火曜日の遺伝子

黄虎

第1部 沈むものたち

第1章 取調室、午前十時。

第1話 無音の部屋

 窓のない部屋だった。

 蛍光灯がひとつ、天井にうすく点いていた。まるで生きていることを渋っているような光で、陰影のはっきりしない、妙にぼやけた空気だけがこの部屋のすべてだった。


 机は重く、灰色。

 その向こうに稲垣がいる。

 刑事である。五十代前後、黒い上着に白いシャツ。目の下にうっすら青髭が浮いていた。眠っていないのかもしれない。あるいは、眠る必要のない人種なのかもしれない。


 彼は何も言わなかった。

 僕も、何も言わなかった。


 ただ、壁の上の時計の針が、「カチ」「カチ」と時間を刻む音だけが、二人の沈黙の間を歩き回っていた。小さな靴音のように、不安に駆られたネズミのように。


 この部屋に入れられてから、十五分が経ったらしい。

 いや、あるいは一時間かもしれない。

 いや、もしかしたら三年ほどここにいるのかもしれないという錯覚さえ、あった。


 稲垣は、ひとつだけ言葉を発した。


 「話すことがあれば、聞くよ」


 その声は、思っていたよりも若かった。

 男の年齢というものは、声に最も嘘が出る。若作りの髪でも、染めた眉でもなく、声こそが真実なのだ。稲垣は多分、声だけが若く残ってしまったのだと思う。置いて行かれたような声だった。


 「僕は、話すべきなんでしょうか」


 自分でも気づかぬうちに、口が動いていた。声を出してしまった。


 稲垣はうなずいた。目線は机の上。

 指先でボールペンを回していた。それを止めて、こちらを見た。

 表情はない。

 善人のふりも、悪人のふりも、どちらもしていない顔だった。

 警察官にしては、驚くほど無害な雰囲気だった。

 むしろ、そういう人間のほうが、よほど危険なのかもしれなかった。


 僕は喉を鳴らし、わざとらしく咳払いをひとつした。

 その音がやけに大きく響いた。

 自分の声がここまで孤独に聞こえるというのは、不快というよりも、むしろ可笑しかった。少しだけ、笑いそうになった。


 「では……あの夜のことから話しましょうか。事故だったんです。ええ、事故だったんですよ。本当に」


 そのときの自分の声を、僕は一生忘れられないと思う。

 妙に芝居がかっていた。

 自分でも分かるくらい、ひどく下手な芝居だった。

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