第5話.懺悔室に忍び寄る影

 礼拝堂の奥――石造りの扉を、私はゆっくりと押し開ける。


 そこは、小さな司祭室。

 今はほとんど使われない、静かな石の部屋だった。


 窓から差し込む陽光が、舞い上がったホコリを白く染める。

 空気は少し湿っていて、肌にひやりとした冷気がまとわりついた。


 私は椅子に腰を下ろし、対面にはカーティスが座る。

 机の上には、小さなシスター人形が一つ――綻びを何度も縫い直した形跡がある。


「……あの少女、無事に家に帰した」


 カーティスが穏やかに言った。

 別れ際、少女が大事にしていたこの人形を私に託したという。


 私は手のひらで包み込み、布の温もりを感じながら目を伏せた。


「……ありがとう、カーティス」


「俺に礼を言うのはちげぇだろ。命を救ったのはお前だ」


 彼は窓の外を眺め、白く眩しい陽を少しだけ目を細めて見つめた。


 胸の奥がじんわりと温かくなる。

 彼は立ち上がり、肩口のフードを整えた。


「さて――次の仕事を探してくる」


 歩きかけて、ふと振り返る。


「マリア院長が逝ってまだ一週間。子どもたちに寂しい思いはさせるなよ」


 私は、黙って頷いた。


 彼の背に微かな躊躇いが浮かぶ。

 そして再び口を開く。


「そうだ……例の件。少し情報が集まり始めた」


 空気が一段、冷たく沈んだ気がした。


「まだ正体は掴めねぇ。だが――」


 彼は言いづらそうに眉をひそめる。


「王都の別区画でも、“似た異変”が起きてる。失踪、不審死、夜に体調を崩す人間が増えてる。それと、異形……“黒い塊”を見たって証言もな」


 陽光が机を斜めに横切っていた。

 私は拳を握り、人形を胸に抱く。


「下層区画じゃ、夜になると空気そのものが変わる。息を吸うのも辛い。ぬるりとした瘴気が漂ってるって話もある」


 私は聖印をなぞりながら、静かに言った。


「……瘴気、ですね。気づかないうちに心を蝕まれて、やがて“何か”に魅入られてしまう……」


「お前も用心しろよ」


 カーティスは、苦い顔で告げる。


「“気づいた時には手遅れ”なんて、俺はゴメンだからな」


 私は、小さく頷いた。

 胸の奥に警戒の火が灯る。


「こんなことになってんのに騎士団はまだ動かねぇ。……おそらく、上が何かを塞いでる」


 広がる悪意。

 滲む闇。

 誰も、それに目を向けようとしない。


(だったら――)


「また来る」


 それだけ残し、彼は扉の向こうに消えていった。


 静寂が戻る。

 私はそっと人形を抱いたまま窓辺へ向かう。


 陽射しが頬を撫でるたび、胸の奥にあった決意が、ゆっくりと熱を帯びていく。


(マリアさま。……あなたの願い、必ず果たします)


 ---


 懺悔室――それは、罪を告白し、救いを願う場所。

 私はそこで静かに座り、今日も祈りの言葉を胸に刻んでいた。


 石造りの床を、コツ、コツ、と歩く音が近づいてくる。

 そして、ぎぃ、と扉が軋んだ。


「失礼する……」


 現れたのは、銀髪の老騎士。

 重厚な鎧に包まれた姿で、深々と礼をする。


「……あなたの罪を、お聞かせください」


 私は静かに促した。


「実は……最近、訓練のしすぎか腰が痛くての。今日の朝の訓練をサボってしまった。これは怠惰かと思ってな」


(……それは老化です)


 だが私は頷き、口元に微笑を浮かべる。


「その悔い改め、神は受け止めてくださるでしょう」


「うむ……しかしな、セシリア殿」


 老騎士の口元がニヤリと吊り上がる。

 嫌な予感しかしない。


「妻との“夜の訓練”では、驚くほど腰が元気でな!」


(そっちの腰!?)


「いやぁ、女神アストリア様の加護かもしれん」


 私はぎこちない笑顔のまま答える。


「神はお怒……こほん、健康は素晴らしいことです」


「うむ! ではまた来週!」


 老騎士は上機嫌に去っていった。


(この懺悔室、大丈夫なんだろうか……)


 息をつく間もなく――。


 カツ、カツ、カツ。


 また足音が近づいてくる。

 今度は、靴底を引きずるような鈍い響きだ。


 空気が、冷たく沈んだ。


 私は手を組み、胸騒ぎを押さえながら告げる。


「お入りください――」


 ぎぃ、と扉がゆっくり開く。

 覗き込む隙間から、湿った土の匂いと、暗い影が滲み込んでくる。


(……これは、ただの懺悔じゃない)


  そして、ぎぃ、と軋む音と共に、分厚い扉がわずかに開く。


「……失礼します」


 低くかすれた声。

 入ってきたのは、黒ずんだ外套を羽織った中年の男だった。

 一見、普通の市民に見える……けれど。


 (――違う)


 私はすぐに気づいた。

 身体に、僅かに纏わりつく異様な冷気。

 そして――


 右目の奥。

 金色の魔眼黃昏殻界が、じわりと熱を持って脈動する。


 (穢れ……?)


 あの夜、異形が飛び出した騎士――アーシェ・ラグナの時と、同じ反応だ。

 男が椅子に腰掛け、震える手で胸元を押さえた。


「……あなたの罪を、お聞かせください」


 私は静かに促す。

 しばらく、沈黙。

 やがて、男は震える声で言葉をこぼした。


「……助けて、ください」


 私は、微動だにしなかった。

 けれど、耳は一語一句、逃さず聞き取っていた。


「最近……夜になると……自分が、自分じゃないような気がするのです」


 男の声はか細い。


「意識が途切れ……気づくと、知らない場所に立っている。家族にも言われました。――“お前の目は、もう人の目じゃない”と」


 手の甲が、不自然に痙攣する。

 それを必死に押さえながら、男は続けた。


「昼間は……まだ、自分を保っていられる。でも夜が来ると、何かが……中から這い出してくるんです……!」


 私は、無言でスカートの裾をわずかにめくり、腿に隠した祈刀きとうへ指先を伸ばした。


 祈りと共に在る刃。

 それを、静かに、そっと握る。


 だが、すぐには抜かなかった。


 (まだだ)


 彼には――自我が、残っている。

 完全に“あちら側”へ堕ちたわけではない。


 私はそっと息を整え、問いかける。


「……あなたは、救いを求めていますか?」


 男は、顔を伏せたまま、震える声で答えた。


「はい……神の名のもとに……どうか、私を――私を、穢れから、救っていただけませんか」


 私は、ゆっくりと目を閉じた。


(浄化できるかもしれない)


 殺すのではない。

 断罪でもない。


 この手で、“はらう”。


 私はそっと立ち上がり、懺悔室の小さな格子越しに祈刀を握りしめた。


 黄金の魔眼が、静かに輝きを増していく。


「――わかりました」


 低く、静かに告げる。


「あなたの穢れ、必ず祓いましょう」


 懺悔室の空気が、音もなく張り詰める。


 私は祈りの言葉を胸に刻み、

 そして、静かに席を立った――。


――――――――――――――――――

【★あとがき★】


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。


「ちょっと気になるな」

「この先どうなるんだろう?」

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どうか、彼女たちの闘いを、見守ってやってください。

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