第三話 予想外の未来。



 こんこんっと戸口を叩く音で、達己の意識は浮かび上がってきた。

 しょぼつく目を擦りつつ身体を起こすと、何だかあちこちが軋むように痛む。

 布団も敷かず直接畳の上に寝転んだのだからさもありなん。

 それでもこんなにすっきりとした目覚めを迎えるのは何年ぶりだろう。ひょっとしなくとも物凄く寝ていたかもしれない。


「…さん、十七夜さん、起きてますかぁ?」


 若い女性の声だ。

 彼女がノックしてくれていたのだろう。


「す、すみません。今起きました!」


 あわてて言葉を返すと、ガラリと玄関の戸が開けられた。

 今になって玄関の戸口に鍵を掛けたりしていなかった事に気付かされる。

 尤も、達己の現在の所持品など履歴書と求職カードくらいなものだ。盗られて困るものなぞありゃしない。それでも不用心な事に変わりはないが。


 そんな彼の前に姿を見せたのは、二十歳前後と思われる女性だ。

 先程掛けられた言葉は柔らかかったが、その声音とは裏腹にかっちりとパンツスーツを着こなしている、商社か役所勤めのような雰囲気の女性だった。

 何かしらのファイルでも手にしていれば、それはそれは様になっていただろう。

 しかしその手に持たれていたのは丸いトレイであり、その上には茶の入った湯飲みと握り飯三つ(お新香付き)。味噌汁の腕であった。

 そのお陰か、彼女よりもトレイに目を奪われていたりする。


「簡単な物しかお出しできませんが、勘弁してくださいね。」


 スっと目の前に置かれた食事を目にした途端、待ってましたと言わんばかりに彼の腹は豪快に鳴った。

 恐縮して頭を掻く達己だったが、その女性は優し気に微笑むだけだ。


「分からない事が多いと思いますが、まず腹ごしらえをしてからお話しする事にしますね。」

「重ね重ねありがとうございます。」


 彼は恐縮し切りであったが、女性は「いいえぇ。」と優しく微笑み、更に洗面具一式も置いてくれた。


「では、一時間後にお迎えに参りますのでぇ。」


 と、手を振り、やや急ぎ足で彼女は家から出て行った。

 実のところ達己は彼女に対して何かしら質問をしたかったのだが、湯気を立てている味噌汁の誘惑に綺麗にかき消されていた。

 彼は洗面も二の次に握り飯を口にし、汁を飲む。


「……あ゛ぁ゛。」


 喉から絞り出すような声が漏れた。

 程好い塩気の握り飯と、出汁が利いている味噌汁。

 コンビニ弁当とジャンクフードがメインとなっていた彼にとって、何年ぶりだろう余所行きではない家庭の味だった。

 ただ腹を満たすだけの行為と化していた彼にとって、無意識下ではこういった料理に飢えていたのかもしれない。

 握り飯の中に入っていた小梅も、添えられたお新香の歯ごたえも、何もかもが懐かしく、美味い。

 達己は、飯を喉に詰めつつ夢中でそれらを平らげていった。

 最後にお茶を飲み干し、自然と手を合わせ御馳走様と唱える。

 量的には少ないといえるものであったが、長く適当過ぎる食生活を送ってきた彼にとって、この軽食は心に沁みるように感じられた。

 一時間後、と聞いた時には結構間を置いてくれるなと気楽に考えていたが、食事を堪能し顔を洗い、風呂場で夕べの汗を流しているとあっという間だった。


 不思議な事に、達己には焦りも混乱もほとんどない。

 失って困るものはもう一つも無い彼であるが、それでも状況だけは知りたかった。

 どうなるにせよ、どうするにせよだ。

 ふと、職安に向かう直前の何とも言えない気の重さを思い出し、苦笑してしまう。

 自分の立ち位置が全く分からないというのに、あの時より確実にマシなのだ。


 案外、しがらみを全部無くしてしまったお陰なのかもしれないなぁと、お気楽にと笑みを浮かべていた。

 そのお気楽な笑みも、色々失ってから長く、浮かびもしなかった表情だという事に気付く訳も無く。




 先ほどの女性が呼びに来てくれたのは、丁度彼が何とか衣体を整えたところであった。

 彼女――名を『あるあ・土岐島ときじま』というらしい。

 達己が予想した通り支所に勤めている女性だとの事。

 日本名っぽいのだが、何故か姓と名前を逆にして名乗られている。

 少し引っ掛かる気がしたが、質問は後にしてとにかく話を聞くに徹した。

 彼女が言うには彼が眠ってから既に次の日になっており、その間に他の乗客達のトリアージと各病院への振り分けは終わっているらしい。

 それでも職員たちは昨日深夜まで後始末に掛かっていて、落ち着いて通常勤に戻れたのは今朝がただという。

 そんな彼らの苦労も知らず、辰巳は昨日の朝から今朝まで惰眠を貪っていた訳だ。

 唯一ほぼ無傷であった事でかなり落ち着いて身分証明ができ、すぐに解放されて休めたのだから何だか申し訳なくなる。

 尤も、彼以外の乗客の容体はお世辞にも良いとは言えないらしく、比較的マシな部類であってもショックが強過ぎた所為かパニック症状も起こしていたというので、例え達己がいたところで猫の手にすらなれたか甚だ疑問である。

 何しろ重傷者だと未だに意識が戻らぬ者もいらしいのだから。

 そして当然、氏名も分からぬまま亡くなった者も……。

 念の為に御確認を、とエンバーミング―というより死化粧であろうか?―とりあえず見られる程度に顔を整えられた被害者達の写真を見せられたが、幸か不幸か全員見知らぬ顔であった。

 見知った顔ではない事を告げると、あるあはやや残念そうに肩を落とした。更に申し訳なさが募る。

 

 それにしても――と、歩きながら周囲を見回すが、本当に見知らぬ街並みである。

 話によると、

 らしい、というのは目に映る景色が自分が知る都内のそれではないからだ。

 確かに、遠くには高層ビルやらタワーも見えているのだが、都内を思わせているのはその遠くの建物だけで、近場の光景には近年の都市という感じのものが見当たらないのである。


 まず道が広い。

 そして広さの割にガードレールがない。

 昨今、歩行者道路と自動車道の区分けラインの無い道なんぞ田舎道でも珍しいというのに。

 そしてその道路も地面がむき出しなのだ。

 車も走ってはいるがほんの数台程度。その車も見た事も無い車種のトラックばかりが目に入る。

 それらもサイズこそ軽トラ程度なのであるが、何となくアメリカの古いピックアップトラックを思わせるようなものだった。

 更に驚いたのは、人が乗った馬が普通に道を歩いている事だ。

 それも所謂サラブレットような駿馬ではなく、道産子ような足のごつい荷運び馬である。

 少なくとも、達己の知る日本では一般道を走らせたりできなかったはずなのだが。


 歩いている間、あるあが色々と細かく説明をしてくれていたような気がするが、目から入ってくる情報に混乱している彼には大半が右から左。

 ただ呆けた様にはぁ、ヘェとかハァと返す事しかできなていない。

 何が何だか分からぬまま、そして違和感をどんどん募らせながら達己が案内されたのは、街の公民館ような建物であった。

 実際、公民館と書かれた看板が掛かっているし。

 しかし彼の知る建物の規模からするとちょいと大きめな集会所程度。それも"地方の"という前置きが付くような。

 これで、扇子でバタバタ扇ぎながら汗だくの小太り村長とか横に据えれば凄く似合いそうだ。主に昭和の白黒映画に出てきそうで。


 彼女に促され建物に入り、玄関でスリッパに履き替えていると、自分らの靴とは別に、小さなスニーカーが目に入った。

 自分は革靴であるし、他の靴箱に入っているものは あるあと同じデザインの革製パンプスなのでそれは一際目立っている。

 とすると、これは自分と同じように事故に巻き込まれた誰かの物なのだろう。

 他にも説明を受けられる容態の人がいたんだと、特に気にも留めずあるあに続いて奥に進んでゆく。


 昼日中とは言え明かりをつけていない建物の中は若干薄暗い。

 木造独特の軽い軋みを立てつつ、あるあに続いて廊下を進んでゆく。

 この独特な雰囲気の建物は、彼の年代にはほぼ失われている木造施設独特のものだ。

 不思議と懐かしさにも似た感覚を覚えた。


 やがて玄関から少し奥まった部屋の前であるあは立ち止まった。

 扉の上には黒い板に白字で会議室と書かれた札が下がっている。

 彼女はその部屋の入口を控えめにノックした。

 中から「どうぞ」という許可の声をもらい、あるあは扉を引いて中に入ってゆく。

 達己も続いて中に入ってゆくと、中は如何にも会議室といった態にコの字型に長机が置かれており、議長席に当たる席にはこれまたパンツスーツの女性――と、入り口に背を向ける席に座っている少女が。

 達己もある程度予想はしていたが、学生服姿である事からこの少女も自分と同じくあの事故に遭った一人なのだろう。


 二人が入室して、あるあがドアを閉めるのと当時に女性が席を立ち、


十七夜たちまちさん―でしたね?

 被害に遭われた後だというのに御足労掛けました。

 申し遅れました。

 私はこの千代田で防衛の職に就いております海鳴かいな瀬戸せとと申します。」


 と、自分と同年代だと思われる大人の女性が、自己紹介しながらを名刺を差し出してきた。

 

「あ、これはどうも。」


 達己は反射的に相手に会わせて身体を倒し、シュッと両手で名刺を受け取った。

 自分も相手に渡そうとして懐のケースを探り、ようやくもう持ち合わせていない事を思い出す。

 失業したとはいえ、身に沁みこんだ癖は簡単に消えやしない。

 ばつが悪い想いを誤魔化すように受け取った名刺に目を落とすと、『千代田市市営環境保安部部長』という見慣れない肩書が。

 そもそも千代田ってなんぞ? と首を傾げている達己に、海鳴はどうぞと少女の隣の席を勧めた。

 促されるままパイプ椅子に腰を掛けると、件の少女が小さくぺこりと頭を下げてくれたので、彼も軽くそれに応じた。

 長机に二人という椅子配置なので割とスペースはあるものの、それでも女性三人の中男一人なので何となく居心地が悪い。


 あるあにしても二十歳やそこらの可愛い系の女性であるし、海鳴はやや堅物そうであるが、如何にも出来る女といった感じの大人の美女である。

 そして自分と同じ境遇であろう少女も又、可愛いと言い切れるレベルの少女であった。

 肩甲骨まで届くストレートの黒髪。

 華奢ではあるが、痩せている印象は無く、健康そうに陽に焼けた肌をした少女だ。

 文系のようで、アウトドア系のような……何とも不思議な印象を持たせる少女だと感じていた。

 そして向けられる眼差し。

 そこに怯えの色が見られない。

 こちらに向けた眼差しに感じたのは興味のそれ。達己が想像していた不安げなものが感じられない。

 あんな事故に遭い、こんな訳が分からない状況の中に置かれているというのに、目の光が強い。

 焦りや不安げなものは見えず、どちらかと言うと好奇心の色を強く感じられた。

 

「紹介します。

 彼女は――あぁ、そう言えば確か

 彼女は鹿ノ又かのまた 千金ちかさん。

 貴方と同じく今回の災害に巻き込まれた方です。」

「鹿の又でカノマタ、値千金の千金と書いてチカです。」


 文学系? という印象を持っていたが、思っていたよりハツラツとした喋り方だ。

 名前の読みを伝える言い様も普段から言い慣れているように感じられるし。

 達己も遅れて自己紹介をし、彼女に習って字と読みを伝えた。


「タチマチタツキ…何かの諺みたいですね。」

「良く言われるよ。」


 珍しい苗字ですね、の次によく言われている。

 語呂的に覚えてもらい易いので仕事で多少は役に立ってはいた。まぁ、今更だが。

 二人の自己紹介が終わった事を見届けると、海鳴の隣の席にあるあも腰を下ろし、「さて、何からお話するべきか……。」と少し言葉に詰まりながら、


「――兎も角、先にこれは言わせていただきます。

 よ く ご 無 事 で 戻 ら れ ま し た。」


 と、達己ら二人に心からの労いの言葉を掛けた。

 戻った、とはどういう意味なのか? という疑問が湧くものの、いきなり過ぎて何をどう言の葉を返せばよいやら戸惑ってしまう。

 しかし続けられる言葉に更に惑わされる羽目になる。


「お二人――いえ、正確にはあの車両に乗っていた方々は、西暦2025年5月某日に行方不明となったと記録が残されております。

 そして昨日……西暦2126年5月11日に皆さんはこの世界に戻られました。」


「……?」


 達己も千金も、ふぁ? とかへぁ?のような間の抜けた声を出していた。

 どうでもいい事だが、声が重なって丁度「は?」 という声に聞こえている。

 昨日から衝撃続きであったが、思い切り真顔でジョーク―それも性質タチの悪い部類―を言われても反応に困る。全くもって実に困る。

 だがしかし、そんな素っ頓狂な事をほざいてくださった海鳴は真面目な顔であり、あるあもまた神妙そうな顔をしているではないか。


。」


 あの事件に遭った乗客らは百年の時を越えた。

 そう言われているのである。


 達己らの困惑具合を知ってか知らずか、海鳴…そして あるあは再度そう労いの言葉を紡ぎだしたのだった。

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