“色”や“形”を抱いていた。


島によって、色も大きさも、漂う速度も違う。


赤みを帯びた岩塊の島は、熔岩の気配を滲ませ、銀葉を纏った緑の島は、樹冠のあいだから微かな風の音を運んでいた。


ところどころには、人の営みの痕跡――

廃墟となった小さな祠や、崩れかけた浮橋の名残があり、

遥か昔にこの空を旅した者たちの影が、風に残されていた。


空域を繋ぐのは、古代エアリア文字で刻まれた航路標(ウィンドパス・ルーン)。


それは浮遊結晶によって空中に固定された、光の標。


淡い青光を放ちながら、航行者たちを正しい風路へと導く。


《ノースフェザー》の舳先に立つトレインは、その標を見上げながら息を呑んでいた。


「……すげぇ……」


そのひと言に、誰も返さなかった。


ただ、皆が同じ気持ちだったから。

言葉よりも早く、目が語っていた。


この空は、知らないことだらけだった。


風には方角だけでなく、層があった。

ある層では魔力が濃くなりすぎて、浮遊艇の魔導炉が過熱することもある。

また別の層では、重力が反転し、下が“空”になることもある。


そのひとつひとつを、風裂祭は試練として課してくる。


だが、それ以上に――

この大陸には物語があった。


空に浮かぶ大地の数だけ、忘れられた歴史と、かつての祈りが眠っている。


トレインの胸が、高鳴った。


自分が今、触れようとしているもの。

それはただの試験でも、ただの航海でもない。


まだ見ぬ未踏の“領域”に、

足を踏み入れようとしているのだと――



ふと、船尾で風を読んでいたセラが声を上げた。


「進路が決まったよ。南南東。降下角七度」


その声に、全員が動き出す。


ジークは足元の魔導リフトを確認し、カイは背中の弦を軽く鳴らして魔力の共鳴を整える。


ミリアは操縦席の横に立ち、トレインに合図を送った。


「このまま突っ走るぞ。空は止まってくれない」


「わかってる!」


編隊飛行を組むスカイランナー同士特有のハンドサインを送り、その言葉に返した。


その拍子にグンと重力が跳ね上がり、5つの機体は高らかなエンジン音を吹かして疾走した。



《ノースフェザー》は、静かに風を割きながら、指定された航路を辿っていた。


第一の漂流島はまだ視界の遥か向こう。

だが、徐々に近づいてきたはずの空の輪郭が、ある一点で、不可解な色に染まり始めていた。


「……あれ、見えるか」


ミリアが眉をひそめて、遠くを指さした。


誰もが視線を向けた先――そこには、まるで空の山脈のような雲の壁が、天へ向かってそびえ立っていた。


白ではなかった。

暗く、青黒く、内側からじわりと脈打つような重圧を抱えた雲塊。


風の流れが変わっていた。

肌に触れる空気が、まるで静電気を含んでいるかのように、かすかに弾けている。


「……異常気象?」


セラが、艦の計測器を見つめながらそう呟いた。


「いや……自然にできた雲じゃねぇな」


ジークが重々しい声で返す。


「こんな雲、オレは見たことがない」


トレインも、言葉を失っていた。


それは雲というより、“生き物”に近かった。

山のようにうねるその峰は、風を飲み込み、

音を殺し、ただ無言でそこに在る。


空が、睨んでいた。


進むべきか、戻るべきか。

しばしの沈黙が、5人の間を過ぎていった。


だが、カイがぽつりと呟いた。


「この風は……まだ、止まってはいない」


誰も言葉で返さなかった。

だがその一言が、確かに風向きを変えた。


「迂回もできないわけじゃない」


セラが冷静に提案する。


「でも、それだと予定航路から大きく外れる。

……結果次第では、失格もありうる」


ミリアが操縦席に両手を置き、迷いのない声で言った。


「突っ込む。怖いからって引き返すんじゃ、スカイランナーにはなれない」


トレインは、深く息を吸い込んだ。


目の前の雲が、空の恐怖そのもののように見えた。

けれどそれ以上に、心の奥が震えていた。


(この先に、何かがある)


恐怖と、高鳴りと、期待が混じる。

それは“生きている”感覚だった。


「行こう」


トレインは言った。


「逃げる理由なんて、どこにもない」


ジークが頷き、セラが黙って装備を確認し、カイが弦を張り直す音が、静かな決意を奏でた。


《ノースフェザー》は、一度傾きかけた進路を修正する。


風が唸る。

雲の峰が、口を開く。


群青が果てしなく続いていく空。

風域を覆う雲の向こうに、得体の知れない何かが息を潜めている。


5人の影が蒼黒い渦の中へ、ゆっくりと、——静かに消えていった。

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