坂井青は伝えたい

篠ノサウロ

第?話 きっかけ

1



 空調の音、紙をめくる音、シャープペンシルの音。この三種の音しかないはずなのに、私にはそうではない、叫びのようななにかが聞こえてくるような気がした。


(5以上の整数pについて、pの二乗に11を加えた数をnとしたとき、nが3の倍数でないならばpは素数ではないことを示せ、って言われてもな。だから何だよって話)


 そう心の中で悪態をつきながら、実力不相応な問題にペンを走らせる。いや、走らせようとしたが動かない。なにも分からないからだ。


 親に言われて仕方なく入った進学塾、そこの自習室で私はただただうなだれていた。親から言われるままに勉強時間を虚無のまま過ごす日々、当然成績も停滞し、家に帰れば怒鳴られる。いつも出来のいい姉と比べられ、そこに私は存在しない。


(……何がしたいんだろ、私。生きてる必要って、なんだろ)


 そういう考えが、ふとぽつりと胸中に湧いてきた。湧いて、あふれて、そして……


「お疲れ様、今日は早いね」

「はい、桜でも見ようかと」

「そっか、まあ息抜きも大事だしな。行ってらっしゃい」


 時刻は19時をまわっている。塾を抜け出すなんてどうかしていると思ってびくびくしていたが、幸い塾の先生からは何も言われなかった。ぺこりと礼をし、ドアを押して開ける。途端に、冷たい風が顔を伝う。


「そっか、普通の子はこれぐらい当たり前なのかな」


 そう呟いて暗い街を歩き風を浴びるのは心地よく、いつもは鉛のように重いカバンが今日は軽く感じた。



2



 季節は四月中旬、地元の観光名所の飛騨城ではこの時期の夜に庭園部分だけ無料で開放される。ライトアップされた桜と五重の天守が良く映える。そこが目的地だ。


 飛ぶように、舞うように、夜の街を歩く。まだ4月も始まったばかりで、肌寒かった。


「さて、ここを直進……っ!」


 思わず建物の裏に隠れた。恐る恐る壁から顔を出すと、確かに親の車と同じ車種だけど、ナンバーが違う。


「……我ながら恐れすぎでしょ、何してんだか」


 親におびえて何もできない自分の姿がまざまざと描かれたようで、とても悲しい気分になった。ため息をついて、再び歩き出す。




 川についたら、とても綺麗だった。桜が満開で、オレンジの電飾に照らされて、灯篭の明かりのようなものも見える。観光地エリアとして力を入れているだけなのを分かっていても、今の荒んだ私にはとても感動的だった。


「キレイ、だな」


 橋を渡る。神社を横切る。背中のバッグの学業お守りはその神社で親が買ったものだったはずだ。先ほどまで投げ捨てようとすら思っていたが、流石にそういう気分ではなくなった。


 そのまま街灯に案内されるままに、城の門が見えた。直後信号が赤になり、ようやく私も立ち止まる。誰かに見られてないか不安で、後ろを振り返ったら、満月がぽつんとあった。


 青になり、横断歩道を渡ると、観光客らしき人々が数多くやってきた。暗くてよく顔が見えないが、アジア系や欧米系、それ以外の多くの国の人たちがいることは分かった。もっと英語のリスニングができたら、話してることも分かるのかな。


 砂利道を歩き、しばらくすると城が見えてきた。下から光が当たって、城のモノクロカラーがよく見える。堀に反転して移された城は、少し揺らいでいる。桜の花びらが数枚浮かんでいた。


 折れ曲がった道を進んで門を二つくぐり、開けた庭園が網膜に映し出される。見上げると、桜。何本もの桜が腕を降ろして、こちらを迎えに来るようなそんな気がした。


「桜の木の下には、なんてね」


 桜は何も言わない。ただただ手を差し伸べるかのごとく、枝が揺れていた。騒がしい観光客の集団から離れて、ベンチに座る。


 人生ってなんなのだろう。人は生まれながらに自由なんて、誰が言ったのだろう。言いたいことも言えず、やりたくないことはやらされ、やりたいこともできず、苦労したところで誰かに何かを残せるわけでもなければ、誰からも注目されない。


「そういう人生なのかな……」


 涙は出ない。私はこういうときの泣き方を知らない。ただただ、胸中に虚無が広がり、体が夜風と月光を浴びる。そうしている内に、ある考えがその虚無から零れ落ちた。


「……いやいやいや、まさか、いや、流石にそれは、いやいや」


 それは、それは、おそらく許されざる狂気の発想。誰が見ても狂っていると罵りたくなるようなアイデア。


 私はぼんやりと桜を見た。城を見た。月を見た。突如アニミズムに目覚めたかのように、彼らの声が聞こえてきたような気がした。その声は、その声だけは、私の選択を肯定しているように思えた。


 決断をした私の足は、塾を抜け出した時よりも軽やかだった。天まで駆けてゆけると、確信した。

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