第一章 1-4. - 関ヶ原、落日の鎮魂歌
関ヶ原の夕焼けは、大地に吸い込まれた、敗れた者たちの赤い血の色を、天に映し出したように、痛々しいほど深く、そして陰鬱な赤色に染まっていた。
その空を仰ぎ見ながら、三成の脳裏には、かつて信じ、託し、守ろうとしたものの数々が、まるで映写機のようにゆっくりと再生されていた。
……これが、終わりなのだな。
だが、それにしては、あまりにも静かだ。
喧騒の果てに残ったのは、皮肉なまでに澄んだ、敗北の静寂だった。
同盟軍、すなわち西軍の、組織的な抵抗は、もはや、遠い空で消え去った雷の、弱々しい残響のように、かろうじて聞こえる程度で、その音も、夕闇に包まれるように、急速に消え去りつつあった。
あれほど喧しく鼓動していた軍の息吹が、今はただ、どこか遠くで誰かが咳をしたような、そんな儚さでしかなかった。
石田三成は、打ち砕かれた、かつての誇り高き軍勢の、焼け野原に残された、わずかな残滓を、遠い星を見つめるように注意深く見つめ、深く、そして重い、肺の中の空気を全て吐き出すようなため息をついた。
怒りは、すでに過ぎ去っていた。
虚無が、それに取って代わっていた。
そして今、その虚無すら、静かに沈殿し、無力という名の冷気に形を変えつつある。
彼の心には、偉大な敗北の、氷のように冷たい認識が、ゆっくりと、しかし確実に広がる水墨画のように、静かに浸透していた。
――諦めてはならぬと、誰かが囁く。
だが、どの口で、いまさらそんな言葉を吐けようか。
誰のために? 何のために?
勝利は潰え、正義は潰え、私という名の意志すら、もう風に吹かれ、輪郭を失いつつある。
もはや、この地に、未練がましく留まる意味など、どこにもない。
同盟軍の、彼が命を懸けて守ろうとした豊臣家の運命は、残酷なまでに決定的な方法で、終焉を迎えたのだ。
誰かが、彼の後ろで呟いた。「殿は……まだ、あそこにおられるのか」
その声には、驚きと、わずかばかりの敬意が滲んでいた。
敗者としてではなく、信念を抱えたまま、佇む一人の男としての三成を――誰かが、まだ見ていた。
「皆、退くぞ……」
その声は、まるで枯れた井戸の底から響いてくるような、掠れた、しかし不思議と耳に残る低さを帯びていた。
騒音の止んだ戦場――あまりにも異様なまでに静かなこの場所に、その言葉は、まるで幽霊の囁きのように、淡く、だが確かに沁み込んだ。
終わりを告げるには、あまりにも無様だ。
だが、それでも、誰かが言わねばならぬ。
それが私であるべきなのだ。
たとえ声が震えていようとも。
たとえ心が、今にも崩れ落ちそうであっても――
彼の、埃と血に塗れた顔には、拭いきれない偉大な疲労の色が濃く現れていた。
疲れ果てたという言葉では足りない。これは、すでにすべてを出し尽くした者の顔だった。
逃げたいと、一瞬でも思ったことがなかったと言えば嘘になる。
だが、足は動かなかった。
いや、動こうとはしなかった。
私の役目は、最後までこの場に立つこと――そう、自らに言い聞かせることでしか、今の自分を保てなかったのだ。
その奥の、深く窪んだ瞳には、今も、消えかけの蝋燭のような、しかし確かな一つの熱い光が宿っていた。
それは、信念に殉じる者が最後に抱く、静かで、しかし絶対に揺るがぬ意志の光だった。
怒りも、恐怖も、失望も、すでに過ぎ去った。
残されたのは、ただ一つ、役割を果たすという思いだけ。
それはもう、感情ですらなかった。
ただそこに「在る」だけの、意志の残り火だった。
「三成様が、まだ……あの場所に……」
誰かがそう呟いた。
それは、敗軍の中に残されたわずかな兵の一人の声だったかもしれない。
その声に、驚きと、かすかな敬意が滲んでいた。
絶望の中にも、まだ希望の輪郭を見ようとする目が、そこには確かにあった。
逃亡という、困難を極める道にあっても、三成は、最後まで、影のように付き従う、数少ない忠実な家臣たちへの、細やかな配慮を、呼吸をするように、一つとして怠らなかった。
――こんなときに、なぜ私は水の心配などしているのか。
敗軍の将に、もはや気遣う余地などないはずだ。
だが、それでも、私は――いや、私だからこそ、そうするのだ。
疲労困憊の、抜け殻のような彼らに、短く、しかし心からの労いの言葉をかけ、少しでも安全な道を選び、冷たい湧き水や、わずかに残った乾いた食料を、分け与えるように配った。
それは、もはや「采配」ではなかった。ただ、人として、彼らを見捨てたくなかったのだ。
敗北を背負う者に、まだできることが残されているのなら――それを行うのが、私の矜持だ。
彼の、嵐の後の静けさのような落ち着いた態度は、偉大な敗北という、あまりにも重い雰囲気の中で、夜空に瞬く星のように、弱いながらも、しかし確かな希望の光を灯していた。
「殿、ご自身こそ、お疲れでしょうに……」
近くに控える、若い家臣が、自分の身を案じるように、心配そうに声をかけた。
その言葉に宿る素朴な敬意と労りに、三成は一瞬、胸の奥がふっと緩むのを感じた。
――私のような男に、まだこうして気遣いを向けてくれる者がいるのか。
三成は、遠い日のことを思い出すように、弱く、しかしどこか寂しげに微笑みながら答えた。
「案ずるな。斯くの如きは、我らが、自ら選んだ道の、必然の、そして苦い結果だ。……最後まで、せめて、美しくありたいものだ。」
かつては、「正しさ」のために戦った。
今は、「美しさ」のために立ち続けている――。
その違いを理解したとき、敗北の中にも、わずかに光る何かがあると知った。
彼の、短い言葉の端々には、深淵を覗き込むような偉大な覚悟と、誰にも悟られない、深い悲哀が、静かに滲んでいた。
そしてそれは、彼を知る者たちの胸に、決して消えぬ記憶として刻まれていくのだった。
しかし、運命の、残酷な、そして気まぐれなルーレットは、彼に、ほんのわずかな有利な側面を見せることすらなかった。
三成は、己の敗北を、もはや疑う余地のない現実として受け入れていた。だが、心のどこかで――ほんのわずかでも、奇跡のような逆転を夢想していた自分がいたことも、否定できなかった。
……運命とは、かくも平等を欠くものか。
それとも、これが私の選んだ「理」の、当然の帰結なのか?
長く、そして困難な逃亡の末、三成は、近くの、静かな近江の地で、徳川方の、獲物を待ち構える蜘蛛のように注意深く張り巡らされた、逃げ場のない網によって、ついに、無情にも捕縛された。
捕らえられたその瞬間、誰かが息を呑む音が聞こえた。
「……まるで別人のようだ」
敵方の兵士がそう呟いた声に、三成は一瞬だけ、目を細めた。
――いや、違う。私は、ただ、最後まで歩み切っただけだ。
塵と泥に塗れた、抜け殻のような顔、疲れ切った、生気のない彼の姿には、かつて、その鋭い知略で天下を震わせた面影は、遠い日の幻のように薄れていた。だが、その、決して屈することのなかった背筋だけは、最後まで、荒野を切り開く先駆者のように、真っ直ぐに伸びていた。
無念――から、諦観へ。
そして今、静かに己を赦すという感情が、心の底からゆっくりと浮かび上がってくる。
すべてを失った今なお、自らの「筋」を通したことに、わずかながら誇りが残っているのなら――それだけで、よいのではないか。
彼の歩みは、もはや敗者のものではなかった。
それは、信念を背負い続けた者にしか許されない、静かで、誇り高い足取りだった。
京都へと、罪人のように護送された三成を待っていたのは、この戦の、偉大な、そして冷酷な勝利者、徳川家康の、情け容赦のない宣告だった。
その知らせを聞いた瞬間、三成はまぶたを閉じた。
驚きも、怒りもなかった。ただ、静かな納得だけがあった。
……ああ、やはり、ここに辿り着くのか。すべてが、理の果てに収束する。
世論は、もはや、完全に、風向きが変わるように東の陣営へと傾いており、彼の、残酷な運命は、最初から、定められていたかのように予期されていたと言っても、過言ではなかった。
勝ち負けだけで語られるこの戦に、どれほどの意味があったのだろうか。
私は、正しさを貫いたはずだ。だが、それは誰の胸にも届かぬまま、土に還る。
斬首の日が来た。まだ薄暗い、早い朝の、骨まで凍みるような冷たい空気が、彼の、無防備な剥き出しの首を、冷たい刃物のように吹き抜けた。
傍らで護衛兵がふと息を呑む。
「……この男、怖れも、恨みも見せぬとは」
その呟きに、三成はわずかに口元をゆるめた。
それは、忠義の道に殉じた者に許された、最後の礼儀のような笑みだった。
周囲には、多数の、誇らしげな東の兵士たちが、勝利の儀式を見守るように、静かに、しかし熱い視線で、その光景を見守っていた。
彼の歩みが終わるとき、その胸にあったのは、憎しみでも後悔でもなかった。
ただ、理想に殉じた己への、わずかばかりの肯定だけだった。
彼は、まっすぐに前を向き、一歩を踏み出す。
その姿は、すでに処刑台へ向かう敗者ではなかった。
それは、信念を貫き通した一人の人間の、最後の足取りだった。
しかし、三成の態度には、微塵の、人間が本能的に抱くはずの恐怖の色もなかった。――少なくとも、外からそう見えた。
……怖れてなどいない。いや、本当は、怖れがないはずはない。
この身を裂かれる痛みではなく、私が託した理が、誰の胸にも届かず終わっていくことが――
それが、何よりも、怖いのだ。
彼は、清らかな魂を象徴するような、清く洗い清められた白い衣を身につけ、天を仰ぐように頭を高く上げ、落ち着いた、しかし確固たる足取りで、運命の刑場へと、静かに進んだ。
歩みの一つひとつが、まるで自らを律する祈りのようだった。
死を目前にして、なぜ、私はまだ整然と歩けるのか。
理に殉じた者の姿を、誰かに届けるためだろうか。
それとも、もはや、成すべきことをすべて成し終えた者の諦念なのか――。
彼の、深く窪んだ瞳には、偉大な理想のために、自らの命を捧げる者の、静かで、しかし決して揺るがない固い決意が、静かに燃える炎のように宿っていた。
その決意は、もはや誰かのためではなかった。自らが自らに課した、最後の義務として――。
短い、しかし心からの最後の祈りを、独り言のように低く唱えた後、彼は、月光を反射する清い刃の、冷たい、しかし美しい輝きを、静かに、そして覚悟を決めたように見つめた。
その心の変化は、まるで波紋のように、徐々に彼の全身に広がっていた。
その、凛とした、冬の寒空のような彼の態度は、偉大な敗者でありながらも、最後まで、己の信じる義に殉じた、高潔な魂の、紛れもない象徴として、一部の、彼の高潔さを理解する人々の心に、深く、そして永遠に刻まれた。
「…あの御方、最期まで、微動だにされぬ…」
見守る者の中から、思わず洩れたその声には、畏れにも似た静かな敬意が宿っていた。
その瞬間、石田三成という名は、敗者ではなく、「信を貫いた者」として、時代の闇に確かに刻み込まれたのだった。
彼の、あまりにも早すぎる死は、偉大な、しかし脆かった豊臣政権の、最終的な、そして不可逆的な終焉を意味し、日本の歴史は、巨大な川の流れが、二度と元には戻らないほど大きく、そして劇的に転換点を迎えた。
――私が間違っていたのか、それとも、時代の方が理を見失ったのか。
この命で何かが変わると信じていた。だが、信じるということは、時に、愚かさと紙一重なのかもしれぬ。
……それでも、私は背を向けることができなかった。理(ことわり)を貫くことを。
彼が去った後の刑場には、しばし、誰も声を発する者がいなかった。
彼を罵るために集まった者たちの中にも、声を荒げる者はなく、ただ沈黙だけが、冷たい空気の中を流れていた。
「最期まで、顔を逸らさんかったな……」
一人の若き兵が、そう呟いた。
その声音には、勝者としての誇りよりも、むしろ、敗者の気高さに触れた者だけが抱く、得体の知れない動揺と敬意が混じっていた。
三成の死は、多くの者にとっては、ただ一つの政変の結末にすぎなかった。
だが、時間が経つにつれ、その沈黙の中に含まれていた何か――彼が貫いた「筋」の重みは、徐々に、しかし確実に、一部の人々の心に影を落とし始める。
勝者、徳川家康によって築かれる、長く、そして安定した江戸時代の強固な基礎は、数多くの、名もなき敗者の、赤い血によって、深く染め上げられた大地の上に、築かれたのだ。
そして、その赤の中には、理を信じ、信念に殉じた男の、静かなる誇りもまた、確かに混じっていた。
三成の名は、天下分け目の戦における、偉大な、しかし悲劇的な敗者として、歴史の重いページに確かに残った。しかし、それは単なる「敗北者」の記録ではない。むしろ――
「……それでも、正しきことは、正しきことだ」
そう、かつて彼が誰に聞かせるでもなく呟いた言葉が、今もなお、時の深淵に消えずに響いているように思える。
彼の、短くも、燃える炎のように熱い人生において、最後まで貫き通した、幼き主君への熱い忠義と、決して揺るがなかった固い信念の光は、混沌とした戦国の、深く暗い闇の中で、一筋の清らかな光のように、静かに、しかし確かに輝いていたと言えるだろう。
己の正義を貫くことで、多くの血が流れ、多くの友が離れ、最後には命までも失った。それでも彼は、その重さに屈することを拒んだ。
それは本当に正しかったのか――ふと、そんな疑念が脳裏を掠めたこともあった。だが、それ以上に彼の中にあったのは、理想を手放せば、自分という存在そのものが崩れてしまうという、恐れにも似た確信だった。
「敗れたが、あの男の目は死んではおらなんだな」
処刑を見届けた一人の武将が、そう呟いたという。
勝者でさえも無視できなかった、その目の奥に宿った光。それは、打ち砕かれてなお折れぬ魂の証だった。
戦に敗れ、志半ばでその命を絶たれた三成。その生涯が「無駄であった」と断じられることもあるだろう。しかし――時間が過ぎ、混乱が落ち着き、人々が真に「正しさ」とは何かを問うとき、彼の存在は再び光を放ちはじめる。
最初は哀惜。やがて畏敬へ。そして、静かなる再評価の中で、彼の名は「敗者」の枠を超え、「信念の人」として、語り継がれていく。
関ヶ原の、広大で静かなる大地には、今も、彼が命を懸けて燃やした、偉大な理想の炎と、不名誉な、しかし誇り高き死を遂げた彼の、熱い、しかし今は静かな思いが、名前も残らなかった、数多くの、無数の兵士たちの、同じように無念の魂と共に、深い、永遠の眠りについている。
……理は、人に理解されぬこともある。それでも、貫かねばならぬ時がある。
生前の三成が、誰に語るでもなく、自らに言い聞かせていた言葉が、いまは風の音に紛れ、耳を澄ませばかすかに聞こえるような気がする。
名も無き兵の死と、己の理想。その間に横たわる矛盾は、きっと彼自身が最も知っていた。だが彼は、それでもなお信じたのだ。理想が血に濡れようとも、それを信じなければ、自分は自分でなくなる――そんな確信と共に。
夕方の、冷たい風が、彼らの眠りを妨げないように、大地を静かに、優しく撫でるたびに、彼らの、言葉にならない静かな叫びが、遠い、忘れられた記憶のように、かすかに聞こえてくるような気がするのだ。
今も村人の間では、関ヶ原の草むらの匂いに混じって、「あの男は、散ったが、濁らなかった」と、年寄りがつぶやくことがあるという。
それは、時を経てなお残る、敗者の名に添えられた、静かな敬意だった。
かつては激情と共に理想を追い――
やがて、孤独と懐疑に囚われながらも、なお歩みを止めず――
最後には静かに受け容れた、己が選んだ運命と、それに伴う誇りと痛み。
その軌跡が、関ヶ原の大地に染みこみ、今なお沈黙の中に語られ続けている。
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