夢のひかり速度旅行舎

メンボウ

夢のひかり速度旅行舎


『人類は光の速度で旅行できるようになりました。まばたきする間に目的地。夢のひかり速度旅行舎』

 大きなキンピカの文字で入り口の看板にそう書いてあります。

 文字の横では青いたぬきのキャラが赤い窓を開けてこっちを覗いています。

 ピニョンさんは朝から何度も看板の前をいったりきたり。

 ひかり速度旅行舎には、ひっきりなしに男の人やら、ご夫人やら、仲の良さそうな老夫婦やら、子供連れの幸せそうな家族やらがおとずれます。

 ピニョンさんは意を決してドアに手をかけます。ずいぶんな年代物で本物の木で出来ています。

 カランカラァン。ドアを開けると澄んだ音色が響きます。


「ようこそいらっしゃいました。さ、さ、奥へ」

 学校の教科書にでてくる紳士のような店員さんがピニョンさんを案内してくれます。

 ピニョンさんは、本物の人間が案内してくれるような高級なお店ははじめてです。

 恥ずかしいやら照れくさいやらで、まごまごするピニョンさんを、店員さんは優しくうながします。

「本日はどういったご用件で?」

 店員さんの上品な笑みに、ピニョンさんもなんだか親しい友人の家にお邪魔したときのように、落ち着いてゆったりとした気分になるのでした。


 ピニョンさんにはヴィルレという弟がいます。たいそう兄思いで賢く、大きな会社に勤めて忙しくあちこち飛び回っていますが、ピニョンさんのことをいつも気にかけてくれます。

 ある日、兄思いのヴィルレから手紙が届きました。手紙です。本物の紙で出来た手紙です。

 いつものように、ピニョンさんの体のことや仕事のことを心配した手紙の最後にこうありました。

『――。P.S.この星は素晴らしい星です。ぜひ、いつか兄さんと ヴィルレ』

 手紙には写真が一枚いっしょに入っていました。これも紙で出来た、きっとびっくりするくらいの高価なものです。

 青い空、赤い大地、とおくに緑の森、ため息が出るほど美しい風景に、はにかみ顔のヴィルレ。

 兄思いのヴィルレ。ピニョンさんも弟思いですが、どうしても、くやしい気持ちになるのでした。

 それというのも、もう、ここには空がないのです。ピニョンさんは写真の青い空がうらやましくて仕方ありません。

 いつも、ぼんやりと昼も夜もわからないあれのことを、ピニョンさんはどうしても空と思えないのです。

『あぁ、あの青い空を眺めて胸一杯に深呼吸したらどんなに幸せだろう』

 そう思うと、いてもたってもいられなくなってピニョンさんはひかり速度旅行舎へ向かったのでした。


「そうですか、弟さんが。はい。あれほど素晴らしい星は私も知りません。弟さんはよくご存知だ」

 ピニョンさんは自分のことを誉められたように、誇らしい気持ちでいっぱいです。

「わかりました。それでは、こちらの書類にご記入を、それから体重を量って頂いて……」

 こまごまとした手続きが終わって、さあ、いよいよ光速度旅行の始まりです。

――

 ピニョンさんは目がさめました。ぐわんぐわんと頭の中で重いかたまりが何個も何個も暴れているようでした。

 ガリギャリ、ガリギャリ、きっとこの音が原因です。それにひどいにおい。まるで半年も放っておいたザクロのようなにおいです。

「すいません。出発前にお水を一杯頂けないでしょうか」

 ピニョンさんは忙しく立ち回る白い服の人たちにいいました。

「いいえ、もう出発いたしました。お気の毒です」

「なんてこった、ひかり速度旅行がどういったものかご存知ないので?」

「担当呼んで来い。はやく! また目さめちまった旦那がいるんだ。きょうはどうなってんだ」


 もう何度目でしょう。あの、学校の教科書にでてくる紳士のような店員さんがピニョンさんに懸命に説明しています。

「――。つまり、ひかり速度旅行とは、人間を原子の単位まで完全にデジタル情報化して電波で送信し、受信したデジタル情報で人間を再構築する技術なのです」

 むずかしいお話はピニョンさんにはさっぱりです。――ガリギャリ。この音がピニョンさんをいらだたせます。

「結果として、そのままでは同一人物が二人という――」

 店員さんはしんぼう強く何度も、汗びっしょりになりながらピニョンさんに説明します。――ガリギャリ。

 きっと、このガリギャリという音のせいです。

「はやく! 本物の空を見たい。出発はまだか!」

 いらいらとしてしまったピニョンさんは、つい叫んでしまいました。

「全然わかっていらっしゃらない」とうとう店員さんは怒りだしました。

「なぜいまだ天気予報は外れるとおもいますか?」

 きっと、いらいらが伝染してしまったんだ。店員さんには悪いことをしてしまった。ピニョンさんは申し訳ない気持ちになります。

 ここはエスプリたっぷりのジョークで返してやろうとピニョンさんは頭をひねりますが、なんにも出てきません。――ガリギャリ。

「完全に地球をシミュレートするには、最低でも地球を構成する原子と同数の原子が必要です。元素ではなく原子です。もちろんそんなことは不可能です。同じように人間を一人作り出すためには、人間一人分の原子が必要なんです」

 そろそろピニョンさんにも、これ以上聞いてはいけないような気がしてきました。

「こちらは、良質の材料さえあれば可能です。その夢の技術がひかり速度旅行なのです」

 店員さんはちらりと腕時計に目を走らせます。――ガリギャリ。

「急がないとミキサーが止まってしまう時間です。あなたはもう人間じゃありません。材料です。本物のピニョンさんは今、電波です。法律にもそう書いてあります」

 やっとピニョンさんにもわかりました。きっと電波のピニョンさんは青い空で胸一杯に深呼吸することでしょう。

 やったね! ピニョンさん♪

――

 こちらのピニョンさんの顔からみるみる血の気が引いていきます。

「そうそう、お客様の場合ダイエットオプションを選ばれましたから、貴方様お一人で一人と半分でございました」

 ピニョンさんは恐くて恐くて、店員さんを突き飛ばして逃げ出しました。あちこちに体をぶつけ白い服の人たちに蹴られたり殴られたりしながらピニョンさんは走りつづけます。

 すぐ後ろに足音が迫ります。「捕まえろ!」「天使を呼びだせ!」「放り込め!」「回りこめ!」「外の扉を閉めるんだ!」怒号が飛び交います。

 ――ガリギャリ、ガリギャリ、ガリギャリ。音が近づいてきます。ピニョンさんは見たくありませんでした。でも、目をしっかりあけてないと、つかまってしまいます。

 つかまってしまうと、きっと恐ろしいことになってしまいます。


 赤黒いスープをたたえたおわんのように見えます。下あごだけがひっくり返ったの船のように泳いでいます。爪や髪がさざなみのようにただよっています。

 ガリギャリ、ガガ、ジィ、ズゥゥ、ズゥゥゥ――

 ちょうどミキサーが止まりました。みるみるスープは吸い上げられ赤と白いまだらの海岸線が姿をあらわします。絡み合った髪の毛が島を作ります。

 やはり見てはいけませんでした。

 たとえつかまろうと、足を踏み外そうと、見てはいけませんでした。

 たくさんの目がピニョンさんを見ています。やっと動く手をピニョンさんに伸ばす人がいました。ちぎれた手を抱いた子供が見えます。ポンプに吸い上げられまいと、まだらの海岸を爪のない手が掻いています。

 きっと目が覚めたのはピニョンさんだけではなかったのです。

 ……声がきこえます。

 ピニョンさんは狂ったように叫んで、もう前も後ろもわからず走り出します。

 ただ、ただ、青い空が見たかっただけなのに、本物の空が見たかっただけなのに。

 ピニョンさんはもう、うまく考えることができません。

 いろんなところにかすみが掛かって夢の中のようでした。

 本当に狂ってしまったのかもしれません。


 ピニョンさんは走ります。どれくらい走りつづけたかわかりません。

 明るいほうへ明るいほうへ、ピニョンさんは走ります。

 気が付くとピニョンさんは天上の世界のように光に満ち溢れた部屋にいました。

 もう、痛みもありません。

 痛みがなくなったかわりに、逃げる気力もなくなってしまいました。

 たった一つだけ足音がまだ追ってきます。

 足音はゆっくり近づいてきます。

 足音の主はもうピニョンさんの目の前です。

 それは美しい天使のように見えます。

 どこからか賛美歌の声が聞こえてくるような気がします。

 いいえ、ピニョンさんの耳には、はっきりとそれが聞こえてきます。

 だったらここは、本当に天上の世界なのかも知れません。

 ピニョンさんは、安心して、なんだか全部の力がなくなったように感じました。

 天使に似たものは、ほうけたピニョンさんの耳元でささやきます。

「この世界を作った神様が、もっと、やさしかったらよかったのにね」

 ピニョンさんはうなずきます。

「ばいばい、ピニョンさん」

 天使に似たものの声は、突き抜けるように青い空の下、ヴィルレと抱き合ったピニョンさんには届きませんでした。


 了




注釈: 本作における「ひかり速度旅行」は、この世界で実用化されている技術です。

ただし、量子ノークローン定理に代表される物理的制約が本質的に解決されたかどうかについては、技術開発企業および各種政府機関からは明確な回答が得られておりません。

しかしながら実際に使用されたお客様からの苦情や異議申し立ても一切存在せず、サービスは円滑に運用されております。

 夢の旅行をお楽しみください。



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