04 裏切り

 それから三時間後。

 船はすでに外洋へと出ていた。伊藤啓二が滞在しているVIPルームの前、その長い廊下の交差部に、千利と桜井、そして反対側には藤堂が待機していた。

 彼らの耳には、それぞれ小さなイヤホンがはめられている。そして手元の携帯には、廊下を映す防犯カメラのリアルタイム映像が映し出されていた。

 桜井はイライラした様子で画面をちらりと見たあと、千利に小声で言った。

「……本当に洗脳、うまくいってるんだろうな?」

 千利はその言葉に顔を向けることなく、携帯を見つめたまま答えた。

「おそらくですが。」

 その無感情な返答に、桜井が舌打ちしようとしたそのとき、イヤホンに藤堂の声が響いた。

「来たぞ。」

 二人はすぐさま画面に意識を移した。そこには、SP三人を引き連れ、悠然と廊下を歩いてくる伊藤啓二の姿が映っていた。サングラスにスーツ、警戒心をむき出しにしているSPたち、緊張感がにじむ映像だった。

 

 だが、その緊張は、すぐに奇妙な光景によって破られた。

 ちょうど伊藤啓二と交差しそうになった乗客が、彼に気づくやいなや、まるで地雷を踏む直前で回避するように、急に反転し、交差部へ向かって歩き始めたのだった。

 誰に何を言われたわけでもない。目も合わせず、ただ自然に、あそこには行きたくないとでもいうように。

 桜井はそれを見て、驚愕し、思わず千利の方を見やり、呟いた。

「お前、まじかよ……どうやったんだよ。」

 千利はようやく視線を桜井に向け、無表情のまま答えた。

「ただ、伊藤啓二がこの船にいて、重要交渉中で、近づいてはいけないってことを、この道を通る可能性が高い乗客の脳に念押ししただけですよ。」

「そんなこと伝えたら、むしろ騒ぎになるだろ。写真撮ったり、握手求めたりするアホも出るもんだが……」

 桜井は信じられないといった顔をする。だが、千利は静かに、言葉を重ねた。

「……そういう風にさせず、100%で避けるようにするのが、プロの仕事です。」

 その声には、一片の誇りも、興奮もなかった。まるで日常の業務を説明するかのように淡々としていた。

 千利は、腰のホルスターから音もなく銃を引き抜いた。桜井も、すぐにそれに倣った。交差部の右に潜んでいる藤堂も、すでに銃を構えているはずだった。

 だが、三人の空気に、殺意は一切漂っていなかった。彼らの雰囲気も、すれ違う他の旅行客と何ら変わらない、ただの楽しそうな乗客のそれだった。

 そして、伊藤啓二が、廊下の交差部に差しかかろうとした、その瞬間だった。


 パン――ッ!

 隣にいた桜井の銃から甲高い銃声が響いた。

 千利は驚愕する心を抑えて、状況判断をしなければと自分を律した。千利は、交差部の向こうで血を吹き、崩れ落ちる藤堂の姿を目で確認した。そして、そのままこちらに銃口を向けようとする桜井の動きを感じ取った。

 櫻井は裏切った。

 千利は瞬時に理解した。だが、同時にここで桜井と撃ち合えば、間違いなく伊藤啓二のSPたちが動き、挟み撃ちにされ、逃げ場はない。となれば…

 脳内で最適解を導き出した千利は、桜井の方を振り向かず、左足を後ろへ踏み出した。一拍、ほんの一瞬。桜井が照準を定めるために必要なわずかな時間を稼ぎながら、体をわずかに後退させる。

 そして、ためらいなく、その左足を桜井の背後に向かって強烈に蹴り上げた。

「ぐあっ――!」

 桜井が呻き声を上げると同時に、その身体は交差部へと吹き飛んでいった。ずるずると床を滑りながら、桜井は銃を持ったまま倒れ込んだ。

 しかし、千利はそんな桜井の状態を確認することなく、すぐに交差部を背にして、全力で走り出した。

 背後で、銃声が再び響いて。ヒュッ、と耳をかすめる音を千利は感じたが、幸いにも、弾丸は当たらなかった。

 後ろで怒号が上がり、警報が鳴った。だがそのあらゆる音を千利は無視し、 振り返らず、ただひたすら、船内の迷路のような廊下を、疾風のように駆け抜けた。

 逃げて、この状況から、次の一手に繋げるために――

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