第4話



訓練を終えた夕暮れ、


トレインはふと、足をアストリア村の工房へと向けた。


村の一角に佇むその建物は、かつてダリオンが空を駆けていた頃に作られた、小さな浮遊艇工房だった。

今ではほとんど使われなくなった木造の艇が、軒先にいくつも並び、風に揺れて、かすかにきしんだ音を立てている。


扉を押し開けると、懐かしい油と木材の匂いが鼻をくすぐった。


「じっちゃん、いるか?」


呼びかけると、薄暗い奥から低い声が返ってきた。


「おう、トレインか。来い、ここだ」


ダリオンは、大きな古地図を広げた机に向かっていた。

その地図には、ヴェントゥスの漂流島の流れ、風脈の変動、そして見えない空の路(ルート)が、細かい手書きで記されていた。


トレインは、少しだけ躊躇してから、机の前に座った。


「なあ、じっちゃん。……オレ、本当に、スカイランナーになれるのかな」


ふと零れた、正直な気持ち。

期待と不安が胸の中で絡まり合い、素直に言葉になった。


ダリオンはしばらく黙っていた。

地図の上を指でなぞりながら、やがて静かに口を開く。


「トレイン。

空を飛ぶにはな……風を知るだけじゃ足りねぇ」


トレインは首をかしげた。


「風を……知るだけじゃ?」


ダリオンは小さく笑った。

そして、工房の隅に飾られている古びた風鈴を指差した。


「この世界にはな、ただの風だけじゃない。

“見えないものを運ぶ風”ってもんがあるんだ」


トレインは黙って耳を傾ける。


「このヴェントゥスの空には、ずっと昔、風の神エアリアがその『神核』を溶かし込んだ。

空を満たす力、島を浮かせ、浮遊艇を運ぶ見えない手――

あれは全部、エアリア様の残した“記憶の風”のおかげだ」


ダリオンはそっと風鈴を鳴らした。

その音は、工房の古びた柱や梁を抜け、柔らかな余韻を残して消えた。


「エアリアの神核はな、目に見えねぇ。触れられもせん。

けど、確かにこの空に息づいてる。

お前が風を感じるたび、空に引かれるたび――

それは、エアリア様の記憶に触れているってことだ」


トレインはじっと、ダリオンの顔を見つめた。

年老いたその瞳の奥に、若き日の空の夢が、今も微かに揺れているのが見えた。


ダリオンはそっと、トレインの胸元を叩いた。


「だから、お前も思い出せ。

空に出るってのはな、風に試されるってことだ。

自分がどれだけ、本気で空を、自由を、愛してるかをな」


トレインは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

言葉にはならない感情。

ただ、拳を握りしめた。


「……オレ、頑張るよ。何があっても、絶対に」


それを聞いたダリオンは、目を細めて、ゆっくりと頷いた。


「それでいい。風は、ちゃんと見てるさ。

風裂祭が始まったら……お前のその「夢」を、空に聞かせてやれ」


外では、夜の風が、草木を揺らしていた。

アストリアの空に、遠い星の光がまたたき始めている。


トレインはそっと、工房のドアを開けた。

夜風が、彼の銀の髪を撫でた。


まだ見ぬ空へ。

まだ知らない世界へ。


心の中で、強く、静かに、誓いを立てた。


——あと、3日。


風は、きっと、答えてくれる。

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