茶節
ある年の12月29日。5:40。
前夜に起きた事件とその後の対応を終え、拠点としている部屋に戻ってきた。流石に疲れを隠せるものではない。
「やるべきことはやった。取り合えずゆっくり休むんだ。起きる時間は気にしなくていい」
「はい……」
上司に答えるのも一苦労だ。上着をハンガーにかけ、バスルームに向かう。今日は力を使いすぎた。
シャワーを浴びながら自分自身の身体のことを考える。
吸血鬼でもなく人でもない身体。幸いにしてこれまでの人生で“渇き”に直面したことはない。だが、これからもその衝動に無縁でいられるかどうかはわからない。
私は血を飲まない。飲みたくない。
私は血を飲めない。飲むことができない。
私の魂は血では補えず、ただ人と同じように食べて、飲んで、身体の糧とし、人と同じく排泄し、弱り、そして老いていくのだろう。
黒く長い髪は、時折鬱陶しくもあるが、自分自身で綺麗だと思える大事な宝だ。お洒落といったもの全般に疎いが、髪のケアだけは疎かにしていない。
シャンプーで入念に洗い、頭皮がすっきりするまですすぐ。コンディショナーを毛先から塗っていき、毛先の絡まりを手櫛でとかす。毛束をとって揉み込み、行き渡らせるようコームを使ってむらなく馴染ませ、丁寧にすすいだ。
髪を洗い、整えていると、自分の身体の末端にじんわりと栄養が行き届いていくのが感じられる。
バスルームの鏡で雫だらけの自分の身体を眺める。鍛え続け、しなやかで張りのある筋肉。傷がなく白い肌。傷ついてもすぐ治ってしまう身体。
自分の左目を見る。紅の光が弱まっているのがわかる。しばらくは難儀するだろう。できる限り食べ、休息を取らなければならない。次の仕事の為に。次の次の仕事の為に。
髪を入念に乾かしてリビングに戻ると、あの人がキッチンから何かを持ってきた。
「疲れを取るのに良い」
目の前に置かれたお椀からは良い香りが漂ってくる。味噌、鰹節、そして緑茶だろうか。浅葱が散らしてある。
「これは」
「茶節という。麦味噌と鰹節に緑茶を注いで、よくといた。少し待つと良い。出汁がでる」
「はい」
「今日は大変だったな。私も休む」
両手でお椀を持つと、風呂上りなのに手がじんわりと温かくなった。暫し時をおく。
「いただきます」
一口飲む。喉を通り胃の中へ温もりが落ちていく。腹中の温かさ、そして口中に広がる香り。
不意にあの人との初めての食卓が思い出された。ご飯と味噌汁。焼いた塩鮭。海苔と納豆、ふりかけの小瓶もあった。温かい食卓だった。
飲んだ茶節はあの日の朝ご飯と同じ味がした。
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