仕込み
焼肉は、とんでもなく美味かった。
これが“高級”の力かと、肉の一切れ一切れに感動しながら箸を進め、気づけば皿は空になっていた。
「ごちそうさまでした」
自然と口から出たその言葉は、腹からも心からも出てきた、素直な感謝だった。
「……さて。会計、どうするんだ?」
ふと我に返り、空になった皿たちを眺めながら呟く。
どうやら席会計のようだったので、テーブルに備え付けられた呼び出しボタンをそっと押す。
少しして、黒服の店員が静かに現れた。
「お会計でございますね。少々お待ちくださいませ」
店員は手際よく端末を操作し、すぐさま合計金額を提示した。
「……」
表示された数字を見て、脳裏に“目玉が飛び出る”という表現が現実になりかける。
完全に庶民感覚が悲鳴を上げる金額だった。
と、その時。
「払うのは私だ」
マモンがすっと手を伸ばし、鞄の中からカードケースを取り出した。
そこから出されたのは、漆黒のクレジットカード。
ロゴもナンバーも極力目立たないデザイン──それなのに、ただそこに在るだけで“格”が違った。
俺は思わず、ごくりと唾を飲み込む。
出たよ、伝説の“ブラックカード”……。
都市伝説だと思ってたけど、本当に存在するんだな。
しかも、こんな自然な流れで目の前に出てくるとは。
マモンは何事もないように店員にカードを手渡し、その仕草ひとつひとつに隙がなかった。
「これで決済を」
「……かしこまりました」
店員も、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに丁寧にカードを受け取る。
端末に通されるカード。
高級店らしい静謐な空気のなか、電子音が一つ、控えめに響いた。
支払い、完了。
俺は唖然としながら、その光景を見守るしかなかった。
高級焼肉の余韻をそのままに、俺たちは店の外へと出た。
夜の街は、すっかり静けさに包まれている。
微かに焼いた肉の香りが服に残っている気がして、なんとも言えない満足感が胸に残った。
……でもこれ、シャツはともかく、スーツにまで染みついてたらどうしよう。
「焼肉くさっ」って思われるやつじゃないか?
俺のスーツ、洗濯機で洗えないやつなんだよな……
ってことは、クリーニング行きか。
肉の余韻と一緒に、現実的な出費の匂いも漂ってきた。
「いやぁ~、ほんと美味しかったねーっ!」
パイモンが腕を大きく伸ばしながら、空に向かって深呼吸する。
「マモン、ごちそーさまっ!」
「……気にするな」
マモンが淡々と応じると、パイモンはにへらっと笑い──そのままくるりと踵を返した。
「じゃ、あたし帰るね~!」
「え、もう?」
思わず問い返すと、パイモンはぴたりと足を止め、こちらを振り返った。
「だってさぁ、用も済んだし、これ以上“現世”にいたら、あたしの身体どんどん弱体化しちゃうじゃん?」
明るく言い放つその声音に、俺はあることを思い出した。
そういえば、ある程度力のある悪魔は、天使と違って単独で現世に滞在できるらしい。
けれど、長く居すぎると、“身体の構造”がどんどん人間に近づいていってしまうと。
「……でも、地獄って色々危ないんだろ? 他の悪魔に狙われたりとかさ」
素朴な疑問が、口をついて出た。
パイモンはぴたりと足を止め、こちらを振り返ると、にっこり笑って指を立てた。
「確かにそうだけど~? あたし、ベルフェゴールの味方だしぃ? そばにいるから、だいじょーぶっ!」
さらっと言いながら、肩をすくめて見せる。
「他の悪魔が攻撃してきたら、さすがにベルフェゴールも“反撃”くらいはするし~。……たぶん」
たぶん、の部分が地味に不安だったが、それでも、パイモンの表情はどこまでも屈託がなかった。
「……でもさぁ~?」
くるりと振り返ったパイモンが、急に笑顔を薄くする。
「ずっと“支配”しようとしてたのに、全然ダメだったんだよね~。……悔しいなあ、ほんと」
「……え?」
思わず、声が漏れた。
その意味が理解できなくて、けれど、妙に寒気だけが先に背中を走っていく。
「ふりかけにした後だってさ~、ほんとはこっそり色々“仕込み”入れてたんだけど?」
パイモンがさらりと笑いながら、信じられないことを言い放つ。
「呪いとか、霊的な干渉とか、魂に影響与える系の術式とか~。いろいろ盛り込んだのに、なんか“変な文様”が浮かんで……ぜ~んぶ弾かれちゃったんだよね~。あれ、なんだったの?」
ぞわり、と肌が粟立った。
ふりかけ──じゃなかった、ベルフェゴールの第7のあばら骨。
あれをご飯にかけた瞬間、確かに赤く不規則な螺旋の“文様”が浮かんでいた。
まさか、あれは……
「分かってたもんね~っ☆」
天使が明るく言いながら、宙でくるりと回る。
「ちゃんと“弾いた”もんっ☆ 主さまからのお知らせ、届いてたから~っ☆」
言いながら、環の中心からきらりと光が弾ける。
「……そういうことか」
パイモンは、ほんの少しだけ目を細めた。
その目は、いつもの軽薄さとは違って、底の読めない深さを湛えていた。
だが次の瞬間には、またいつもの調子に戻って──
「ま、いっか~! 面白かったし~!」
あっけらかんと手を振った。
「じゃあ、あたしはこのへんで。またね~っ!」
軽やかに言い残し、くるりと踵を返す。
小さく手を振りながら、パイモンは夜の街へと姿を消していった。
……去り際の背中は、妙に軽やかで──そして、底知れなかった。
「…………」
誰も、何も言わなかった。
ただ、空気だけが妙に冷えていた。
俺はそっと、腕をさする。
あの“ふりかけ”に仕込まれた呪いなどをもし天使が弾かなかったら──もし、あのまま口にしていたら。
……いや、もう考えたくない。
けれど、その時ふと脳裏に浮かぶ。
天使が言った、主からのお知らせ。
“その者に気を許すな”。
……そういうこと、だったのか。
その言葉が、今更ながらに重く、俺の中で響いた。
あのパイモンが、あんな意図を持っていたなんて。
ずっと屈託なく笑って、軽口を叩いて、焼肉を頬張って──
まるでただの陽気な悪魔だと思ってた。
それなのに、あんなにも自然に“呪いを仕込んでた”なんて言葉が出てくるなんて。
全くそんな素振りもなく、あれだけフレンドリーに接してきたくせに。
裏では、そんなことを“当然のように”やっていた。
……怖すぎる。
そのギャップが、何よりも恐ろしかった。
やはり、悪魔は悪魔だ。
どれだけ笑っていても、どれだけ親しげに話しかけてきても、
その奥に、何を隠しているかなんて分かったもんじゃない。
……信じすぎないようにしよう。
これ以上、踏み込まれすぎる前に。
俺は、俺でいるために。
「……マモンさん」
俺はふと、強欲の悪魔に目をやって問いかける。
「パイモンって……ああいうやつだって、知ってたんですか?」
自分でも、少し言葉が硬くなっているのが分かった。
マモンは短く鼻を鳴らして答えた。
「あー……いや、あんまり関わったことなかったからな。正直、詳しくは知らない」
そう言ってから、肩をすくめるように呟く。
「でも──そういうもんだよ。悪魔ってのは、みんな」
その口調はどこか乾いていて、達観すら滲んでいた。
「裏切る、欺く、踏みにじる。誰かのために動く悪魔なんて、そうそういない。……目的が一致してる間だけ、たまたま味方でいられるだけさ」
それが“悪魔”という存在なのだと、あくまで当然のように。
マモンの声には、怒りも驚きもなかった。
だからこそ重く、染みるように響いた。
……でも。
今、こうして冷静に語っているマモン自身が、内心で何を思っているのかなんて結局、俺には分からない。
信じていいのかどうか。
頼っていい相手なのかどうか。
阿須望さんも、パイモンも、マモンも──所詮は“悪魔”だ。
どれだけ理知的でも、穏やかでも、優しげでも。
その奥には、決して覗けないものがある。
──だから、油断するな。
自分自身に、そう言い聞かせるように、俺は小さく息をついた。
「……とりあえず、それの摂取だけは、怠らないようにね」
阿須望さんが、静かに言葉を継いだ。
その視線は冷静で、けれど、どこか切実さを帯びている。
「悪魔は信じられないかもだけど……“ルシファー様の現世顕現”だけは、悪魔とか天使とか、そんな区別を言ってる場合じゃないわ」
ルシファー様。
その言葉を聞いただけで、どこか体の奥がざわついた。
「うんうんっ、それはそーだよぉ~っ☆」
天使がふわりと浮かびながら、明るく相槌を打つ。
「ふりかけ自体は、ちゃんと“魂の活性化”を抑える効果あるしっ☆ あれはほんとに“ベルフェゴールの眠り”の一部だからねぇ~?」
見た目はただのふりかけにしか見えないが、それが命綱のようなものだという事実だけは、どうやら間違いないらしい。
俺は最後にもう一度、鞄の中の“小袋”の重みを確かめてから──小さく息を吐いて、その場を後にした。
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