幽霊の妹

 僕は岬へ続く道を走っている。

「ね、ねぇ、どうしてそんなに急ぐの?」

 僕の前を走っていた女の子が振り返る。おかっぱの可愛い髪が海風に翻る。

 彼女はなんだか、泣きそうな顔をしていた。




 僕の家出は、全く無計画だった。

 中学受験を強いてくる母に反抗し、家を飛び出した。


 電車を乗り継ぎ、名前だけは知っている場所で降りる。海に囲まれた、半島の街だ。

「……交通系ICカード使っちゃったし、すぐ見つかっちゃうだろうなぁ……」

 まあ、僕の家出は突如発生したもので、カードの履歴でバレるものなのか、さっぱりわからないんだけれども。

 浜辺で湿った砂を小枝で掘り返しながら、僕は溜め息を吐いた。

 僕の名前は、青美結兎あおみゆいと。少しひらがなカタカナを覚えるのが早かっただけの、ただの凡人。



 僕はべたべたする潮風から逃れ、陸地の方へ歩いていった。

 普通の民家を横目に、ずんずん山の方へ歩いていく。そして、その洞窟を見つけた。

「……お、海蝕洞かいしょくどう

 波の侵食で作られた洞窟は、暗かった。

 一歩踏み込もうとした僕を、高い声が呼び止めた。

「観音様にご挨拶するの?」

「え……、誰?」

 着物姿のおかっぱの女の子が立っていた。

「あ……地元の子?」

 どうやら年下らしく、僕はぎこちない笑みを浮かべる。

 女の子はそれに答えず、海蝕洞を見る。

「ここの地名の由来になった観音様なの。行基さんが作ってくれたの。もう燃えて、この像は二代目なんだけどね」

 確かに、奥を覗くと祠らしき影が見えた。

「……この町を、案内してあげる」

 女の子は僕の手を引いた。

 今まで海の中にいたんじゃないかっていうぐらい、冷たい手だった。

 でも、不思議と嫌な感じはしなくて、気付けば僕は、この少女の後について歩き出していた。



 チアノーゼでも起こしたかのように、血の気の失せた白い肌。黒髪のおかっぱに、着物。くりりとしたまんまるい目。

 僕はその子にいろいろな場所に連れ回された。

 小さな水族館。不思議な形の木。荒い波が襲いかかる波止場。水中の音を聴くために作られた、戦時の施設。

「初めて……来たな……」

 僕はカバンに財布を戻しながら呟く。意外と馬鹿にならない入館料だった。女の子は、地元民の特権でお金を払わず入館することが可能なんだそうだ。

「いいもの見れたな……」

 知識として知ってはいた。でも、やはり百聞は一見にしかずだ。

 女の子は振り返った。

「……覚えてない?」

「え?」

 すると、女の子は悲しそうな顔をした。

「覚えてないなら、いいの。これから思い出してくれるなら」

「えっと……初めましてじゃなかったっけ? いつ逢ったっけ?」

 女の子はゆるく首を振る。

「今のあなたに会うのは、初めて。……公園に行こう?」



 森林公園に近いのだろうか。

 森に融合した公園には、多くの原っぱが点在していた。

「ここに昔は村があったじゃない?」

 いや、知らないよ?

「飾りを作って生計を立ててたり、漁師になってたり……楽しかったな」

「……君は、一体、」

 少女は木の上に躍り上がる。

 古めかしい歌を、綺麗な声が歌う。

 僕は、五分その歌声を独り占めした。



 少女といるのは楽しかった。

 鬼ごっこをして、木登りをして、させてもらえなかった遊びを、いっぱいした。

 晴れ渡った僕の気持ちに呼応するように、海には薄明光線がいくつも差し込んでいた。

 こりゃ、もうすぐ綺麗に晴れるだろう。



 イヤホンを耳に突っ込んだ青年は電子ピアノに指を置く。

「ううん、後悔はしてないよ、サー」

 空中を見上げて、スファレは楽しげに笑う。

「うん、ああ、そうだね」

 彼は肩を竦める。

「いいや、僕は弾けない。……君までそんなことを言うのかい?」

 彼は困ったように笑う。

「はいはい、それは困るから受ける。受けるってば」

 彼はこちらを振り返った。

「この人の新曲に免じて、出向いてあげる」

 スファレは、薄着に交通系ICカードを持って、古びた事務所を出た。


「お前も、好きな音楽系アーティストなんているんだな」

「好き? 違うよ、彼のことを純粋に好きな訳じゃない。僕じゃ見れない光景を彼は見せてくれるから。多分、友達になれるような人じゃない。でも、彼の言葉は好きだよ」

 饒舌だな。

 サーは音楽に乗って歩いているらしいスファレを見下ろしながら首を傾げる。

 人間らしくいるためのカモフラージュだろうか。いつか、聞かせてもらえたら嬉しいな。……いや別にどうでもいいんだけど!

 改札にスファレは消えていく。

「待てよ!」

 音楽に夢中な彼に、その声が届く訳もなく。




 この少女が、どんな思い違いをしていたとしても、多分、とても大切な思い出なんだろうな。

 結兎は、小学六年生の自分より頭一つ小さい女の子の後ろ姿を見つめる。

「次は、どこ行こうか?」

 女の子は相変わらず血の気の失せた顔で笑った。

「海が綺麗に見える展望台!」

 空は快晴。青く透き通った水と、秋の空はきっと親和性が高いだろう。

 ……本当は、こういうの、母さんと一緒に見たかったな。




 孤独。

 それは人の心を蝕む。

 スファレは海岸に溜まった雑多な霊を見つめる。

「どうした? そこの雑魚は依頼主の旅館の霊障とは、どう頑張っても関係ねーみたいだけど」

「まあ、ね」

 ……漂流者恵比寿、か。

 スファレは踵を返す。

「おい、手がかりでもあったか?」

「逆だよ。何もない。何もないからこそ……」



「わ、なんでそんなに急ぐんだよ?」

 僕は岬へ続く道を走っている。

「ね、ねぇ、どうしてそんなに急ぐの?」

 僕の前を走っていた女の子が振り返る。おかっぱの可愛い髪が海風に翻る。

 彼女はなんだか、泣きそうな顔をしていた。

「お願い、どうか……」

「え? なんて言った?」

 少女は目を伏せる。



「はぁ……」

 スファレは護符を持ったママ溜め息を吐く。

「何こいつ。めっちゃゃすばしっこいし数多い……」

「蹴散らしてもすぐ戻って来るな」

 スファレは荷物を持って外に出た。

「やめだやめ! ちょっと観光!」

「はぁああ? 依頼の途中だろ⁉︎ 」



 海は、綺麗だった。

 潮風が体を撫でていく。

「……ここの海、」

 少女の冷たい手が柵を掴んだ手に触れる。

「思い出せない?」

 柔らかい声が言った。

「私、ずっとそばに居たかったのに」

 誰の?

「人柱失格だってさ。酷いよね、私は勝手に殺されて、神様にも見放された。まだ死にたくなかったのに」

 少女の声が泣き始める。

「あなたは、幸せに生きられた? 私のことを想っていてくれた? 私が、十六歳の頃の話だよ? 覚えてる?」

「……」

 潮騒がする。

 船。荒波。子供。男。叫び声。風雨。飢えた民。

 ——潮の、匂い。海の、景色。

 隣にいたのは誰だった?

 ずきずき痛む。頭が痛い。

「き、みは……」

 何歳なんだ? 誰なんだ? どうして僕を連れ出してくれたんだ? どうして海を見てこんなに頭が痛いんだ? どうしてこんなに悲しいんだ? なんで君は泣いてくれているんだ? なんで、君の声はこんなにも暖かくて懐かしい?


 そもそも君は——、生きていないの?



「……」

 スファレは公園から灯台を見つけた。そこに伸びる、半透明の巨大な指も。

「⁉︎ 神の手……⁉︎」

 彼はおかを全速力で駆け降りた。

「サー! あの幽霊を突き落とせ!」



 少女は、泣き崩れた。

「——くん!」

 しきりに誰かの名前を。

 あれ、僕、その名前、


 僕の手は灯台の真っ白の柵を通り抜ける。少女が必死に伸ばしてくれた手も。


 僕、君のこと、ずっと前から知っていた、ような、


 ああ、時間切れだ。


 神様、僕を殺すの? 彼女の目の前で。

 酷いなぁ。

 この海の見える場所で、僕を殺すの?


 誰か、このままじゃあの子が穢れちゃう。お願い、誰でもいいから、誰か、誰か、どうか、


 ——僕の大切な婚約者を、




「くそ、間に合わなかった……」

「スファレ……」

 スファレの熱いぐらいに血の気に溢れた腕が、サーを引き寄せる。

「君は見ないほうがいい」

「すまん、あたし……」

 情けないぐらい声が揺れる。

 一瞬で脳裏に焼きついた血糊と、弾け飛んだ脳。折れ曲がった四肢、何かを訴えるような顔。

 スファレは警察に電話をかけた。




「自殺じゃない」

 スファレはスマホをいじりながら嘯くうそぶく

「あの幽霊による他殺でも、ない」

 幽霊が現世に干渉できるエネルギー量には限りがある。多分、運命が捻じ曲がらないようにするために神様か誰かが設けたルール。

 悪霊ほど念が強ければ、その敷居をぶち壊してこちらに侵入しくることだって可能だ。だけど、あの霊は、少なくとも悪ではない。

「この世のことわりは、理不尽の一言に尽きるな」

 悄気しょげているサーの背を撫でる。

「神様は酷いね。君は悪くないよ」

「……珍しく優しいじゃん」

 スファレは溜め息を吐き、気障きざっぽくウインクしてみせた。

「綺麗な声で歌う彼の新曲に免じて、ね」




 また死んでしまった。また殺してしまった。

 彼が自発的に思い出すのでも駄目なの?

 私は、ただもう一度……。


 笑ってくれた顔。木から滑り落ちて、その痛みを隠すように半泣きになった顔を拭う姿。名前を呼んでくれた声。差し出された照れがちな手のひら。


 ありきたりな幼い恋人たち。


 でも、私も彼も本気だった。


『来世でも、互いのことを覚えていようね』


 そう言ってくれたのに。


 彼は生まれ変わった。

 本当に覚えていたかったなら、幽霊になるしかなかったのに。


 生まれ変わった彼に私は話しかけた。

 他のどんな幽霊も見えなかったのに、彼は私だけははっきり捉えてくれた。

 舞い上がるような思いだった。

 なのに、前世の話をした途端、彼は錯乱状態になった馬車に轢き殺された。


 次は、誰もいない場所で前世の約束を打ち明けた。

 彼は、大規模な土砂崩れに巻き込まれた。


 ここまでで、三百年を超えている。


 近代化に呑まれ、町の様子がすっかり変わった。

 それでもこの地に彼は現れた。

 私は、ただ隣にいようとした。

 もう死んで欲しくなかった。

 でも、彼は、私を見て、私について色々訊いてきた。

 思わず私は言ってしまった。

 その瞬間、彼は強盗に襲われて死んだ。


 私は幾度も消滅を試みた。

 彼を殺したであろう神にも祈った。

 だが、私が取り戻したのは、自分が死ぬ間際の記憶だけだった。


 海の大荒れが、三ヶ月も続いた。その解決策として、人柱を海に沈めることが決まった。

 それが、私だった。

 身寄りを失い、幼いだけの少女は、完全に穀潰しだった。

 私が死ぬのを死ぬ気で止めてくれたのは、彼だけだった。


 でも、私たちは十六歳だった。


 海に沈められた私に、海の神は一言、言い放った。

「生きたいと願う少女を殺して我が海に捨てるか」

 神様は村に復讐しに出向いた。

 やめてくれと泣き叫んで懇願する私を、神は陸に捨てた。

「人柱失格の小娘め」


 そこから、大体百年の記憶がない。


 気づいたら、生まれ変わった彼が私の目の前に立っていた。




「やぁ、幽霊さん」

 柔らかい声だった。

「全く、依頼を片付けてから、二日も探し回ったんだよ?」

 雨が降っていた。

 彼が歩み寄って来る。

「危ないな。抜き身の魂が、こんな寂しいところにいるなんて」

 彼は辺りを見回す。……その魂は、私の大切な人ではなかった。

「……」

「泣いてるの? 美人なのに勿体無いな」

 彼の後ろにいた幽霊が顔をしかめた。

「ナンパするなよ」

「僕には君がいるもんね」

 微笑みかけた彼に、女の人が吠える。

「そういう問題じゃねぇよ‼︎ きしょいな! セクハラか⁉︎」

「しないよ。恋愛対象ですらないよ、こんなじゃじゃ馬」

「今なんて言った⁉︎ 」

 彼の手が私の頭に触れる。

「この五月蝿いうるさいのは放っておいて。……おいでよ、君の面倒はこの幽霊が見てくれるから」

 彼は安っぽい透明な傘を差してしゃがみこんだ。

「……人を、探してるの」

「うん、知ってる。——青美結兎あおみゆいとくん、家出少年が死んでしまった事について、君は知ってるね?」

 少し頼りない顔をしていた、愛おしい彼を思い出す。胸の痛さに、目を閉じた。

「……はい」

「観念しなくていいよ。僕は警察じゃない。そもそも、この国の司法は幽霊を裁けない。……僕は、君がどんな罪を犯していようが、どんな過去を持っていようが、興味はない。そもそも、君は殺していないでしょ?」

 少年の膝が地面に付く。

「それに、君は悪霊じゃないみたいだ。なら、うちにおいで」

 私はゆっくり口を開いた。

「婚約者を探しているの。……私は殺された。でも、彼は来世でも私を見つけると約束してくれた。勿論、私も」

 彼の瞳は私を見ていない。海を、見ている。

「私には、彼が分かった。思い出して貰おうとした。でも、何度やっても彼は途中で死んでしまう。……神様が、邪魔してる」

 彼が私を見た。真っ黒な瞳だった。

「……君は、狂ってるね」

「そうかもしれない。もう人間に愛を求めるなんて不毛なのかもしれない。忘れた方が、良いのかもしれない」

 彼は悪魔のような優しくて恐ろしい表情で問いかけてきた。

「忘れさせてあげようか?」

「……。衝動だけ、忘れたい」

 青年は軽く目を見開いた。

「この記憶は、私の人生の意味そのものなの。でも、このままじゃ私は何度も彼を殺してしまう……」

「衝動だけ、かぁ……」

 うーん、と顔を傾げて少し考え込む。

 私は、紺碧の海を見た。曇天の海は、私が死んだ時のようだった。——私が死んだ後、彼は私を忘れないでいてくれただろうか?

「君はすごいね。そんなに長い間一人の人間を思い遣れるなんて。……僕には、人間なんて愛す価値もなく映る」

 そう呟いた彼は、少し詫びしげに傘の柄を抱いて微笑んだ。

 彼の後ろの海に、光が差していた。



「いい加減依頼達成に動けぇっっ‼︎ 」

 サーの一喝と同時に、ソファが蹴っ飛ばされた。

「痛ったぁ‼︎ 今のはちょっと酷くない?」

「貴様……! その腐った口を次開くときは『依頼達成します』にしろよ……⁉︎」

「はぁ……」

「今口開いたよなぁ⁉︎ 」

 ろくでもない雇い主は、その熱い手を差し出してきた。

「仕方ないなぁ。じゃ、金稼ぎに行こうか」

「酷い言い方」

 そう言うと、わざとらしく、心外そうに彼は首を傾げた。

「事実じゃないか」


 雨に打たれる私に、彼はある提案をした。

 彼は、私を雇い、私とあの人が近づき過ぎないように監督することを約束してくれた。彼が死んだ後は、女幽霊さんが監督してくれる、と。

 そうスファレが提案してくれた時、サーは渋い顔をしていて言っていた。

「あのさぁ、監督って言ったって、お前だってどのぐらい近寄ったら駄目か分からないんだろ?」

「うん。まあ、妹みたいなもんだと思って大切にしてあげてよー」

「年としてはお前の妹だろうが」

「えー、僕は未っ子でしょ。君ら何年生まれだよ。江戸?」

「幽霊に関しては精神年齢だろ! 兎に角、お前、死んだら幽霊になって一緒に居てやれよ! 兄として!」

「えー、どうしよっかなー」

 けらけらとスファレは笑っていた。

「ま、それも悪くないかもね。退屈しなさそうだし。……ね、Sis?」

 整った顔に浮かんだ倦んだ笑みは、何故だか綺麗だった。



「海」

 スファレは階段を下りながら振り返った。

 おっかなびっくり古びた階段を降りてくる着物姿の少女が、顔を上げる。

「……緊張する事はないよ」

 優しく笑って見せる。

 サーは生前の記憶がないからか、幽霊らしく宙に浮いている。しかし、人間に焦がれる彼女は、両足で歩いている。

 スファレは、彼女に海という名前を与えた。

「だいじょぶ、だいじょぶ! 初仕事とは言え、君がする事はほぼないから!」

 ピースしてみると、海は却って不安げな顔をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幽霊の懊悩事件簿 深水彗蓮 @fukaminoneco

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ