静謐のまなざし

一十 にのまえつなし

冥府にて

 目を開けると、私は薄暗い大殿に立っていた。目の前には巨大な天秤が静かに揺れており、向かいには荘厳な女性が座っていた。

 彼女の長い黒髪は波のように流れ、深い眼差しは私の魂を映し出すようだった。彼女の声は柔らかだが、すべてを見透かすような力強さがあった。

「汝の一生、善と悪を量った結果は等しく、判決を下せない。」

 天秤は完全に水平で、微動だにしない。私の人生は、善と悪が均等に積み重なり、優劣がつかなかった。

「ゆえに、汝に試練を与える。過去の選択を再び生き、魂の真の価値を示せ。ただし、一つの条件がある。『我は死せり』と言ってはならぬ。始めなさい」


 刹那、景色が一変した。

 最初の試練は、寒風が吹き荒れる村だった。食料は乏しく、村人たちは絶望に沈んでいた。私は冷静に食料を分配し、皆が生き延びる道を選んだ。

 群衆の中に、ぼろ布をまとった老女がいた。彼女は静かに私を見つめ、その深い眼差しはどこか見覚えがあった。


 二番目の試練は、信頼と裏切りの場面だった。かつての友が私を欺こうとした。私は彼を信じつつ、巧みに立ち回り、裏切りを未然に防いだ。友は悔い改め、私たちの絆はより強くなった。

 争いの始まりであった女性は他人事のように冷静で一瞬この人のために友を優先できなかった事を悔いた。


 試練は次々と続いた。私は自分が死んでいることを知っていたから、恐れも迷いもなかった。まるで謎を解くように、試練を一つずつ乗り越えた。


 その試練は違っていた。

 あの地震の日のことだ。

 目の前には、崩れ落ちた建物があった。瓦礫が山となり、埃が舞う中、閉じ込められた人々の叫び声が響き合っていた。

 彼らは恐怖に支配され、互いに押し合い、出口の見えない絶望に沈んでいた。暗闇の中で、大人の怒号、誰かの祈るような呟きが交錯する。

 空気は重く、時間が刻一刻と命を削っていくのが感じられた。

 私は現在の状況も、脱出の方法も知っていた。瓦礫の隙間を抜け、特定の柱を避ければ、安全な出口に至る。数時間待てば救出されるのだ。

 そうやって私たちはあの働いていた電力会社の建物から救出されたのだ。

 それなのに一部の人間は無謀にも水路を抜けていくことを提案し、それに従って大半は帰らぬ人となった。


 だが、問題は彼らにそれを信じさせることだった。

 彼らの心を一つにし、希望を再び灯すには、ただの言葉では足りなかった。

 一瞬、時間が止まったかのように感じた。条件を破れば、試練は終わる。 

 全ての努力が水の泡となり、審判の結果がどうなるかもわからない。

 だが、目の前の人々を見たときにその悩みは消えた。

「よく聞いてほしい。二時間前に東日本全域で地震が起きた。救助はすぐくる。それまで待ってほしい」

「待てるわけないだろ。もう具合の悪い奴もいる」

「地下に行こうというんだろ。そこにいけば開けた扉から大量に水が入ってきて、多くの人が死ぬぞ」

「事務屋のお前に何がわかる。ここは限界だ」

「川上さん、あなた子供ができたろ」

「なんで知ってるんだ」

「知ってるよ。あんたの葬式で、棺にすがって取り乱した奥さんを見た」

「何をいっている」

「川上さんだけじゃないよ・・・」

 みんなのこれから知った事を話していく。

「お前、誰だ?」

「私は死者なんだ。 だから、怖がらずに私の言う通りにしてくれ 信じてくれ待ってれば助かる」

「使者?」

「天使」


 私の言葉が、混乱の中に響き渡った。一瞬の静寂の後、人々は互いに顔を見合わせ、怯えながらもその場にとどまるのを決めてくれた。


 その時、群衆の中に白い衣をまとった女性が目に入った。彼女は静かに私を見つめていた。その眼差しは、これまでの試練のすべての女性と同じだった。

 そうだ。どの場面にも、姿形の異なる女性が現れた。疲れ果てた旅人、泣く子を抱く母、助けを求める少女――彼女たちはみな、静かな同じ眼差しを持っていた。


 


 瞬間、景色が溶けるように消えた。

 私は大殿に戻り、荘厳な女性が微笑みながら私を見ていた。彼女の眼差しは、試練中のすべての女性のまなざしと完全に一致していた。雷に打たれたように、すべてを理解した――彼女はずっといたのだ。


「汝は条件を破った」

 彼女の声は優しく、子をたしなめるようだった。

「だが、汝は毎回の試練で吾を見つめ、最後には吾と人々を救うことを選んだ。汝の魂は、他者を思いやることで輝いた。それで十分だ。」

 私は驚き、尋ねた。

「あなたはいつもそこにいたのですか?」

 彼女は目を細め、穏やかに答えた。

「吾は常に汝のそばにいた。ただ、汝が気づかぬ姿で。ただし、試験はやり直しだ」


 次の瞬間、目を開けると、私はベッドに横たわっていた。

 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、飼い猫がえさを欲しがっている。 

 日常だった。

 ただ、あの静かなまなざしは、深く心に刻まれていた。それは夢だったのか、本物の審判だったのか。

 迷いながら私は新しい一日を始めた。


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静謐のまなざし 一十 にのまえつなし @tikutaku

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