第6話 眠れぬ夜に

「ハルナ、起きてるか?」

 ベッドに入ってからゆうに三十分は過ぎているはずだが、一向に寝付けず、ふと隣で背を向けている彼女にそう問いかけてみる。

「はい……眠れなくて……」

 すぐにひそやかな声が返ってきた。

 淡いオレンジ色の常夜灯のみのともる薄暗い中で、彼女は身じろぎしながらこちらに顔を向けて、困ったように眉を下げる。そのとき、こころなしか互いの息がふれあったように感じた。


 だったら、このままでいいから眠くなるまですこし話をしないか——そう持ちかけるとハルナは迷うことなく頷いてくれた。そこで、ようやく何について話そうかと思案をめぐらせる。

「ニュース……もしかして毎日チェックしてたのか?」

「はい、夕方のニュースだけですけど」

 彼女は気まずげに答えた。

 警察が捜査しているとわかったら、千尋が捕まらないようにすぐさま出て行こうと、あらかじめ覚悟を決めていたのかもしれない。だからあんなに行動が早かったのではないかと思う。

「おにいさんはいつ知ったんですか?」

「昼休みにネットのニュースで見た」

「……あの、顔写真って出てました?」

「あれはひどいな」

 思わず声に苦笑が混じった。

 不自然に顔がこわばり半眼のようになっているうえ、顔立ちもだいぶ幼い。正直、ハルナと同一人物だとはそうそうわからないだろう。なぜよりによってこんな写真を出してきたのか疑問だった。

「あれ、小学校の卒業アルバムのです。撮られ慣れてないので緊張してしまって。ひどい写りですけど、あれくらいしかなかったんだと思います。写真なんてほとんど撮りませんから」

 まるで千尋の心を読んだかのように、ハルナは話した。

 言われてみれば当然である。親に虐げられているのなら、思い出づくりの写真など撮ってもらえるはずがない。だから学校で撮ったものしかなかったのだ。そのくらい察してしかるべきだったのに——。

「あの……つまらない話ですけど、聞いてくれますか?」

 ハルナは黙りこくってしまった千尋をちらりと見て、そう切り出した。

 たとえどんな話でも、彼女が話してくれるのなら聞くに決まっている。ああ、と端的に応じると、彼女はすこしほっとしたように息をつき、天井のほうに視線を向けて話し始めた。

「父親は、気に入らないことがあると怒鳴りつけて手を上げるひとで。いつもは体にアザとかを残さないように頭を殴るんですけど、激しい怒りで我を忘れたときは、体ごと床に叩きつけたり、踏みつけたり、蹴りまわしたりするんです」

「ああ……」

 父親はきっとそんな感じだろうと予想していたので、驚きはしない。

 ただ、彼女が感情を殺して他人事のように話しているのが痛々しい。そうでもしないと自分を保っていられないのだろう。だからこそ、その思いを受け止めて最後まできちんと聞こうと千尋は決めた。

「そのうえ、すべてにおいて常に自分が正しいと考えているみたいで。やってもないのにやったと決めつけられることもよくありました。あるときなんか、私がいくら殴られても蹴られても認めずにいたら、とうとう息を切らしながら怒鳴り散らしたんです。親が黒と言ったら白いものでも黒くなるんだ、って」

 そこまで言うと、彼女はゆっくりと呼吸をする。

「その瞬間、ショックとか悲しいとかより軽蔑のほうが大きかった。親であっても尊敬してはいけないひともいる。このひとは尊敬してはいけないひとなんだって。同時に、その遺伝子が私にも受け継がれていると思うと怖かった。いつかあんな横暴な人間になってしまうんじゃないかって」

 最後はすこし声がうわずっていた。

 自分でもわかったのだろう。昂ぶった気持ちを鎮めるようにそっと目を閉じる。しばらくそうしていたが、やがてひそやかに息をついたかと思うと、再び何もない天井を見つめて話を続ける。

「母親には幼少のころから暴言をぶつけられてきました。可愛くない不細工だ、生きてる価値がない、生まなきゃよかった、いなくなればいいのに、あんたを好きになるひとなんかいない、みんな嫌ってる、って毎日のように詰られて殴られて。中学生になったころからは、汚いから嫌だって洗濯を拒否されていますし、洗面所のタオルも私だけ分けられています」

 母親のほうは思ったよりもえげつなかった。まるきりいじめだ。

 そういえば、女として欠陥品と言われていたとも聞いたことがある。ハルナ自身には何の非もないのにだ。これだけでも娘に対する尋常ではない嫌悪が窺える。憎悪といってもいいかもしれない。

 いったいどうしてそこまで嫌うようになったのだろうか。ハルナが幼少のころからであれば、折り合いが悪いとかいう以前の問題である。理屈ではなく本能的なものがあるように思えてならない。

「このあいだとうとう耐えきれなくなって、そんなに嫌いならもういっそ殺して、って泣きじゃくりながら訴えたんですけど、あんたごときのために刑務所に入るなんてまっぴらごめん、自分で勝手に死んで、ってぞっとするような冷たい目で言われてしまって。もしかしたら、このひとはずっと私の自殺を願っていたのかもしれない——確証はありませんがそう感じました」

「だから、死のうと思ったのか?」

 そう問いかけると、彼女はわずかに眉根を寄せて考え込む。

「だからってわけじゃないですけど、理由のひとつではあると思います。私ももう生きていたくなかったし、まわりにも死ねって思われているなら、本当に生きていく意味がないなって」

 その目元に、口元に、ふっと淡い自嘲が浮かんだ。

「そんな両親ですけど、世間体は人並み以上に気にするみたいです。学校の先生やご近所さんのまえではいい顔をするので、誰も私がそんな目に遭っているなんて思いません。私も知られたくなくて隠してましたし」

 両親がまわりの信用を得ているのであれば、家で不自然な物音がしても、娘にときどき内出血があっても、なかなか虐待には結びつかないだろう。そのうえハルナ自身が隠しているならなおさら難しい。

「そういうわけで同級生とは一線を引いてました。誕生日も祝ってもらえない、サンタさんも来ない、お年玉ももらえない、テレビも見せてもらえない——なんて言ったら、間違いなく理由を聞かれてしまいますし」

 そこで苦笑まじりの溜息をつく。

「一部の女子には、お高くとまってるとか陰口をたたかれてましたけど、特にいじめられはしませんでした。これでも真面目な優等生として先生に信用されていたので、手を出しづらかったんだと思います」

 真面目な優等生というのは事実だろう。

 こんなところでまで自主的に勉強するなど真面目としかいいようがないし、問題集をすらすらと解いているのだから成績もいいはずだ。話し方や態度からもそういう雰囲気が漂っている。

「ただ……一度だけ、打ち明けようとしたことがありました」

 彼女の声が急に張りつめた。

「相手は養護教諭です。ひとりでいる私をいつも温かく気にかけてくれて。初めてこのひとになら話せるかもしれないと思ったんですけど、親に嫌われていることをちらっと話してみたら、子供を愛さない親なんていないのよって優しく諭されて。それでもう何も言えなくなってしまって……」

 言葉を詰まらせ、何もない天井を見据えたまま口を引きむすぶ。

 ようやく勇気を振り絞って打ち明けようとしたのに、あっさりと全否定されてしまったのだ。養護教諭に悪気がなかったにしても、いや、悪気がなかったからこそ絶望を感じたに違いない。

 千尋はたまらなくなり、布団の中でそっと小さな手を握る。

 ハルナは驚いてビクリとしたが振り払いはしなかった。それどころか応えるようにおずおずと握り返してきた。つながった手から、二人の体温がゆっくりと溶け合っていくのを感じる。

「あの……おにいさんの両親はどんなひとですか?」

 ふと、彼女が静寂を破った。

 個人的なことを尋ねられたのは初めてかもしれない。彼女が興味を持ってくれたという事実につい頬が緩むが、そのあたりについてはあえて言及せず、とりあえず本題である質問のほうに答えることにする。

「オレ、捨て子なんだ」

「えっ?」

 ハルナは目をぱちくりさせた。

「生まれてまもなく、まだへその緒がついた状態で捨てられていたらしくてな。物心がつくまえから高校卒業まで児童養護施設で育った。だから生みの親はわからないし、育ての親もいない」

 その過去を隠したことはない。自ら積極的に話したりはしないが、尋ねられたときにはいつでも正直に答えてきた。逃げたくないなどと気負っているわけではなく、知られることに抵抗がないだけだ。

 しかし、彼女はショックを受けたような面持ちになり目を伏せる。

「すみません……私のこと贅沢だって思いましたよね……」

「いや、親がいればいいってものじゃないだろう」

 たとえどんな親でも子供の幸せのためには必要だ——そういう考えの人も確かにいるようだが、千尋は違う。

「オレは別に自分が不幸だったとは思っていない。恵まれているとは言いがたかったが、それなりに尊重してくれていたし、大人に殴られることもなかったし、誕生日もささやかだが祝ってくれたし、サンタだって来てくれた」

 そう説明するが、彼女の瞳は不安そうに揺れたままである。

「でも、両親に会いたくないですか?」

「どんな人間なのか見てみたい気持ちはあるが、会いたくはねぇよ。捨てられたことを恨んでるとかそういうわけじゃなくて、ただ面倒なだけだ。いまさらオレの人生に関わってこられても困る」

 千尋はきっぱりと言った。

「オレとしては捨ててくれてよかったと思ってる。子供を捨てるってことは、経済的に困窮しているか、育てられない事情があるか、子供に愛情がないかだろう。無理して育てても互いに不幸なだけだしな」

 幼少のころは別として、ある程度の分別がつく年齢になるとそう考えるようになっていた。ただ、強がりだと決めつけて憐れみの目を向けてくるひとが多いので、口には出さないようにしていたが。

 ハルナは眉を寄せ、矛盾と緊張をはらんだような複雑な表情を浮かべる。

「私も……いっそ捨ててくれたほうがよかったのにって、ずっと思ってました。児童養護施設のほうがまだましなんじゃないかって。でも、きっと親のいないひとからすれば不愉快だろうなって……」

「まあ、それは人それぞれだな」

 棄児がみんな千尋のように考えているわけではない。

 親に捨てられてさえいなければ幸せになれたのに。そう思い込み、恋しがったり恨んだりする子のほうが多いかもしれない。そして、そういう子ほど境遇の違うひとを蔑ろにする傾向にある。

「ただ、おまえの境遇なら捨ててほしかったと思うのは無理もないし、その気持ちを否定される道理もない。少なくともオレはそう考えている」

「ん……」

 ハルナは天井に向き直り、口を結んだまま言葉にならない返事をした。泣くのを堪えているのだろう。瞳が常夜灯を反射して淡くきらめいている。瞬きひとつで雫となってこぼれ落ちてしまいそうだ。

 千尋は視線を外すと、言葉の代わりにつないだ手をゆっくりと握りしめた。

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