清涼感の極み

 我ながら、酷い話だと思う。


 超常的な存在。

 神聖な“天使”たち。


 その彼女(?)らに──俺の、焼肉の匂いが染みついたスーツを消臭してもらおうとしている。


 ……どう考えても、バチが当たりそうだった。


 いや、まあ。

 以前領収書の整理とか、ラーメンの後片付けとかを頼んだことはあるから、今更ではあるけれども。


 それにしたって、これはさすがにちょっと、申し訳なさすぎるだろ。


「……あー、まあ……その、なんだ」


 智天使が回転する環をぴたりと止め、少しだけ気まずそうに呟く。


 その声は、威厳こそあるものの、どこか戸惑いを含んでいた。


「とりあえず……スーツ、持ってきな」


 俺は、なんとも言えない気持ちを胸に抱きながら──


「……はい」


 静かに頷いてから、自室の隅に向かう。


 スーツは例の、焼肉の香りをほんのり引きずったままの一着。

 他の服に匂いが移るのが嫌で、クローゼットには入れず、部屋の隅に吊るしていた。

 素材的に洗濯機は無理で、クリーニングにもまだ出していなかったやつだ


 ……まさか、これを“天使”に渡す日が来るとは思わなかった。


 複雑な思いを抱えつつも、スーツを丁寧にたたんで持ち、リビングに戻る。


 視界の先には、変わらず異形の天使たち──

 空中で静かに漂いながら、全員がこちらを“見て”いた。

 眼球、眼球、眼球。


 うっ、と一瞬足が止まりかける。


 ……耐えろ。

 もう何度目だこの試練。


「……持ってきました」


 なんとか平静を装いながら、俺はそっとソファの上にスーツを置いた。


「ん~、このへんに染みついてるね~っ☆」


 “いつもの天使”がくるりと一回転し、スーツの周りを浮遊しながら嗅ぐように観察する。


「匂いの粒子、けっこう深く入り込んでる~☆ 繊維の“隙間”まで入っちゃってるタイプだね~☆」


「なるほどね。……やりがいはありそうだ」


 智天使がゆっくりと降下し、環をわずかに傾ける。

 その無数の目が、スーツをじっと見据える姿は──どこかプロフェッショナルだった。


「じゃ、私からやるよ。あんたたちは補助に回って」


「了解なのですーっ!」


「はいはい、任せてちょうだい」


「うん」


「がんばりまーす!」


 それぞれの声が響いた瞬間──


 ふわり、と空間が変わった。


 淡い光がスーツの周囲に立ち上がり、目に見えない粒子が舞う。

 まるで神聖な“クリーニング儀式”でも始まったようだった。


 ──焼肉の匂いを取るための。


 ……いや、やっぱり申し訳なさすぎる。


 なのに、その手際は異様に滑らかで、無数の光や羽根が織り成す作業風景は──どこか、幻想的ですらあった。


「……」


 おい待て。

 なんか今、一瞬“魔法陣”みたいなの見えなかったか?

 え、気のせい? いやでも、床に円形の光が……いやいや、気のせいであってくれ。


 スケールが壮大すぎて、頭がついていかない。


「──よし」


 智天使がふっと浮上しながら、環を静かに回す。


「嗅いでみな」


 促されるまま、俺は恐る恐るスーツに顔を近づけ、くん、とひと嗅ぎ。


「──っはっ……!?」


 肺が爆発するかと思った。


 なんだこれ。

 高原の朝露と神殿の空気と天上の風を掛け合わせたみたいな、意味不明の清涼感。


 嗅いだ瞬間、後頭部の奥に直で光が差し込んできたような気がした。

 鼻だけじゃなく、魂が洗われる感覚。


「……ちょっと、昇天しかけたんですけど」


 震える声で呟く俺に、智天使がふっと笑った(ように感じた)。


「わぁ~っ☆ ごしゅじんさま、よかったねぇ~っ☆」


 上空から“いつもの天使”が、嬉しそうにくるくると環を回しながら降りてくる。

 全身から“褒めて褒めて”の雰囲気がダダ漏れだった。


「……まあ、そうだな」


 自然と、小さく息が漏れた。


 申し訳なさは、もちろんある。

 超常的な存在たちを巻き込んで、焼肉の匂いなんていう俗物的な問題に全力で取り組んでもらったのだ。


 けれど──それはそれとして。


 ありがたかった。

 間違いなく、助かった。


 スーツは完璧に消臭され、むしろ新品より神々しいレベルで仕上がっている。

 この清浄感、もはや“着る結界”だ。


 少なくともこれで、月曜の出社で「昨日焼肉行きました?」みたいな地味に気まずいやり取りをしなくて済む。


「……本当に、ありがとうございました」


 自然と、そう口にしていた。


 智天使は特に言葉を返さず、ただ静かに環を回しながらふわりと上昇していった。


 さて。


 ここで終わりにしてもいいのだが、さすがに“お礼なし”は気が引ける。


 超常的存在たちに、スーツの匂いを取ってもらったわけだ。

 少しでも“対価”らしきものを渡したい。


 ……そう思って、俺は台所へ向かった。


 冷蔵庫を開ける。


 ──あった。


 もしものために、と備えておいた“高級フルーツ”。

 ネットで取り寄せた、ちょっといいやつ。


 シャインマスカットに、桃に、マンゴー。

 箱に入ったまま冷やしておいたが──今が、使い時だろう。


「フルーツだーっ☆ ごしゅじんさま、用意周到〜☆」


 背後から飛びついてくるような声と共に、つもの天使”がすぐ隣に降りてくる。


「果物なら、わたしが“切る”からまかせて~っ☆」


 既に光の帯がにゅるんと伸び始めていた。


 “切る”って何を使って? いや、聞くのが怖い。


 とりあえず俺は、果物たちを皿に盛り付けて、リビングのテーブルに並べていく。


「……みんな。よかったら、これ。お礼のつもりで」


 俺の言葉に、わらわらと天使たちの視線(目)がこちらに向く。


「美味しそうだね〜☆」


 天使が嬉しそうに飛び跳ね、周囲の天使たちもぞわぞわと動き始めた。


 天使たちに果物をご馳走する朝。

 なんだこのシチュエーション。

 自分でも、よく分からなくなってきた。


「……気が利くじゃないか」


 智天使が環をゆっくりと回しながら、ふっと低く呟いた。


 褒められた──気がする。


「やったぁ~っ! 最高~っ!」


 能天使が歯車をぶんぶん回しながらくるくると回転し、隣で座天使が車輪を上下に弾ませながら跳ねる。


「わーいなのです~っ!」


「あらあら、ご丁寧に。いただくわね?」


 主天使が優しく微笑むような声を響かせ、力天使は「……うれしい」とぽそりと呟いた。


 ──そして。


「よーしっ☆ じゃあ、分けるね~っ☆」


 “いつもの天使”が、ぴょんと宙に跳ねた次の瞬間──


 光の帯がぴしゅっと伸びた。


 ぱしゅっ、ぱしゅっ、ぱしゅっ──


 果物が、正確無比な角度とリズムで、一瞬にして綺麗に裁断されていく。


 シャインマスカットは粒単位で分けられ、桃はまるで高級スイーツのようにスライスされ、マンゴーに至っては花のように開いた。


 その光景に──


 ぞわっ……!


 俺は思わず、首筋を押さえた。


 包丁やまな板すら使わずにここまでの処理をやってのけるその姿、完全に人間の技ではない。


 人外の手際。

 いや、“技術”というよりも“現象”に近い。


「……ありがとう」


 小声で呟いたそれは、果たして“感謝”だったのか、“畏怖”だったのか。

 自分でも、よく分からなかった。


 そして。


 果物の入った皿を囲むように、天使たちがゆっくりと動き出した。

 静かに、けれど確かに“それぞれの形”で。


 まず、智天使。


 ゆっくりと光の帯が伸び、その先端が環の内側をなぞるように触れる。

 次の瞬間、皿の上にあった桃のスライスが、すぅ……と音もなく溶けて消えた。


 まるで、世界から“存在そのもの”を刈り取られたかのように。


 続いて、座天使。


 車輪の中央からすっと伸びた光が、シャインマスカットの皿に触れる。

 その粒は、ぱちんという軽い音とともに車輪の内側へと吸い込まれ、何も残らなかった。


 空間ごと“回収”されたのかもしれない。


 主天使は、穏やかな気配を纏いながら、翼の目たちをゆるやかに細めた。

 そして、中央に浮かぶ巨大な目玉から、すっと光の帯が伸びる。

 果物を優しくすくい取るように運び、そのまま、そっと瞳孔に触れさせた。


 触れた瞬間、果物はとろんと柔らかく溶け、液体のように変質していく。

 まるで自然な流れに身を任せるかのように、そのまま瞳の奥へと吸い込まれていった。


 力天使は、静かに光の帯を差し伸べたと思った、その瞬間。


 カン……ッと、小さな金属音が響いた。

 直後、桃の切り身が霧のように砕けて消えた。

 圧倒的な静寂と、無駄のない駆動。


 まさに“食べた”のではなく、“消去した”とすら思えた。


 そして、能天使。


 ぴょこんと飛び跳ねるように光を伸ばすと、背後の歯車がぎゅいんっと回転した。


 その回転に合わせて空間が捻れたかと思えば、果物はそのまま幾何学的な多面体のような身体に吸い込まれ、音もなく“消滅”した。


 その仕組みはまるで理解できなかったが、明らかに完了したことだけは分かった。


「……」


 俺は、言葉を失ったまま、それを見ていた。

 咀嚼も、嚥下も、味覚も一切なかった。


 だけど、それは“食事”だった。

 神聖にして、異様で、絶対的な摂取行為。

 人間と、存在の位階が違いすぎる。


 そう、改めて思い知らされた。


 天使式食事はやっぱり、えぐい。


 あまりにも静かで、無機質で、“摂る”というよりも“削る”とか“還す”とか、そんな印象のほうが強い。


 俺の中にある「食べる」という概念が、軋んで崩れていくのを感じた。


「おいしーいっ☆」


「この果物、瑞々しくて素晴らしいねぇ」


「うん、これは確かに……良質だわ」


「美味なのですー」


「……糖度、高い」


「わーいっ、ありがとーっ!」


 ぞわっ……


 天井や壁から、無数の目と共にそんな声が降ってくる。


 嬉しそうに“声”だけは元気に跳ねているけど──それぞれがどんなふうに味わってるのか、正直まるで分からない。


 とはいえ俺の献上した果物は、どうやら気に入られたらしい。


 ……そういえば。


 俺はふと我に返る。


 さっきから当たり前のように過ごしているけど、この天使たち……一体、どれくらいの間ここにいるつもりなんだ?


 用が済んだら帰るよな……? 

 いやでも、天使は“長時間滞在できるようになった”って言ってたし。


「あの、皆さんって……今日、どれくらいいる予定なんですか?」


 恐る恐る、静かに問いかける。


 すると──


「そりゃあ一日中に決まってるだろう」


 一番最初に答えたのは、智天使だった。


 その声には威厳と理があり、そして──疑いようのない事実としての重みがあった。


「えへへ~っ☆ “テスト”も兼ねてるんだから~、長く滞在できるか、ちゃんと見ておかないとねぇ~っ☆」


 “いつもの天使”が楽しそうに宙を舞いながら、目をぱちぱちと輝かせる。


「……」


 一日中、この五体の異形たちと?


 俺は、ゆっくりと天井を見上げた。


 環。

 輪。

 眼。

 光

 歯車。


 ぞわぞわぞわぞわ……


「……マジかよ」


 頭の奥で、何かが音を立てて崩れた気がした。


 だが──


「……いや、待てよ」


 俺はそっと息を吸い、吐く。

 こんなケース……人生で何度ある?

 たぶん、ほとんど無い。


 なら、いっそ。


「……開き直るしかないか」


 超常的存在たちが、目の前で果物を“食べている”。


 ここで俺がガクガク震えてるだけじゃ、たぶん損だ。

 せっかくこんな“出会い”があったのなら、今しかできないこと、見れないもの、聞けない話──

 それを、積極的に体験した方が“お得”だろう。


 うん……うん。

 そうだよな。


 自分で自分を納得させるように頷き、俺は再び天使たちに目を向けた。


 異形の姿、常軌を逸した存在感。

 なのに、どこか憎めない“個性”。


「……よし。交流、してみるか」


 そう小さく呟いた俺の心には、不思議なほどの静けさがあった。

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