18 好敵手
崩れ落ちた家具と、煙の匂いが残る空間の中で、夜燈紡はゆっくりと歩みを進めていた。踏みしめる床には、まだ温もりを失っていない身体がいくつも転がっていた。
その中の一つ、腹を撃たれた『組織』の男が、かすかに息をしていた。
夜燈はその男の顔を覗き込み、そして、懐から一振りのナイフを取り出した。冷たく鈍い銀色の刃が、躊躇なく足首の筋肉に深く突き刺さった。
「……ぐあッ……ぁああああ……ッ!」
男は意識を取り戻し、痛みに喘いだ。そして、顔を歪め、血を吐きながら、夜燈を睨んだ。
夜燈は、まるで小さな子供に謝るように、柔らかく微笑んだ。
「ごめんね。でも……今日が、君たちの中で最悪の記憶にならなければならないからね」
そう言って、男の頭に手を添え、目を閉じた。それから、夜燈はその男に機械を刺し、『負の記憶』を抽出し、錠剤を作っていった。
夜燈は機械の中でできた錠剤を丁寧にすくい取り、手元の小瓶に封じ込めた。
「ありがとう」
呟いたその声とともに、ナイフを足から心臓へと正確に刺し変え、そして勢いよく貫いた。男の身体は小さく痙攣し、そのまま沈黙した。
夜燈は次に、別の死にかけの男へと向かい、同じ手順で、負の記憶を抽出し、命を絶った。そうして三人目、四人目――
気づけば、手元には四つの『負の記憶の錠剤』が並んでいた。どれも、暗く、澱んだ感情が封じ込められた異形の結晶だった。夜燈はそれらをしばらく見つめ、そして、わずかに眉を寄せた。
「……やりますか」
そう呟くと、懐から阿片のアンプルを取り出し、最初の錠剤とともに口に含んだ。すぐさま襲いかかるのは、胃の底からえぐられるような不快感と、頭を焼くような激痛だった。
夜燈は歯を食いしばり、壁に片手をついて耐えた。頭の中に、他人の絶望が雪崩れ込んできた。後ろから裏切られ殺され、そして、謎の男に足を刺され、えぐられる記憶、それらが、自分の記憶であるかのように襲いかかってくる。
しかし、数秒ののち、夜燈は立ち上がり、深く息を吐いた。
「……急がなければ」
震える指で、残り三つの錠剤を一つずつ飲み下した。そのたびに頭痛は増し、血管が破裂するかのような圧力が頭を締めつけられた。
やがて、すべての錠剤を飲み終えた夜燈は、口元を拭いながら立ち上がる。その顔には、笑みが浮かんでいた。
「すべて……理解したぞ」
その目に宿るのは、狂気と歓喜と、確信だった。夜燈は『組織』のものの記憶を統合していくことで、この作戦の指揮官―
夜燈は、死体を踏み越えて裏口から事務所を出ると、通りを渡り、静かにそのマンションへと向かった。3階の、空き部屋、そこには、あの男、法橋司の下へ。
マンションの三階。法橋司は、空き部屋の荷物を手早くまとめていた。
作戦は完遂。裏切者も排除され、黒羽組も壊滅。後処理は警視庁に任せ、自分は次の段階へ移行する、はずだった。
だが、ピンポーンと静寂を破るチャイムの音が部屋に響いた。法橋は眉一つ動かさず、ゆっくりとモニターのスイッチを入れた。
映し出されたのは、黒いコートを身にまとった男。冷たい光を湛えた鋭い目。背は高く、全身から圧を放っていた。
そして、左右には、まるで壁のように無表情な屈強な男たち。
「……来たか」
法橋は一瞬で理解した。この男が、すべての発端、計画者、影の指導者であることを。
「こいつがすべての元凶だ」
そして、これほどの人物がわざわざ顔を見せに来た以上、自分を生かして返す気など、微塵もない、そんな空気が、モニター越しにも伝わってきた。
法橋はひとつ息を吐き、ドアのロックを外した。
「どうぞ」
静かに、だが、明確な覚悟を持って扉を開いた。
夜燈は微笑むでもなく、威嚇するでもなく、ただ無言で一礼すると、そのまま部屋に足を踏み入れた。屈強な男たちも後に続き、三人は、中央にある小さなテーブルの前に立つ。
法橋と夜燈は、向かい合って椅子に腰を下ろした。一瞬の沈黙のあと、法橋がまず口を開いた。
「ここが、よくわかりましたね」
夜燈は唇の端をわずかに上げ、挑発的な笑みを浮かべた。
「結構大変でしたよ。でも、あなたって、意外と、わかりやすい」
法橋は淡々とした口調で応じた。
「どうやったか、知りたいところですが。まぁ、それはあなたを捕まえて、拷問して聞き出せばいいことですからね」
その言葉に、ボディーガードの一人がわずかに身を乗り出しかけた。だが、夜燈はそれを制するように片手をあげ、顔を崩さずに笑った。
「まぁ、そういうことですね」
二人の間に、静かな火花が散っていた。冷たい笑顔と、無感情な眼差し、思惑と殺意が、互いの呼吸の中で交錯していた。
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