幸運銀行
@baketsumogura
幸運銀行
# 幸運銀行
野崎は電話を握りしめたまま、窓の外を見つめていた。十階建てのマンションの最上階から見下ろす街の景色は、彼の人生と同じくらい遠く感じられた。
腕時計が午前3時を指している。夜通し眠れなかった。父の葬儀から一週間が経っていた。
「本当に電話すべきなのか...」
彼は手元の小さな電話機を見つめた。父の遺品の中から見つかったものだった。それと一緒に封筒があり、中には一枚のカードと電話番号が書かれていた。
『幸運銀行 - あなたの未来に投資します』
野崎は父のことを思い出した。常に不運に見舞われた男だった。会社の倒産、詐欺被害、病気...そして最後は自ら命を絶った。父は生前、よく言っていた。「俺には運がないんだ」と。
深呼吸をして、野崎は番号を押した。
「こちら幸運銀行でございます。お電話お待ちしておりました、野崎様」
女性の声は穏やかで、まるで彼の電話を予期していたかのようだった。
「どうして私の名前を...」
「お父様から聞いております。野崎誠司様のご子息、野崎貴幸様ですね」
「あなたたちは何者だ?父とどんな関係だった?」野崎は声を荒げた。
「我々は幸運を管理する機関です。人には生まれながらに持つ運の総量があります。それを預かり、必要な時に引き出せるようにするのが私どもの役割です」
「冗談じゃない」
「疑われるのは当然です。しかし、お父様は生前、ご自身の幸運のほとんどを口座に預け、あなたに残されました。今、その口座はあなたの名義になっています」
野崎は電話を切ろうとした。しかし、女性の次の言葉で手が止まった。
「試しに、少量の幸運を解放しましょうか?何か望みはありますか?」
野崎は一瞬考えた。馬鹿げた話だが、今の彼には失うものなど何もなかった。
「明日の朝...晴れてほしい」
「かしこまりました。それでは」
電話が切れた。野崎はベッドに倒れ込み、疲れ果てた体を横たえた。
***
目が覚めると、まぶしい光が部屋に差し込んでいた。野崎は窓辺に立った。曇りと予報されていた空は、驚くほど青く澄み渡っていた。
「偶然だ」彼は自分に言い聞かせた。
出勤途中、いつも渋滞する交差点がスムーズに通れた。いつもコンビニに売り切れのサンドイッチがあった。エレベーターが到着するとすぐにドアが開いた。
些細なことばかりだったが、すべてが不思議なほどスムーズだった。
昼休み、野崎は再び電話をかけた。
「幸運銀行です」
「これは...本当なのか?」
「ご実感いただけましたか?あなたの口座には、お父様から譲られた相当量の幸運が残されています。必要な時にいつでもご利用いただけます」
「どうやって使うんだ?」
「お電話いただき、必要な量をお伝えください。小さな願いには少量を、大きな願いにはより多くの幸運を使います」
野崎は口座残高を尋ねた。
「数値では表せません。しかし、大きな願いをいくつか叶えられるほどはございます」
帰り道、野崎は考えた。この力が本物なら、彼の人生は一変する。しかし、父の不運な人生が頭から離れなかった。
***
三ヶ月後、野崎の生活は一変していた。
幸運銀行の力を使い、彼は会社で重要なプロジェクトを成功させ、昇進した。長年片思いだった同僚の香織と付き合い始めた。偶然見つけた投資で小さな利益も得た。
しかし野崎は幸運の使い方に慎重だった。小さな願いにのみ使い、大きなものには手を出さなかった。銀行に問い合わせるたび、彼は口座の残高が減っていくのを感じた。
ある日、香織から妊娠の報告を受けた。二人は結婚を決め、新しい家を探し始めた。
「素敵な物件が見つかったの」香織は興奮気味に言った。「でも競争率が高くて...」
その夜、野崎は悩んだ末に幸運銀行に電話した。
「家を手に入れるために、運を引き出したい」
「かしこまりました。ただし、これで口座の半分以上を使うことになります」
野崎は同意した。翌日、不思議なことに売主が彼らの申し出を受け入れた。より高額な申し出があったにもかかわらず。
***
新居での生活が始まり、野崎は父の遺品を整理していた。古いアルバムの中から、父が若い頃の写真が出てきた。笑顔で、希望に満ちた表情だった。彼が知っている不運な父の姿とはかけ離れていた。
アルバムの奥から一枚の紙が落ちた。それは父の筆跡で書かれたメモだった。
『幸運銀行 残高照会 - 19XX年』
そこには数値が記されていた。そして年々減少していく様子が記録されていた。野崎は衝撃を受けた。父も幸運銀行の顧客だったのだ。そして、彼は自分の運をすべて使い果たしたのではないか?
野崎は銀行に電話をかけた。
「父は...彼の運をすべて使い果たしたのですか?」
「いいえ。野崎誠司様は、残りの運をすべてあなたの口座に移されました」
「なぜ彼はそんなに不運だったのですか?」
「...彼は運を借りていたのです」
「借りる?」
「はい。我々は運の貸付も行っています。幸運を前借りすると、後で不運として返済する必要があります。あなたのお父様は、若い頃に大量の運を借り、その後の人生で返済されていました」
野崎は震える手で電話を握りしめた。「なぜそんなことを?」
「彼はあなたのお母様と結婚するために、大量の運を借りたのです」
野崎は黙り込んだ。父は母との幸せな時間のために、残りの人生で苦しむことを選んだのだ。それは愛だったのか、それとも愚かな選択だったのか。
***
赤ん坊が生まれた日、病院の廊下で野崎は再び幸運銀行に電話していた。
「残りの運をすべて、この子の無事な出産のために使ってください」
「そうすると、口座は空になります。新たに運を借りることもできますが...」
「いいえ、借りません」野崎は断固として言った。「父の二の舞いにはなりたくない」
分娩室から看護師が出てきた。「野崎さん、おめでとうございます。とても健康な男の子ですよ」
野崎は安堵のため息をついた。しかし、その瞬間、彼の携帯に着信があった。会社からだった。大きなプロジェクトが失敗し、彼が責任者として処分されるという知らせだった。
これが運のない生活の始まりなのか、と野崎は思った。
***
数年が経過した。野崎の人生は決して容易ではなかった。降格され、給料は減り、真実との関係も時々険悪になった。しかし彼らは何とかやり繋いでいた。
そして息子の佑樹は、不思議なほど運に恵まれた子供に育った。試験の日に限って体調を崩さない。サッカーの試合では常に活躍する。友達にも恵まれ、いつも笑顔があった。
佑樹が十歳の誕生日を迎えた日、玄関に小包が届いた。差出人の名前はなかった。
中を開けると、見覚えのある小さな電話と一枚のカードが入っていた。
『幸運銀行 - あなたの未来に投資します』
野崎は驚愕した。これは終わらないのか?息子も同じ選択を迫られるのか?
彼は電話を手に取り、番号を押した。
「こちら幸運銀行です」
「なぜ息子に...」
「お子様には独自の口座があります。生まれながらに持つ運です」
「彼から運を奪わないでくれ」野崎は懇願した。
「それはお子様が決めることです。私どもは強制しません」
「父も、私も、そして息子も...このループは終わらないのか?」
「ループではありません、野崎様。選択なのです」
電話が切れた。野崎は小さな電話機を見つめた。
ある夜、佑樹が寝た後、香織が野崎に言った。
「あなた、最近どうしたの?いつも不安そうで...」
野崎は決意した。すべてを話そう。幸運銀行のこと、父のこと、香織と付き合えたこと、そして彼が息子のために運を使い果たしたことを。
話し終えると、香織は黙って野崎を見つめていた。
「信じられない?」野崎は弱々しく笑った。
香織は野崎の手を取り、
「それが真実でも嘘でも、私はあなたと結婚してよかったって思ってるよ。」
野崎は涙を堪えきれなかった。
「それに」香織は続けた。「運がなくても、私たちには選択がある。毎日どう生きるかを選べる」
その夜、野崎は久しぶりに安らかに眠った。
***
その夜、野崎は決断した。彼は電話機を持って、川へ向かった。
月明かりに照らされた水面を見つめ、手を伸ばそうとしたそのとき――
「お父さん、何してるの?」
振り返ると、佑樹が立っていた。懐中電灯を手に、不思議そうな顔をしている。
「なんでもないよ」野崎は電話を握りしめたまま言った。
「それ、変な電話だね」
野崎はしばらく黙った。そして、電話を投げようと手を上げたそのとき――
「それ、投げても無駄だよ」
その声のトーンが、いつもの息子とは少し違った。
「……え?」
「前にも捨てたけど、また届いてた。捨てても明日また届くよ」
野崎の背筋に冷たいものが走る。
「お前……なんでそんなことを知ってる?」
佑樹は小さく笑った。
「だって、僕……もう使ってるから」
次の瞬間、野崎の手の中にあった電話が、音もなく消えていた。
川の水面は静かだった。
何も、投げ込まれていないかのように。
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