第7話 初めてのデート

「なあ、水族館でも行くか」

 休日の朝、千尋はマグカップをテーブルに置いてそう切り出した。

 正面のハルナは声もなくぽかんとして固まっている。食べかけのピザトーストを両手で持ち、パンくずのついた小さな唇を半開きにしたままで。そんな彼女に、千尋はうっすらと意味ありげな笑みを浮かべてみせた。


「公開捜査されてるのに信じられない」

 ハルナは助手席に座ってシートベルトを締めながら、口をとがらせる。

 千尋はくすりと笑い、慣れた手つきでエンジンをかけて車を発進させた。カーナビはすでに水族館までの経路案内を始めている。三十分ほどで着く予定となっているが、そう順調にはいかないだろう。

 このことは数日前から画策していた。今日から十日間の夏休みなので、そのあいだにいろいろなところへ遊びに連れていこうと考えている。彼女のスニーカーやキャップもそのために用意しておいたのだ。

 もっとも彼女自身には内緒にしていた。反対されるだろうからギリギリまで伏せておこうという策である。今朝、時間がないからと強引に言いくるめつつ急がせると、渋々ながらも出かける準備をしてくれた。

 ただ、やはり顔写真をさらされていることで神経質になっている。車中なのに周囲を気にしてキャップを目深にかぶっているし、赤信号で止まったときなどは怯えたようにうつむくのだ。

「あの写真しか出てないんだから、まずバレねぇよ」

「そうでしょうか……」

 報道が出てからおよそ一週間。

 続報もなかったようなので、無関係なひとたちはもうほとんど忘れているはずだ。顔をさらしたところで気付かれるとは思えない。あのひどい顔写真しか目にしていなければなおのこと。

 もちろん知人は別だが、髪を切るなどしてだいぶ印象が変わっているので、軽く視界に入ったくらいなら気付かれない可能性が高い。そもそも知人と鉢合わせること自体がめったにないのだ。

 そうこうしているうちに駐車場についた。入口が混雑していたのでしばらく待たされたが、中に入ると係員の誘導ですぐに停められた。そこからすこし離れた水族館まで歩いて向かう。

 車中でも怯えていたのだから当然といえば当然だが、外に出るとハルナはさらに深くうつむいた。まわりに人の気配を感じるだけでビクリとして、顔をそらしたり、キャップのつばで隠そうとしたりする。

「そうやってるとかえって目立つぞ。普通にしてろ」

 千尋はグイッと顎を掴んで前を向かせる。

 しかし、気付けばまた不安そうな顔をしてうつむいていた。それでもさきほどよりは幾分かましになっているので、悪目立ちするほどではない。もうこれ以上はあらためさせようとしなかった。

 真夏の強烈な日差しが痛いくらいに刺さってくる。二人とも早くもうっすらと汗をにじませながら、まばゆい輝きを放っている銀色の丸い建物を目指して、ただ黙々と足を進めた。


 チケット売り場には長蛇の列ができていた。

 それを見てうろたえるハルナの背中を優しく押しながら、一緒に最後尾に並ぶ。彼女はうつむき加減のままじっとしていたが、誰もこちらを気にしていないことがわかると、すこしずつ顔を上げていった。


 二十分ほど待ってチケットを購入し、入館する。

 そこそこ混雑していたが、冷房が効いているので蒸し暑いということはなかった。そして何より照明が絞られているのがありがたかった。これなら至近距離でもないかぎり顔の判別はできない。ハルナも安心したらしく、人目を気にせずきょろきょろとあたりを見回している。

「水族館は初めてか?」

「はい」

 わかりやすくはしゃいでいるわけではないが、気持ちの高揚は見てとれる。いつも静謐な声がわずかにはずんでいるし、足取りも軽く、表情も明るく、何より目がキラキラと輝いていた。

 順路に従って進むと、彼女は行く先々で水槽に釘付けになった。

 シャチやイルカといった人気どころはもちろん、イワシのトルネードも熱帯魚も気に入っていたし、コウテイペンギンの高速の泳ぎには唖然としていた。すこしグロテスクな深海生物でさえ熱心に見ていた。ただ——。


「これ、もうすぐ始まるみたいだな。見に行くか」

 エスカレーター脇に置かれた案内板で、まもなくイルカパフォーマンスが始まることを知った。何十分も待たなければならないのなら迷うところだが、待たずに見られるなら行くしかない。

 ハルナも頷いてくれたので、すぐに屋外のスタジアムへ向かった。

 そこには子供たちの賑やかな声があふれていた。すでに満席のようなので、周囲の邪魔にならないところで立って見ることにする。遮るものがないため容赦なく白い日差しが降りそそぎ、すこしまぶしい。

「イルカパフォーマンスって何をするんですか?」

「さあ、オレも初めてだしな」

 おそらくイルカが跳んだり泳いだり芸をしたりするのだと思うが、知っているわけではないのであえて言わなかった。どうせなら何の予備知識もなく素直に楽しんだほうがいいだろう。

 その直後、開始を告げるアナウンスが響いた。

 正面の大型ディスプレイにイントロダクションの映像が流れ始める。やがて映像のイルカとシンクロして実物のイルカが大きくジャンプした。その演出にわっと大きな歓声が上がった。

 そのあとも様々なパフォーマンスを見せてくれた。高所のボールに跳んで口先でタッチしたり、わざと観客席に大きな水しぶきをかけたり、二頭がシンクロしながら泳いで跳んだり、次から次へと飽きさせない。

 どうやらトレーナーが身振りでイルカに指示しているようだ。それだけでなく、イルカの背びれにつかまって一緒に泳いだり、イルカの協力を得て一緒にジャンプしたり、パフォーマンス自体にも参加していた。

「なかなか楽しめたな」

 二十分はあっというまだった。

 スタジアムを出ようとする観客たちで騒がしくなる中、隣のハルナに振り向くと、彼女はどこか沈んだような面持ちで目を伏せていた。千尋と違って楽しんでいたようには見えない。

「あんまり面白くなかったか?」

「いえ……その、どうやって訓練したのかなって……」

「ああ……鞭で打つようなことはしてないらしいが」

「それならいいんですけど」

 虐待めいた方法で訓練されているのではないかと思ったようだ。

 以前、イルカの調教師について何かの情報番組で見たが、痛みでしつけることはないと言っていた。まずはイルカとしっかり信頼関係を築いたうえで、ご褒美を与えながら芸を覚えさせていくという。

 もっともこの水族館がどう訓練しているかはわからない。虐待をしていないという確信があるわけではないので、いまだに顔を曇らせている彼女を見ても、これ以上のことは言えなかった。

「そろそろオレらも出るか」

「はい」

 目の前に広がっている抜けるような青空とは裏腹に、二人の空気はどことなく重い。それでも互いに何でもないふりをしたまま、スタジアムをあとにした。


 その後、館内のレストランで遅めの昼食をとった。

 カラフルな熱帯魚が泳ぐ大型水槽を眺めたり、ガラス窓の向こうに広がる港を見渡したり、とろとろのオムライスを食べたりしているうちに、ハルナはすっかりいつもの調子を取り戻していた。

 もうイルカのことを引きずってはいないようだ。水族館を選んだのは失敗だったかと後悔しかけていたが、イルカパフォーマンス以外はどれも楽しんでいたし、来てよかったと思ってくれるだろう。


 ひととおり展示は見たので、食事のあとはミュージアムショップに入った。

 店内にはサブレやまんじゅうなど定番のおみやげから、有名菓子とのコラボ商品、海の生物のぬいぐるみなどがずらりと並んでいる。色とりどりで見ているだけでも楽しくなるディスプレイだ。

 ただ、思うように歩くのが難しいくらい混雑していた。人混みに飲まれてはぐれかけたのであわてて手をつなぐ。ハルナはビクリとしたものの嫌がる素振りはなく、そのまま商品を見てまわる。

「欲しいものがあれば買ってやる」

「え、そんな……別に……」

 何か気になるものがある様子なので声をかけてみると、彼女はうつむき加減で曖昧に遠慮しつつ、あきらめきれないのかチラチラと横目を向けている。その視線をたどってみると——。

「これか?」

 チェーンのついた小さなペンギンのぬいぐるみを手に取って尋ねる。

 ハルナは一瞬にしてぶわりと頬を紅潮させた。そうだとも違うとも言わなかったが、この反応からすると間違いなさそうだ。

「他には?」

 そう尋ねると、あわててふるふると首を横に振った。

 これだけというのも寂しい気がして、近くの平台に積まれていたペンギンのまんじゅうを追加してレジに向かう。列に並んでいるあいだも彼女の手を離すことはなかった。


 外に出ると、強烈だった日差しはすこし弱まっていた。

 夏休み時期は夜八時まで営業していることもあり、これから入館するひとも少なくないが、やはり退館するひとのほうが圧倒的に多いようだ。駐車場から出るときに多少時間がかかるかもしれない。

「あの、ありがとうございました」

 並んで歩いていると、ハルナがキャップを目深にかぶったまま礼を述べてきた。

 水族館に強引に連れてきたことか、ペンギンのぬいぐるみを買ったことか——どちらにしても来てよかったと思ってくれたのだろう。千尋は中学生にしては幼い横顔に視線を流しながら、ふっと頬を緩めた。

「欲しいものがあるなら遠慮しないでちゃんと言えよ。まあ、あんな物欲しそうな顔してチラチラ見てたら、言わなくてもバレバレだけどな」

「すみません……」

 彼女は耳元を赤くしながらうつむく。

 すこしからかいすぎたか——キャップ越しの後頭部にぽんと手をのせると、彼女は驚いたように振り向いて千尋と目を見合わせ、ほっと息をついた。こころなしか足取りも軽くなったように見えた。

 しばらく灼熱のアスファルトを歩いて、車に着いた。

 千尋はリモコンキーで解錠し、彼女を助手席のほうに促しつつ運転席に乗り込んだ。サンシェードを広げておいたが熱がこもるのは避けられない。すぐにエンジンをかけてエアコンの風量を最大にする。

「ほら」

 ふと思い立って、みやげものの手提げ袋からペンギンのぬいぐるみを取り出し、助手席のハルナに手渡した。残りを袋ごと後部座席に置いて手早くシートベルトを締める。

「行くぞ」

「はい」

 彼女もあわててシートベルトを締めた。

 それを確認してから千尋はゆっくりと車を発進させる。合間にちらりと隣を見ると、彼女は小さなペンギンを両手ですくうように持ち、そっと嬉しさを噛みしめるように見つめていた。

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