24 妻へ

 常磐の命が絶えたそのころ、千利は、常磐が暮らしていた家の前に立っていた。

 玄関のチャイムを鳴らすと、少ししてドアが開いた。

「杉山さん……どうしたのですか?」

 穏やかな声に、千利は深く頭を下げた。その表情には、いつもの落ち着いた皮肉も余裕もなく、ただ、必死さと悲しみだけがにじんでいた。

「お庭を、調べさせていただけませんか」

 予想もしなかった言葉に、奏多は一瞬言葉を失った。だが、千利の目の奥に宿る深い痛みが、何かを察させた。

「わかりました。どうぞ」

 柔らかく微笑みながら、奏多は道をあけた。千利は会釈し、足早に庭へと向かった。

 庭の端、常磐がそう言ったのを、千利は思い出していた。草木の影、石畳の外れ。彼は慎重に、そして丁寧に、足元に集中しながら地面を探った。

 カチンと何かが足先に当たった。わずかに土に埋もれた、ガラスの瓶。そのガラス瓶を持ち上げると、中には一通の手紙が丁寧に巻かれていた。


 千利は瓶を抱きしめるようにして立ち上がり、そのまま奏多のもとへ戻った。

「常磐さんからの、手紙です」

 その一言だけを添えて、千利は瓶を手渡した。

 瓶のなかに込められたのは、もしかすれば『組織』や常磐自身に関する重大な秘密かもしれなかった。それが奏多に知られれば、危険を招くことになるかもしれなかった。

 だが、それでも、その手紙はまず、妻である彼女が読むべきだ。千利の心のなかの、人間としての何かが、そう告げていた。

 奏多は黙ってうなずくと、瓶の蓋を開け、手紙を取り出した。

 そして、数分後。

 奏多の身体が、小さく震えだした。目から涙がこぼれ、口元は嗚咽で震え、声にならない声がもれた。

「学さん……」

 そうつぶやいた彼女の姿に、千利はまっすぐ視線を向けながら、何も言わなかった。


 その後の出来事は、早かった。

 千利があらかじめ手配していた通り、『組織』からの保護部隊が到着し、奏多の安全を確保するために車へと導いた。常磐が裏切ったと知った夜燈が、報復として奏多を狙うと考えた千利の判断だった。

 奏多は車に乗る直前、手にした手紙を千利に渡した。

「……この手紙、あなたに向けての言葉も、あるから」

 千利はその手紙を丁寧に受け取った。奏多は、ほんのわずか微笑みながらこう言った。

「あなたが……この手紙を、私のもとに返してきてほしい」

 言葉の意味は曖昧だったが、そこには希望があった。そして、奏多は車に乗り、ドアが閉まった。

 エンジン音が遠ざかるなか、千利はずっと、車が見えなくなるまで――まっすぐに、見送っていた。


 それから、千利は、組織の事務所に戻った。

 いつものようにセキュリティを抜け、無言のまま奥へ進むと、自席に着いた。

そこには冷たい光を放つモニターと、誰もいない夜の静けさがあった。

 手には、奏多から預かったあの手紙があった。封を開けるとき、少しだけ躊躇したが、その気持ちを振り切り、千利は手紙を広げた。

 しかし、その手紙には、いきなり核心に触れる文面が書いてあり、千利はわずかに目を細めた。伏線も説明も放り投げて、いきなり結末を提示するような文体。

 ああ、この常磐学という男は、不器用な、生粋の研究者だったのだろうと千利は思った。論理や順序を重んじながらも、人の心に触れるには不器用で、まるで論文のような告白だった。

 千利は静かに息を吸い、そして読み始めた。

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