第16話
ミーティングが終わり、メンバーがそれぞれの待機室へと散っていったあと、トレインはひとり、塔の外縁にある小さなテラスへと出た。
風の塔の高層に設けられたその空間は、夜の空気に満ちていた。
空は広く、そして深かった。
星々が、冷たい水面に浮かぶ光の粒のように静かに揺れている。
スカイタウンの夜景も、遥か下方に小さく見えた。まるで別世界のように穏やかで、美しかった。
トレインは柵に手をかけ、しばらく何も言わず、ただ夜空を見上げていた。
——この空の向こうに、何があるのだろう。
そんな問いを、彼は何度も繰り返してきた。
まだ幼かったころ。アストリア村の断崖にひとり腰掛け、風に耳を澄ませていた日々。
誰もいない草地で、名もなき星と語り合いながら、心の奥でふと“何か”を感じた。
それは、風のざわめきの中に混じる、かすかな「声」だった。
言葉ではなく、旋律のようでもなく――
けれど、確かに胸の奥に届く何か。
「……ねえ、ダリオン。空の向こうから声がするんだ」
かつてそう口にしたとき、師であり育ての親であるダリオンは、しばし黙ってトレインを見つめてから、静かに頷いた。
「それは、誰にでも聞こえるものじゃない。風と星を、本当に愛する者だけが感じる”呼び声”だ」
それが何か、正確にはわからなかった。
けれど――だからこそ、彼は知りたかった。
風の声を、星のまなざしを。
そして、自分に呼びかけてくれたあの存在の“正体”を。
輪郭は定かでなかった。
燃えさしのように揺れる紅の灯が、人の形を象っているようにも見えたが、見つめるほどに影のように溶けていく。
彼が“それ”に出会ったのは、まだ幼い頃だった。
アストリア村の外れ、誰も近づかない断崖の上――
風がよく吹くその場所に、トレインはほとんど毎日のように足を運んでいた。
草が揺れる音。葉が擦れる音。
空の高みから、なにかが囁いてくるような気がしていた。
ある日、風の匂いに混じって、ふと“それ”が現れた。
炎のような灯りがゆらゆらと揺れ、同時に影のように曖昧で、見る角度によって姿を変える存在だった。
最初は驚いて声も出なかった。
けれど、それは危害を加えるでもなく、ただそこに、ぼんやりと立っていた。
「……ねえ、君は、風の精霊?」
そう尋ねたトレインに、それはゆっくりと動いたように見えた。
「うーん。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」
まるで風が答えるように、やわらかく言葉が届いた。
「じゃあ、名前はあるの?」
「名前?……ないよ。どこにでもいるから」
「じゃあ、“どこにでもいるやつ”って呼んでいい?」
「いいよ。君が呼びたいように呼べば、それがわたしの名前になる」
そうして、なんとなく始まった会話は、いつの間にか日々のものになっていった。
トレインが断崖に来ると、風と草のざわめきの中に、それはいた。
好きな星の話や、空に飛んでいった鳥のこと、夢の話。
トレインが言葉を投げかけると、それは時々ふと返してくる。
「……君は空に行きたいの?」
「うん。風の中に入って、星に近づいてみたい。……それができたら、きっと楽しいよね」
「そっか。それなら、行けるといいね」
それは、あまりにも自然な会話だった。
いつしかトレインは、それを“友だち”のように思うようになっていた。
あの頃――まだ風の匂いが、世界でいちばん大きな謎のように思えた頃。
断崖の上でトレインはよく寝転び、雲のかたちを追っては、意味のないような言葉をぽつぽつと呟いていた。
「……ねえ、あれ、猫に見えない? しっぽがふにゃってしててさ」
「そう? わたしには魚に見えるなあ。食べられそうな」
「えー、猫が魚になったら、魚が怒っちゃうよ」
「じゃあ……猫の夢の中で泳いでる魚ってことで、どう?」
「それ、ちょっといいかも」
そんな、他愛もない会話。
トレインが星を指差して、「あの一番暗いやつが、好きなんだ」と言ったときも、それは静かに頷いた。
「なんで?」
「うーん……きれいとか、目立つとかじゃなくて、ちゃんと、そこにあるのに、誰も見てない気がして。なんか、そういうの、いいなって」
「そうだね。そういう星、好きだよ」
たまに黙って、風の音だけがふたりのあいだを流れる日もあった。
トレインは草の上に寝転び、存在はその隣にふわりと浮いていて――
気がつけば、ただ空を見ているだけの時間が過ぎていく。
「……君はさ、どこから来たの?」
「風のあるところから。光があるとこ、闇があるとこ……いろんなところ」
「うーん、全然わかんない」
「わからなくていいよ。君が思う場所で、わたしはいい」
そんな返事を聞いて、トレインは笑った。
「なんか、そういうのズルいよ。大人みたい」
「大人ってズルいの?」
「ズルいよ。わかんないことを、わかんないままにしとくんだもん」
それは少しの沈黙のあと、風に混じってふっと笑ったようだった。
「……でも、君はまだ子どもだから、きっとわかるよ。いつか、空の中で」
その言葉が、なぜか胸の奥に残っていた。
その存在は、確かに“誰か”だった。でも、“なにか”でもあった。
言葉で説明できない、けれど確かに“ともだち”だった。
大人になるにつれて、だんだんとその声からは遠ざかるようになっていった。
その姿が見えなくなったあとも、彼の中に残っていたのは、その声、その時間、そして風の中の温もりだった。
星を見上げるたび、風に耳を澄ますたび――
トレインはふと思う。
今でもあの存在は、どこかで笑っているんじゃないかって。
そして、今こうして空の入り口に立つ自分の姿を、風の中からそっと見守っているのではないかと。
それはもう、確かめようもないことだったけれど。
確かめなくても、きっと、そこにいる。
風のように。星のように。
そして、あの“どこにでもいるやつ”の言葉のように。
——「君が思う場所で、わたしはいい」
そんな記憶が、静かに夜空へ溶けていく。
(……俺は、あの日、空と約束をしたんだ)
幼いトレインは、断崖の上で手を伸ばし、小さくつぶやいた。
——いつか、空に行く。
——この声の意味を、ちゃんと見つける。
それは、子どもじみた夢想に過ぎなかったのかもしれない。
けれど、彼にとってそれは、生きる道そのものだった。
星が呼ぶなら、風が背中を押すなら、行くべき場所はただ一つ。
だから彼は、“スカイランナー”になろうと決めたのだ。
誰かに褒められたくてでも、
強くなりたくてでもない。
ただ、この空と風を、もっと深く知りたかった。
風のささやきを聞き取るこの耳で、星の記憶をなぞりたかった。
「……待っててくれ。必ず、あの声の答えに辿り着くから」
小さな呟きは、風に乗って夜空へと消えていった。
トレインは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。
その胸の奥で、確かに何かが、静かに揺れていた。
幼い頃の誓いが、風の記憶とともに、再び灯りはじめる――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます