第2話 最初の嘘

 「……では……あの夜のことから話しましょうか。事故だったんです。ええ、事故だったんですよ。本当に」


 僕は一度まばたきをした。

 その間に、稲垣が表情を変えたような気がした。

 ……いや、変えていない。

 最初から、何も変わっていない。

 机の上のボールペンの回転が、止まっただけだった。


 「雨が降っていましてね」


 自分の言葉に、わずかに納得するふうの相づちを添えながら、僕は語り始めた。

 思い出すふりをしていた。

 思い出しているふりをして、僕は口を動かしていた。


 「ええ、あれは……午後七時半ごろだったと思います。

 夕飯を食べて、少しだけテレビをつけたんです。バラエティ番組。僕は、ああいうのをほとんど観ないんですが、そのときは、なんとなく」


 稲垣はうなずかない。

 ただ、ペン先を紙の上に軽く押しつけた。

 書いていない。

 “何も書かずに押しつけている”ということだけが、やけに気になった。


 「それから、妻が階段のところで……ああ、うち、少し急なんですよ、あの階段。

 彼女は、濡れたスリッパを履いていて……たぶん、滑ったんだと思います。

 僕は、ソファに座っていたので……その、あのときは背中を向けていたんです。

 “あっ”という声だけ、聞こえて……ええ、それで、倒れて」


 言いながら、自分の語りの拙さに、全身がかゆくなっていくような感覚があった。

 目を閉じると、あの夜の風景が明確に浮かぶ。

 雨は確かに降っていた。

 スリッパは確かに濡れていた。

 けれど――僕は、その「声」を聞いていない。

 「声が聞こえた」と語ったのは、あまりにも便利だったからだ。


 「……そのときは、すぐに救急車を呼んだんです。ですが……もう、彼女は……」


 稲垣の視線が動いた。

 ほんのわずか。

 だが、その目は「僕が何を言い終わっていないか」をすでに知っているようだった。


 僕はその視線に怯えたのか、それとも甘えたのか、口を閉じてしまった。


 沈黙が再び訪れた。

 時計の針がまた「カチ」「カチ」と戻ってきた。


 僕の言葉は、あきらかに不完全だった。

 自分でもわかっていた。

 なにより、稲垣が追及してこないのが、不気味だった。


 「……奥さんとは、よく喧嘩されてましたか?」


 不意に、低い声が割り込んだ。

 稲垣の声だった。


 「……え?」


 「喧嘩。日常的に、ね。君の口調、妙に他人行儀だったからさ。彼女のこと、“妻”って呼ぶのも。あまり愛してるふうには、聞こえなかった」


 僕は何も返せなかった。

 喧嘩、という言葉に、無数の記憶がつながっていた。

 ただ、それは“物語”として語れるものではなかった。

 どうにか絞り出すようにして言った。


 「喧嘩は……してました。でも、よくあることですよ。夫婦なんて、そんなもんじゃないですか?」


 稲垣は小さく息を吐いて、視線を落とした。


 それが、「はい、話を続けて」とでも言うような沈黙だった。

 その沈黙が、僕に続きを強いた。

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