榊禮子の食卓
夔之宮 師走
ボロネーゼ
徐々に寒さが強まってきた土曜日。
榊の装いはグレーのニットのワンピースにマリンブルーのフルエプロン。お腹に大きめのポケットがあり、とぼけた様子の魚が白糸で刺繍してあるお気に入りの品だ。
台所の窓からの日差しは明るい。スマートフォンを操作すると、キッチンにあるスピーカーから甘く流れ出す『Romance del diablo』の旋律。ピアソラの名曲。
長い髪をひっつめにまとめ、手を洗う。
鍋にたっぷりと水を張ってコンロに置いた。昼食はパスタと決めていたが、ソースをどうしたものか。冷蔵庫や野菜置き場を眺める。
ホールトマト缶が目に入ったのでこれを使うことにする。中途半端な野菜、冷凍のひき肉があった。お腹も空いたことだし、ボロネーゼにしよう。
ひき肉を電子レンジに入れ解凍のボタンを押し、コンロに火をつけた。
中途半端に残っていた玉葱、セロリ、人参、大蒜をみじん切りにし、ボウルに入れる。次いで、やはり少量余っていたパンチェッタを取り出し、みじん切りにした。
料理は段取り八分。そして、清潔なキッチンのほうが料理が美味しくなるという持論。まな板と包丁を洗って、台を拭き、調味料などを準備する。
片手鍋にオリーブオイルをたっぷりと入れる。近所のスーパーに行くと値上がりが甚だしく、若干の後ろめたさもあるが美味しさに勝るものはない。
強火にかけられた大蒜がふつふつとしてきたのを見計らい、いったん火を止める。大蒜が色づき始めたのを確認し、パンチェッタを加え、その後、切った野菜を入れてじっくり炒める。キッチンに玉葱の甘い香りが漂い始める。
野菜を炒めすぎないように気を付ける。香ばしいのは良いが、焦げてしまっては台無しだ。かといってかき混ぜすぎるのも良くない。香りと音。鼻と耳で食材の様子を感じ取る。頃合いを見て火を止める。
電子レンジからひき肉を取り出し、ボウルに移す。塩、胡椒、そしてナツメグを振り、手で捏ねる。粘り気が出てきたところで小さな団子状にまとめた。
フライパンを強火にかけ、オリーブオイルを引く。ひき肉を入れ、しっかり焦げ目をつける。じゅうじゅうと音を立てていたフライパンは、徐々にぱちぱちという音に変わってきた。火を弱め、木べらで肉を崩す。ひき肉をそのまま炒めても良いのだが、このひと手間で風味が大きく変わる。
肉から出た水分を飛ばした後、赤ワインを流し込む。立ち上る芳香。フライパンについた焦げを落としながら混ぜていく。
アルコールが飛び、肉に馴染んできた様子に満足すると、野菜を炒めていた鍋に肉を移し、ホールトマトを入れた。トマトを木べらで潰していると湯が沸いた。
沸騰した鍋にざらざらと塩を入れ、スパゲッティを鍋の中に広げる。パッケージの表示からきっかり1分短くタイマーをセットする。
ボロネーゼを煮込むか否かは人による。煮込むことにより引き出される滋味も良いが、肉がぱさつくのは苦手だ。水分が落ち着いたので火を止めて少し休ませる。
ふと窓の外を見ると、小さな子供の手を引いて歩く父親の姿が見えた。子供は時折ぴょんぴょんと跳ねたり、父親を笑顔で見上げたりしている。
「家、家にあらず、継ぐを以て家とす。人、人にあらず、知るを以て人とす」と書いたのは世阿弥だったか。
仕事の上司であり、育ての父でもある男。血のつながりのない同居人。自分が生き抜く術を伝えてくれた先生。榊は歳を重ねているのに、姿の変わらない相手。
中学生まではなんとも思っていなかった関係性が徐々に複雑さを増していき、いつの間にかあの人を「お父さん」とは呼ばなくなったのは私の所為だ。あの人は昔も今も変わらない。
鍋から聞こえるぼこぼこという音がやけに大きく聞こえる。
タイマーが鳴る。鍋からスパゲッティをフライパンに移し、ソースと絡める。スパゲッティのゆで汁で水分量を調節する。
無塩バターを落とし、オリーブオイルを回しかけ、パルミジャーノレッジャーノを加えてよく合えた。この瞬間がたまらない。
器に盛りつけて卓に座る。榊は独りでも食事の前には挨拶をする。
「いただきます」
グラスに注いだ赤ワインをこくりと飲んだ。グラスの中の紅は、血にしては透き通りすぎていた。
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