16 警視庁

 一方その頃、東京新宿区、表向きは国際医療法人のビルに見えるが、その地下深くに設けられた会議室。防音加工の施された重厚な扉の向こうでは、機密度Sクラスの上層会議が静かに始まっていた。

 長方形の黒曜石のテーブルを囲む9人の男女。中央に立ったのは、法橋司ほうきょう つかさ。かつて公安の鬼と恐れられた頭脳派で、今は『組織』の戦略顧問を務める男だった。

「須藤千利の分析によれば、例の錠剤は、ある種の記憶そのものを投与する性質を持つと見られます。

 これにより、対象者には本来経験していないはずの『負の体験』が刻まれ、思考や行動に著しい影響を与える。つまり、他人の記憶で人間を動かす兵器と呼んでも過言ではありません」

 その言葉が落ちた瞬間、会議の空気は一変した。

「……まさか……」

「投与経路は? もう流通してるのか?」

「誰が? 何のために?」

 場は騒然となり、交差する怒号と焦燥に満ちた視線が飛び交った。だが、法橋は動じなかった。

「静粛に」

 その一言で、会議室は静まり返った。彼の声には、絶対的な抑圧の力が宿っていた。

「これは好機です。この薬物の存在を突破口とし、警視庁と連携。長年我々を蝕んできた暴力団、『黒羽組』への一斉捜査を実行し、日本政府にも恩を売る。敵を削ぎ、味方を得る、まさに一石二鳥ではありませんか」

 言葉の刃は明快だった。しかし、すぐさま異を唱えた者がいた。

「軽率だな、法橋」

 その声は低く、冷たかった。『組織』No.3、御堂浩康みどう ひろやす。情報制御を担う老練の策士が声を上げた。

「相手は『記憶』を兵器にできる。それが事実なら、仲間割れすら誘導可能だ。そんな状態で、戦闘組織を派遣すれば――我々が何を失うか、計算できているのか?」

 重い沈黙が落ちた。しかし法橋は、待っていたかのように即座に応じた。

「もちろんだ。だから、そのリスクを最小限まで減らしましょう。まず、クラブ『アゲハ』に出入りした者は、作戦から完全に除外する。さらに、作戦参加者には全員、須藤千利による心理チェックを義務づける。そうすることで、未知の動機が埋め込まれている者を作戦から排除できます。」

 言い終わる頃には、誰も声を上げなかった。御堂も、目を細めながら黙していた。

 そして

「多数決で」

 寡黙なNo.1、井原政隆の一言が響いた。

 手が上がる。5対4。わずか一票差で、法橋の提案は可決された。井原はゆっくりと立ち上がり、全員を見渡した。

「決行は一週間後。それまでに各自、作戦指示を出し、体制を整えろ。報告会は明日、同時刻、同じ場所で。解散だ」

 椅子が一斉に引かれる音が、地下の重圧の中に響いた。会議が終わり、無言のまま各々が重い足取りで部屋を後にした。


 だが、最後まで席を立たなかったのは二人だけだった。

 井原政隆と、法橋司。密閉された空間に残るのは、わずかな振動音と換気の低いうなりだけだった。井原はゆっくりと椅子から立ち上がり、無言で壁に掛けられた作戦図を見やった。

「……全員が気づいていたわけではないかもしれんが」

 沈黙を破ったのは、井原だった。

「この作戦は、協力側の警察に、裏切り者が現れる可能性が十分にある」

 低く、しかし芯のある声。その裏には明確な不信と予測が宿っていた。法橋は、わずかに目を細めると、すぐに静かに答えた。

「十分、承知しております」

 井原は頷くと、くるりと身を翻し、出口へと歩き出す。だが扉の前で立ち止まり、背を向けたまま告げた。

「うむ。それでは……警視庁との連絡、当日の作戦指揮は任せた。君のお手並み、拝見といこう」

 その言葉には、信頼と試練の両方が込められていた。法橋は、ゆっくりと席を立ち、何も言わず、深々と頭を下げた。井原は一瞥もくれず、そのまま重厚な扉を開き、部屋を出て行った。

 残された法橋は、ひとり、部屋の中央に立ったまま、無言で天井を見上げた。

 法橋の思考は、すでに次の数手を描いていた。

「私の手のひらで、全てを踊らせてみせよう」

 法橋は、誰もいない会議室の中、ニヤリと笑った。









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