幸せなまどろみ

奈落柩

第1話 この人、いいかも


平日の夜。都内のカフェ。

ほどよく静かで落ち着いた雰囲気の中、二人は向かい合って座っていた。


「……でさ、そのとき俺、完全にスーツのまま全力疾走しててさ」

「え、ちょっと待って、それ営業先への道間違えたってこと?」


笑いながら訊いたのは、坂本 遥(さかもと はるか)、26歳。

カフェラテを持つ指先が、少しだけ震えているのを、向かいに座る男性は見逃さなかった。



「そう、全然違う支店行ってて。途中で気づいた時にはもう……地図見ながら焦りすぎて、タクシーもつかまらなくて」

そう言って頭をかいたのは、28歳の会社員、高橋 駿(たかはし しゅん)。

スーツ姿の彼は、どこか柔らかくて、でも芯があるように見えた。



マッチングアプリで出会って、今日が三回目のデート。

お互い、まだ敬語がちょっとだけ残ってる。

でも、心の距離は少しずつ近づいてる──遥は、そんな気がしていた。一方で遥は、目の前の駿を見つめながら、ふと心の奥がちくりと疼いた。


(こういうふうに、やさしくて、誠実そうな人が……一番、信じたくなるんだよね)


以前、遥は恋人に裏切られたことがあった。

「真面目で誠実」だと信じていたその人は、実は他にも女性と付き合っていて──

気づいたときには、すべてが嘘だった。


あれ以来、心を許すのが怖かった。

でも、駿の何気ない仕草や言葉には、作られたものじゃない“素”がある気がした。


だから──


(完璧じゃないところ、ちょっと安心する)


つい、そんなことを思ってしまった。


「高橋さんって、結構ドジですよね」

「それ、褒めてる?」

「どうだろ……でも、完璧じゃないところ、ちょっと安心する」


駿は少し驚いた顔をして、それからふっと目を細めた。

「じゃあ、もっとドジなとこ見せた方がいいのかな」


不意に、遥の胸がドキッと鳴った。

冗談めいた一言なのに、なぜかやさしくて、じわっと心に染みる。でもやはり怖い。

ただ、心のどこかではこんなふうに、少しずつ、心が傾いていけたらいいのに──そう思った。


カフェを出た後、駅までの道を並んで歩く。

夜風が少し冷たくなってきて、遥が思わず腕をさすったとき。


「寒い?」

「うん、ちょっとだけ……」


すると、駿が自分のジャケットを脱ぎ、さらりと遥の肩にかけてくれた。


「次のデート、映画でも行く?」

「うん、行きたい」


ジャケットのあたたかさと、彼の心のぬくもりで心まで包まれていくようで──遥はその夜、眠れなかった

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