第二章 2-1. - 関ヶ原前夜:老狐の布石

徳川家康――偉大な太閤、豊臣秀吉が、夏の終わりの花火のように、その絢爛たる生涯を終えた後、五大老という、重すぎる責任を、老いたる肩に背負わされた男は、その実、冷たい計算と、いかなる状況にも揺るがない鋼の神経の持ち主だった。


……はずだった。


「人の死に涙を流してはならぬ。戦は感情で勝てぬ」と、そう幾度も自らに言い聞かせてきた。だが、あの秀吉の訃報を聞いた朝、ほんのわずかに胸を締めつけたあの痛み――あれは何だったのか。畏れか、悲しみか、それとも、自らの老いを映されたような、静かな恐怖か。


秀吉の、巨大で温かい影が消え去った今こそ、長年、地底のマグマのように密かに抱き続けてきた、天下掌握という野望を実現するための、二度と訪れない、またとない絶好の好機であると、彼の、研ぎ澄まされた刀のような鋭い知性は、はっきりと、そして冷酷に告げていた。


(……ついに来たか。だが、本当にこれで良いのか?)


一瞬、心が問いかける。“彼の死に乗じる形で得た天下”に、後ろ暗さを感じている自分がいる。それでも、家康はその感情を、まるで指先の埃を払うように、そっと理性で覆い隠した。


「殿、これよりどうなされますか」と近習が静かに尋ねた時、その声に宿るかすかな畏れと期待が、彼の中の迷いを消し去った。


(もう誰も、私をただの「老いた狐」とは笑うまい)


視線の先には、もはや誰もいない。あの秀吉すらいない。だからこそ、家康は独りで答えを出さねばならない。「天下」という盤上に、己の駒をどう置くか。そのすべては、自分の決断にかかっている。


ほんの一瞬、重たく瞼を閉じる。瞼の裏には、かつての主君たち――信長、秀吉、そして戦に散った者たちの顔が、脈絡もなく浮かんでは消える。


(私がここまで来たのは、勝ち続けたからではない。生き残ったからだ)


感情を、過去を、そして誇りすらも、冷たく封じ込める。その末に築き上げたのが、いまの「徳川家康」だった。


やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。


「――時機は、至ったな」


その声に、確信はあっても、歓喜はなかった。ただ、誰よりも長く“時”を耐えた者だけが持つ、揺るぎない静けさがあった。


家康は、静かに流れる大河のように、しかし着実に、この国の、未来の支配者としての彼の地位を、盤石なものとし始めた。


(……急ぎすぎてはならぬ。だが、遅れれば手のひらから零れ落ちる)


そんな思考が、ひそかに胸の内で波紋のように広がる。勝機とは、手に入れた瞬間にすでに失われ始めるものだ――そう教えてくれたのは、かつての織田信長であり、秀吉であった。彼らの栄光と破滅を、間近で見てきた家康は、その記憶を誰よりも重く、そして冷静に噛み締めていた。


彼は、経験豊富な、熟練の機織り職人が、一本一本の糸を注意深く、しかし淀みなく操るように、当時の、複雑に絡み合った政治的な状況を、冷徹に、そして客観的に分析し、碁盤に石を置くように、一つずつ、彼の最終目的達成のための、巧妙な布石を打っていった。


(これは政ではない。織物だ。見えぬ糸を繋ぐ作業だ)


だが――と、家康はふと視線を横に向けた。控えていた老臣が、言葉少なに頭を垂れている。その仕草の中に、微かに漂う不安を感じ取る。


「……殿、あまりに急ぎすぎると、人の心が追いつきませぬ」


誰かがそう言った。名は忘れた。だがその言葉だけが、妙に心に残っていた。


(急げば綻ぶ。だが、ためらえば奪われる)


矛盾する命題が、心の中で綱引きを始める。それでも、家康は迷いを表に出すことなく、飴と鞭を巧みに使い分け、有力な大名たちとの政略的な婚姻政策、そして、彼らの力の源泉である広大な領地の再分配を、着々と進めていった。


それは、時に強引で、時に残酷ですらあった。ある老大名の使者が、帰り際にふと、家康の背中を見つめて呟いた。


「まるで……蜘蛛のようだ。糸を張り巡らせて、気づけばもう逃げ道はない」


その声は低く、感情を押し殺していた。が、耳に届いた家康は、ほんのわずかに眉を動かしただけだった。


(それでいい。誰も気づかぬうちに、私はこの国を包む)


彼は、巨大な蜘蛛が、辛抱強く、そして着実に彼の巣を広げるように、国全体に、彼の強大な影響力の、目に見えない、しかし逃れられない網を張り巡らせていった。


その網に囚われる者たちの顔を、一人ひとり思い浮かべることはなかった。ただ、未来の景色だけが、ぼんやりと、しかし確かに彼の目の前に広がっていた。


(この手で、ようやく“終わらせる”のだ。戦国という名の混沌を)


そして彼の胸には、かすかに、しかし確実に――安堵にも似た感情が、にじみ始めていた。


表向きには、亡き太閤の、唯一の希望である遺児、幼き豊臣秀頼を、飾り立てられた神輿のように彼の旗印として掲げ、豊臣家への、忠実な番犬のような慎重な態度を示す彼の姿は、長年の、酸いも甘いも噛み分けた経験を持つ政治家ならではの、計算高さを生々しく物語っていた。


(……誰もが、わしを「忠臣」と呼ぶ。笑止だ。あれが本心だと思っているのか)


家康は、内心で自嘲にも似た静かな嘆息をもらした。秀頼を担ぐ己の姿に、どこか芝居がかった滑稽さを感じていたのだ。だが、それを見抜く者は、周囲にほとんどいない。ただ一人、側近の本多正信だけが、沈黙のままに家康の目を見た。言葉にこそ出さぬが、その瞳に宿るのは、諦念か、それとも理解か。


「御屋形様は……変わられましたな」と、ふと正信が呟いたことがある。笑みすら浮かべず、まるで石を投げるように、ぽつりと。


(変わったのではない。変わらねば、死んでいた)


そう言い返すことはなかった。ただ、その言葉が耳の奥に棘のように残ったまま、今も消えずにいる。


しかし、その、常に薄く微笑んでいる、能面のような表情の裏で、家康の、深く静かな心には、もはや、この国の真の、そして唯一の支配者としての、揺るぎない固い決意が、ゆっくりと進行する病のように、しかし確実に育まれていた。


(――これは野心ではない。秩序の回復だ。わしがせねば、誰がこの国を束ねる)


最初にその考えが芽生えたとき、家康自身も、その思考の冷酷さにわずかに身震いした。しかし、時を経るごとに、その震えは薄れ、やがて確信へと変わっていった。感情は、行動にとって余分な熱だ――そう教えてくれたのは、他ならぬ自らの過去だった。


(太閤の威光も、今や看板の裏打ちに過ぎぬ。秀頼という名の空洞に、皆が気づいていないうちに……)


もはや彼の中には、迷いはなかった。ただ、氷のように冷えた決意だけが、血管をゆっくりと流れていた。


石田三成が、亡き太閤の、忠実な右腕として、家康の、肥大化する腫瘍のように拡大する勢力に、孤高の騎士のようにアンチテーゼを唱え、立ち上がったという報せは、むしろ家康にとって、天からの、思いがけない贈り物だったと言えるかもしれない。


(……三成よ。お前は、やはりそう動くか)


そう思った瞬間、家康はしばし視線を伏せた。怒りでも、驚きでもない。ただ、かすかな“安堵”があったことに、自身で戸惑いを覚えた。かつての政敵の動きが、まるで予定された駒のように嵌っていく――それは、彼の知略にとって理想的であると同時に、人間としてどこか虚しさを孕んでいた。


「石田殿は、愚直なお方ですな」と、本多正信が静かに笑ったとき、家康はその口元の弛みを一瞥し、目を細めた。


「……愚直。それゆえ、利用価値がある」


言葉にした瞬間、舌の奥に残る金属のような後味を、彼はゆっくりと飲み込んだ。


「反三成」という、偉大な、そして都合の良い旗印を掲げることで、彼は、彼の、これまで水面下で行ってきた行動に、大義名分という、正当性を与え、多数の、それぞれの思惑を持つ大名たちを、彼の、壮大な目的の下に、磁石に引き寄せられる鉄粉のように、効果的に、そして容易に結集させることが可能になったのだ。


(……これで、名も形も、すべて揃った。だが)


心のどこかに、微かに疼くものがある。三成の動きに対して抱いた、あの“清らかさ”のようなもの――理を信じ、義を重んじ、己を省みず旗を掲げるという在り方。それは、若かりし頃の己の姿にも、わずかに重なった。


(……そんな理想は、もうとっくに捨てたはずだ)


家康は、そっと掌を握りしめた。掌の内にあるのは理想ではない。現実の泥と血だ。だが、その泥こそが、天下という器を形作るものだと、自らに言い聞かせた。


そして彼は、再び能面のような笑みを浮かべた。決意は揺るがぬ。だが、その決意の底には、捨てきれぬ微かな影が、確かに横たわっていた。


家康は、「反三成」という、魔法の言葉のような偉大な旗印を掲げ、彼の、老獪な指揮の下に、強大な軍事力を、枯れた大地が雨水を吸い込むように、急速に結集させていった。


(大義など、時に方便でよい……だが、こうも都合よく流れるものか)


内心、家康はわずかに眉をひそめた。まるで、己の手を汚さずとも勝手に駒が動いていくような不自然さ――いや、滑稽さすら感じていた。戦乱の世にあって、正しさは常に勝者の側に転がると知りつつも、あまりに思い通りに事が運ぶと、どこか胸の奥がざわめいた。


強大な影響力を持つ老将、前田利家――彼の死後も、その築き上げた巨大な勢力は、依然として大きな力を持っていた。勇猛果敢で、戦場の鬼神のような黒田如水。そして、奥羽の、隻眼の龍のような雄、伊達政宗――これらの、それぞれ異なる、そして複雑な思惑を胸に抱く強力な大名たちは、「三成討伐」そして「豊臣家のため」という、表面的な、しかし効果的な大義名分の下に、家康の、日の出の勢いを誇る東の陣営へと、磁力に引き寄せられる鉄のように、次々と、そして躊躇なく集まってきた。


(見よ、この滑らかすぎる流れを)


家康の脳裏には、かつて信長の傍で見た、「急すぎる勢いが破滅を呼ぶ」瞬間がよぎる。


(早すぎる結集、強すぎる旗印……まるで、陽の光が強すぎて影を濃くするようだ)


そのとき、側近の一人が小さな声でつぶやいた。「これで、勝利は目前ですな」


「……ふむ」と、家康は低く返しただけだったが、その眼差しは、勝利の先を見ていた。


(勝つのは容易い。だが、勝ち方を誤れば、天下は定まらぬ)


感情の波は、最初は小さなさざ波だった。安心に近い確信。しかし、それがやがて不気味な静けさを伴って広がっていく。疑念、そして――恐れ。


(……私は、やりすぎていないか?)


一瞬、そんな言葉が脳裏をかすめる。


だが、家康はすぐに思考を切り替える。感情は、判断を鈍らせる毒である。自らを支配するべきは情ではなく、理である。


「集まってきたか。ならば、あとは、布を織るだけだ」


その声は低く、確信に満ちていた。だがその声の奥に、ほんの微かに揺れる人間らしい迷いがあったことに、気づいた者は、おそらく誰一人としていなかった。


「これは、決して、私の個人的な、浅ましい私欲のための戦ではない。亡き太閤様のご遺志を継ぎ、幼き秀頼様をお守りし、この、長く続いた戦乱の世に終止符を打ち、真の、永続的な国の平和を築くためなのだ。」


家康は、彼の前に集まった、それぞれの野心と打算を秘めた大名たちに、能役者のように落ち着いた、しかし、その言葉の一つ一つに重みのある声で、ゆっくりと、しかし確実に語りかけた。


(――言葉は刃であり、薬であり、毒でもある)


そう心中で呟きながら、家康は口の動き一つにまで意識を注いでいた。何を言うかではない。どう言うかが、すべてを決めるのだ。だがその裏で、ふと過った一抹の感情――


(……どこまでが芝居で、どこからが本心だったか、もはや自分でもわからぬ)


その微かな迷いは、一瞬で理性に封じ込められる。だが、その封じた「何か」が、心の奥でわずかにうごめいていた。


彼の言葉は、経験豊富な役者の、計算され尽くした演技のように、聞き手の心の、奥深くにある、それぞれの利害と不安に、共鳴するように響いた。


(彼らは、己の「正義」が欲しいのだ。こちらがそれを与えれば、迷わず動く)


家康は、目の前の顔ぶれを見渡す。利家の後継が、慎重な面持ちでうなずく。伊達政宗は薄く笑い、如水は目を閉じたまま何も語らない。いずれも、心の底では「利用されている」ことに気づいているはずだ――それでも、人は「物語」に従う。


(太閤殿下が生きていれば、私は、ここに立ってはいなかった)


そう思った瞬間、家康の目にわずかに翳りが走る。が、次の瞬間には、また氷のような静寂がその眼差しを包んだ。


彼の、凍てつく冬の湖面のような冷たい瞳の奥には、天下掌握という、偉大な野望の炎が、静かに、しかし確実に燃えていたが、彼の、常に冷静沈着な表情には、微塵もそれを感じさせるものはなかった。


(平和か、支配か。いや、それはもう同義だ。誰かが握らねば、国は再び乱れる)


彼の中の感情は、かつてあった「忠誠」から、「責務」へ、そして今は「静かな確信」へと移り変わっていた。


「……この国の未来のために、諸君の力を貸してほしい」


そう締めくくるその声は、もはや演技ではなかった。演じ続けるうちに、言葉と意図が重なっていく。そのとき家康の心に浮かんだのは――


(ならば、私が演じ続ける限り、この国は保たれるのだ)


そう、彼は己を欺くことで、他者を導いていた。


老獪な、深慮遠謀の狐のような策士としての、彼の真の顔を、巧妙に隠しながら、徳川家康は、この国の、長く、そして血塗られた未来を決める、偉大な舞台、関ヶ原へと、悠然と歩む老いたる獅子のように、多数の、精強な軍勢を率いて、堂々と進軍していった。


(……ここまで来た。もはや、引くことは許されぬ)


風のように流れる時間の中で、ふと脳裏をよぎるのは、若き日に人質として過ごした日々。誰にも名を呼ばれず、誰にも期待されなかったあの沈黙の時間だった。


(あのとき誓ったのだ。二度と、他者の影に生きるまいと)


だが、その誓いがここまで自分を押し上げてきた一方で、心のどこかでは問うている。これは誇りか、それとも執着か――。


彼の、静かな心の奥底には、偉大な勝利への、揺るぎない固い確信と、この国を、自らの手で支配するという、冷たい、しかし確かな自己満足が、静かに渦巻いていた。


(勝てば、すべてが正義になる。だが、それは本当に“正しさ”か?)


思考の端に浮かぶその問いを、家康は無造作に振り払った。今は問うべき時ではない。問えば足が止まる。止まれば、次に踏み出す者に踏み潰される。


空気は、張り詰めた弓弦のように張り詰め、これから起こる、歴史的な大戦の、重い、そして不吉な予感が、冷たいオーラのように、彼の周囲を静かに包み込んでいた。


遠くの山陰に、幾筋もの旗が揺れる。使者が走り、鼓が鳴り、将たちはそれぞれの持ち場に散っていく。すべてが整いすぎていることに、ほんのわずかに胸の内がざわめいた。


(戦とは、常に思い通りにはならぬ。それでも、私は賭ける)


その瞳には、揺るぎなき決意があった。だが、その決意の奥には、誰にも見せることのない、静かで、老いの影を帯びた不安――“これが最後になるやもしれぬ”という、かすかな予感が、影のように寄り添っていた。


それでも家康は、歩みを止めなかった。ただ黙して歩いた。老いたる獅子が、最後の一撃を放つその瞬間を、静かに待つかのように。

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