天界化

 土曜日の朝は、静かだった。


 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の白い壁をぼんやりと照らしている。

 今日は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


 休日に早起きする習慣なんてなかったはずなのに、身体の方が勝手に目を覚ましてしまった。


 枕元で喋る声は、ない。


 ふと天井を見上げると、そこには、いつもよりもずっと静かな“天使”が浮かんでいた。


 無数の目と輪が、音もなく、ゆっくりと回転している。

 光の帯は淡く、翼の動きも控えめで──ただ、そこに“在る”だけ。


 ここ最近は、外ではともかく、家に帰ると、黙ってそうしていることが多い。


 「おはよ~っ☆」と、以前のように挨拶するわけでももなく、声をかけるわけでもなく。

 ただ、静かに、見守るように、天井近くで環を回している。


 ……気を使ってくれてるのか。

 それとも、なにか考えているのか。


 相変わらず、“読めない存在”だった。


 時々、何をしてるんだ? と尋ねても──


『ひ・み・つ~っ☆』


 と、誤魔化されることがほとんどだった。

 冗談っぽく言っているくせに、その時の目は一つも瞬きしていない。

 だから余計に、本気で“何か”をしている気がしてならなかった。


 洗面台で顔を洗い、口をすすぐ。

 流れるような一連の動作は、もはや“戦闘準備”に近い。


 そして、朝食。


 キッチンの隅。

 椅子を引くのも面倒で、そのまま流し台の前に立ったままだ。

 炊きたての白米を、茶碗に一膳。

 湯気がほわほわと立ちのぼる。


 おかずは──無い。

 冷蔵庫の中には何もなかったし、正直、作る気力も起きなかった。


 だから、これだけ。


 そして、その上にあの小袋から、黒ずんだ粉末をほんのひとつまみ、ふりかける

 ベルフェゴールの“第7のあばら骨”。


 ……今日も、昨日と変わらず“ふりかけ”だった。


 さらさらと、銀の粒を含んだ黒い粉が、白米の上に落ちてゆく。


 箸を手に取り、一口。


 もぐ。


 もぐ、もぐ。


 ……うん。

 美味い。


 カルシウムもマグネシウムも鉄分も“いろいろ良くないもの”も、たっぷり入ってる気がする味だ。


 そして、来る。


「……っ」


 胃の奥がふっと浮き、意識の芯が引っ張られる。

 その感覚が、昨日と同じように、規則正しく訪れた。


 視界が金に染まり、頭の上にふわりと“それ”が現れる。


 天使の輪。


 淡く輝きながら、ぐるぐると静かに浮かび続ける光の輪。

 だが、それも数秒もせずに──


 ぱき。


 細い亀裂が走り、ひび割れ、粉々に砕け散る。


 ぱりん。


 静かな音を立てて、光の粒がふわりと空間に溶けて消えていった。

 気づけば、浮遊感も霧散している。


「……」


 俺は箸を置き、深く息をついた。


「なんか、もう……慣れてきたな」


 ふと時計を見ると、まだ朝の七時台。

 食器を片付けようかと立ち上がった、その時だった。


「できたーっ☆」


 リビングの方から、明るく響く声が届く。


 いつものテンションにも聞こえたが──

 なぜだろう、ほんの少し、いや、確かに“嬉しそう”だった。

 何か特別なことがあった時みたいな、はしゃいだ声色。


 俺はゆっくりとリビングへ向かう。


 すると──


「できたよぉ~っ☆」


 宙に浮かぶ環の中心から、天使がふわりと回転しながらこちらに向かってきた。


 ぴらぴらと六枚の翼をめいっぱいはためかせて、まるで何かの成果を“披露”するかのように、全身から嬉しさを放っている。


 ──これは、いつもとは違う“何か”が、本当にできたらしい。


「何ができたんだ?」


 リビングに足を踏み入れた俺は、思わず問いかけた。

 天使はくるりと宙で一回転しながら──


「このおうちの“天界化”だよぉ~っ☆」


 と、さらっと言ってのけた。


「……えっ、なにそれ」


 言葉にならない声が、思わず漏れた。


 “天界化”? 

 今、この天使は“天界化”って言ったか?


「ん~っ☆ 前に“聖域化”してたでしょ~? あれの、もーっとすごいバージョンっ!」


 ぱたぱたと翼をはためかせながら、天使が満面の笑顔(?)で説明してくる。


「いや~、ほんっと苦労したんだよ~? “この座標系”って歪みやすくてさ~、ちゃんと“軸”合わせるの大変だったんだよぉ~っ☆」


「……」


 知らないうちに、俺の家がとんでもないことになっているらしい。


 もう、驚く気力も湧かない。


 もはや“そういうものか”という、奇妙な納得と共に、俺は静かにカーペットに座った。


「……で、それって、具体的にはどんな効果があるんだ?」


 名前のインパクトはさておき、内容だけは地味に気になった。

 というか、気にしておかないと後々とんでもないことになりそうな予感しかしない。


「えっとね~☆ さすがに“完全”な天界とはちょっと違うけど~?」


 天使は環をぐるぐる回しながら、楽しげに言葉を続ける。


「“悪魔”はほとんど入ってこられなくなったし~、“他の天使ちゃんたち”も、けっこう長く“降臨”できるようになったんだよぉ~っ☆」


「……」


 その瞬間、脳内に警報が鳴り響いた。


 ああ、これはダメなやつだ。

 完全に“嫌な予感”がする。


「でねでねっ!」


 天使は宙でぴょん、と跳ねるようにして──更に明るい声で続けた。


「ごしゅじんさまのスーツ、地味に“焼肉の匂い”ついてたでしょ~? だから、テストも兼ねて、“他の天使ちゃん”呼んでみていい~っ☆?」


「……」


 朝から、すごい話が飛び出してきた。


 それってつまり、また“見た目がやばいやつ”が降臨してくるってことだよな。


 あの、目がいっぱいあるのが、また増えるわけで。


 ──いや、でも。


 天使の言い分的には、俺のスーツにしみついた“焼肉の匂い”を取ってくれるって話でもあるわけで。


 ……クリーニング、出すとなると意外と面倒なんだよな。

 高いってわけじゃないけど、時間もかかるし、何より財布がちょっと寂しくなる。


 だったら、多少怖くても……いや、結構怖くても──“天使”にお願いした方が、お得では……?


 内心で葛藤しながらも、俺は静かに天井を見上げた。


「……分かった。呼んでくれ」


「やったぁ~っ☆」


 天使がぱぁっと嬉しそうに光を弾けさせ、宙で一回転した。


「前までは~、“智天使ちゃん”たちでギリギリだったんだけどね~? 今回の“天界化改良”で、もっと下の子たちも呼べるようになったんだよ~っ☆」


「……下?」


 思わず聞き返しながら、ふと昔調べた何かを思い出す。


「そういえば……“天使”って、階級が色々あるんだよな?」


「そだよぉ~っ☆ “天使の九階級”ってやつ~!」


 誇らしげに、無数の目がぱちぱちと瞬く。


「えっと、確か……熾天使、智天使、座天使……」


 ぽつぽつと記憶をたどるように呟くが、すぐに頭の中が曇る。


「あとは、なんだっけ……?」


 うろ覚えにもほどがある。

 覚えようとして覚えなかった結果の典型だった。


「えぇ~? 覚えてないのお~? ごしゅじんさま、しょーがないなぁっ☆」


 天使は環をくるくると回しながら、嬉しそうに言う。


「じゃあ、教えてあげるねっ☆ ちゃんと覚えて帰ってね~っ!」


 帰ってね、って……ここ俺の家だけどな。


 内心で思いながらも、あえて口には出さない。


 天使はふわりと光の帯を伸ばして、棚の上にあったコピー用紙とペンを器用に掴んだ。


「ちょっと待っててねぇ~っ☆ 分かりやすくしてあげるからぁ~っ☆」


 空中で紙が広げられ、ペンが軽やかに踊り始める。


「まずねぇ~っ☆ 一番上が、いわゆる神さまのすぐ近く! 会社でいうと三役、経営陣って感じ~☆」


 天使の解説が始まり、紙の上には綺麗にまとまった組織図が出来上がっていく。


 『第一階級:神のすぐそば(三役・経営陣)』

 ・セラフィム(熾天使):会長(ほぼ神の愛そのもの。経営理念の化身)

 ・ケルビム(智天使):社長(方針と知識の決定者。ブレイン)

 ・トローネ(座天使):専務・監査役(判断と秩序の管理者)


「で、その下が~っ☆ 中間管理職ねっ☆ 現場と上の橋渡し係り~っ!」


 『第二階級:管理職ポジション』

 ・主天使(ドミニオンズ):部長・中間管理職(現場と上層部の橋渡し。指示を翻訳して下に流す)

 ・力天使(ヴァーチューズ):課長(奇跡的な成果を求められる。現場に近いけど責任重い)

 ・能天使(パワーズ):戦略室長・セキュリティ部門長(外部脅威の対応、対トラブル要員)


「そして~、最後が現場の子たち! 一番身近な子たちだよぉ~っ☆」


 『第三階級:現場レベル』

 ・権天使(プリンシパリティーズ):チームリーダー(チーム単位の管理。教育や指導も担当)

 ・大天使(アーキエンジェルズ):特命社員・プロジェクトリーダー(重要任務の実行部隊)

 ・天使(エンジェルズ):新卒〜平社員(現場で汗をかく最前線)


 完成した組織図を眺めながら、天使は得意げに翼をぱたぱたと動かした。


「どぉ~? 分かりやすかったでしょ~っ☆」


 確かに会社の組織図に例えられると、なんとなくイメージは掴みやすい。

 ただ──


「でもさ。現場レベルの“天使”って、身近にいなくないか?」


 そう口にすると、天使はふわっと回転しながら首をかしげる。


「ん~、ま、あくまで“たとえ”だからね~っ☆ 実際はけっこう形骸化してるっていうか~? 厳密に階級通りに動いてるわけじゃないんだよぉ~」


「そうなのか」


「うんうんっ☆ “天界”って、けっこう柔軟なの! 緊急時とか任務内容によっては、階級飛び越えて動くこともあるし~? “役割”より“相性”で選ばれることも多いしね~っ☆」


 相性重視の現場主義って……なんだか意外だった。


「むしろ~、“人間社会”のほうが、よっぽど階級とか上下関係とか厳しいよぉ~っ☆」


 そんなことを言いながら、天使は紙の上でまた一回転して、翼をふわりと動かす。


「……まあ、確かに」


 社会人だからこそ、否定はできなかった。


 ──と、そこで天使が唐突に声を弾ませた。


「うーんとね、この“天界化”の強度ならぁ~、“能天使ちゃん”くらいまでは普通に呼べそうだよぉ~っ☆ ……他の子たちも、何体か試してみよっかな~っ☆」


 あっけらかんとした笑顔(?)。

 けれど、その裏で不穏なワードが混じっているのを、俺は聞き逃さなかった。


「“何体か”……って、え、それってまさか……」


 嫌な予感が頭をよぎる。


「うんっ☆同時に何体か呼んでみよーって思ってるんだぁ〜☆」


 それを聞いた瞬間、言葉にならない震えが、背筋を駆け上がった。


 ──まさかの、“複数降臨”。


 いやいや、前回の智天使だけでも視覚情報が限界突破してたってのに。

 これ以上は、色々持たない。

 主に俺の精神が。


 なのに、天井の上では天使が楽しげにくるくると回っていた。


「えへへ~っ、きっと楽しくなるよぉ~っ☆」


 ……いや、俺にとってはホラーの始まりなんだが。


 とはいえ、すでに了承してしまった手前、今さら「やっぱやめて」なんて言える空気ではない。


 ──こうなったらもう、腹を括るしかない。


 俺は小さく息を吸い込み、静かに覚悟を決めた。

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