薄墨の花

@himagari

第1話

 水墨の、特に墨絵の楽しさは表現の多彩さにあると思う。

 

 瞼を開けば目に映る、こんなにも色にあふれた世界を白と黒で色付ける。


 あらゆる景色を、白と黒の濃淡やぼかしなどで描き分け、思うままを表現できた時の感動は筆舌に尽くし難い。


 人、景色、花に食べ物、あるいは創作の物まで描き出すことに僕はすっかり魅了された。


 これはそんな僕が高校生になって出会った、一人の少女のほんの少しの物語。


 僕の紹介は適当に済ませるとしよう。


 彼女を語る上で、語り手である僕の紹介は不必要とも思える。

 

 しかし語り手としてでも物語に上がるのならばご挨拶程度を申し上げないのは失礼かとも思うのだ。


 五文ほどで終わる程度の物であるため読み飛ばしていただいても構わない。


 僕の名前は明野 北才。


 二十一歳。


 北斎の名に惹かれて知った水墨画の魅力に取り憑かれ、ひたすらに絵を描く青春時代を送った人間だ。


 そんな僕は青春時代に入部した美術部にて、とある少女と出会う。


 僕がこれから語るのはその少女との、ほんの少しの物語。


 少子高齢化の世にあって、全校生徒九十七人の高校に入学した僕は体験入部の為に美術室に訪れる。


「ねぇ、そこ邪魔なんだけど」


 そして、僕より後から歩いてきた少女は開口一番にそう言った。


 後に知る事になる少女の名は美濃 蓮香。


 僕と同じく新入生の一人であり、この年に最初に美術部に入部した新入部員でもある。


 この時の僕は蓮香のあまりの横柄さに上級生の一人だと思っていた。


「すみません」


 そういって道を譲った僕に一瞥する事もなく部室に入ると手際よく画材を揃え始めた。


 完全に萎縮していた僕にとってその堂々とした佇まいは、その道の巨匠のようにも感じられるほどだ。


 あまりじろじろと見ているのは申し訳ないと思い、僕も美術室の中に入る。


 見渡した教室の中は鏡像や画架、キャンバスなどが置いてあったり壁に作品が飾られていたりと言ってしまえばよくある美術室だった。


 それは一つ一つが目を引くものだが、淡々と絵を描く準備を整える少女はそれらに見向きもしなかった。


 そしてほとんどの道具を揃え終わった蓮香は絵を描き始めるのかと思ったが、彼女はまだ絵の具も鉛筆も持っていない。


 よく見ると机の上には筆、水入りのバケツ、雑巾、そして硯と墨が置いてあった。


 徐に墨を手に取った蓮香はそれを当然に硯で磨り始める。


 それはそういう道具なのだがら当然の事であり、そう使われる事自体に違和感などは全く無かった。


 しかしここは書道部ではなく美術部であるため多少の違和感が目を引いた。


 そんな僕の視線など気にする事もなく手慣れた様子で墨を磨り終えた少女は淡々と絵を描き始めた。


 時折スマホを開いて何かを確認しつつ黙々と、淡々と絵を描く。


 そうして描かれ始めたのは美しい薔薇の絵だった。


 一輪や二輪ではなく、キャンバスを埋め尽くす白黒のつるバラの絵。


 花弁や蔦、葉は黒く描かれ、白で輪郭や葉脈を描き分けている。


 墨はベタ塗りのように黒く、濃淡によるグラデーションや描き分けはない。


 まさに習字のような描き方だった。


 その様子に見入っていた僕だったが、流石にじっと見続けるのは迷惑だと思い、描きかけの絵から目を離して美術室の外に出た。

 

 僕が外に出る時も蓮香は一度も視線を向ける事はなく、本当に淡々と絵を描き続けていた。




 


 

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