施設の先生ではなく、同じくらいの歳の男の子の手。


 施設にいたときのことは、もうあまりよく覚えていないけれど、私に優しくしてくれて、よく一緒にいてくれた男の子の兄弟がいた。


 おとなしい私が、他の子に意地悪されたり泣かされていると、よく助けにきてくれた。


 顔はぼんやりとしか思い出せないし、名前も不確か。


 でも、ふたりの男の子のあだ名はなんとなく覚えている。


 たしか、ゆーくんと……。


「……、きっちゃん」


 ぽつり、つぶやくと、稀月くんはビクッと体を震わせた。


「お嬢様……、おれのこと……」 


 耳を赤くして瞳を揺らす稀月くんの顔が、それまで輪郭の朧気だった幼い男の子の顔と重なる。


 どうして今まで全然気付かなかったのだろう。


「稀月くんは、きっちゃんなの……?」


 尋ねると、稀月くんが小さく頷いた。


「そうです。でも別に、おれが誰かなんて思い出さなくても良いんですよ」


 稀月くんはそう言うけど、稀月くんが同じ施設にいた「きっちゃん」だと気付くと、今まで思い出さずにいた記憶が少しずつ蘇ってくる。


 きっちゃんは、私と同い歳で、私と同じで生まれたときから親がいなかった。施設の男の子たちの中でも、おとなしいほうだった。


 私と同じで、外で遊ぶよりも室内でブロックで遊んだり、絵を描いたりしているほうが好きで。私ときっちゃんは、施設の中でよく一緒にいた。


 同じ物を共有して遊んだり、おしゃべりをするわけでもないのに、きっちゃんは、だいたい私のそばにいた。


 小さな頃の私は、ときどき夜にうまく寝付くことができなくて。そんなときは、きっちゃんが隣で手をつないで眠ってくれた。


 椎堂家に引き取られてからは、だんだんと施設のことを思い出すことが減っていって。きっちゃんとの思い出も薄れてしまっていたけど……。


 半年間ボディーガードとしてそばにいてくれた男の子が、小さな頃も私を守ってくれていた男の子だったなんて。


「私、稀月くんはお父さんとの契約があるから、仕方なくボディーガードをしてくれているんだと思ってた。でも、私だって知ってて守ってくれてたんだね」

「もちろんです。椎堂の家では、戸黒や他の使用人の目もあったので、お嬢様との本当の関係は話せませんでしたが……。小さな頃からずっと、離れているときもあなたのことを大切に思っていました」


 稀月くんが、私を見つめてふっと笑う。稀月くんの優しくて、甘い、少し熱のこもったまなざしに、ドキドキと胸が鳴る。


「私が、運命の魔女だから?」

「それはもちろんありますけど……。おれは昔から、あなたのことが好きなので」

「稀月くんが、私を……?」

「そうですよ。だから、駐車場での告白は嬉しかったし、お嬢様の気持ちがおれと同じだったらすごく嬉しいです」


 稀月くんがそう言って、つないだ私の手を親指ですりっとなでる。


 駐車場での告白……。


 もう死ぬかと思った瞬間に、稀月くんに向かってつぶやいた「だいすき」っていう言葉。あれはもちろん、恋とか愛とか、そういう意味での「好き」だ。


「わ、たしも……、稀月くんが好き」


 小さな声で打ち明けると、稀月くんがふっと目を細めた。どんなに小さなささやき声でも、私の言葉は稀月くんの耳に届くらしい。


「これからはずっと、おれがあなたのそばにいます」


 稀月くんがそう言って、空いている方の手で私の髪に触れる。大きな手のひらで愛おしそうに撫でられて、胸がきゅっとする。


 これからは、契約でも義務でもなくて、稀月くんが彼の意志でそばにいてくれるんだ。


 椎堂家にはもう帰れないし、今置いてもらっている蓮花さんの家だって、いつまでお世話になれるのかわからない。でも、稀月くんがいてくれるなら、未来への不安もなくなるような気がする。


「稀月くん、今までも、今日も守ってくれてありがとう。それから……、伝えるのが遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」

「ありがとうございます」


 照れながら笑う私を見つめる稀月くんのまなざしは、甘くて優しい。見つめられるだけで、じわっと蕩けそうだ。


 綺麗な琥珀色の稀月くんの瞳を見つめ返すのが恥ずかしくて瞼を伏せると、私の髪を撫でていた彼の手が頬へと移動してきた。


 骨ばった稀月の大きな手のひらが、私の頬をそっと優しく包み込む。


 あたたかな稀月くんの手。そこから伝わってくる熱に胸をときめかせていると、稀月くんがほんの少し私に顔を寄せてきた。


「キス、してもいいですか」


 少し緊張しているみたいな、低く掠れた声で訊ねられて、一気に頬が熱をもつ。


 ドキドキしながら目を閉じると、コツンと、稀月くんが私のおでこにおでこを軽くぶつけてきた。


「いたっ……」


 もしかして、からかわれた……?


 そっと片目を開けて様子を窺おうとしたとき、稀月くんの唇が私の頬に触れた。


 ふいうちのことに心臓がぎゅっと縮まる想いがして。同時に、稀月くんが触れたのが唇ではなかったことをほんの少しだけ残念に思う。


 けれど、


「好きです……」


 せつなさの混ざった掠れた声が耳に届けば、邪な気持ちはすべて吹き飛んだ。


 嬉しい。嬉しすぎて、心臓がつぶれそうなほどに痛苦しい。


「私も……」


 私も、稀月くんのことが好きです。

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