2.二つの異変
妙な夢を見たことも、日々の業務に忙殺されていればはるか彼方に飛んでいく。僕が次に何かを考える余裕を得たのは午後九時の退勤後だった。昼休みなんてものは売店の豚丼とビタミンサプリ、おみやげのお菓子を摂取して私用のメールを確認すれば消え去っているものだ。
血液内科の専攻医。それが初期研修を終えて後期研修に入ったばかりの僕の肩書だ。病理やアレルギー・膠原病内科と迷ったが、学会で見た赤血球の顕微鏡写真に魅せられてふらふらと入局した。このご時世、薄給と激務のせいで大学病院に残る医師は希少種で、まして一般に知られていない血液内科を志望する専攻医なんてそういない。この機を逃さず大学病院に残ってもらおうと先輩や指導医の心の声が聞こえてくる。
小児科や産科が不採算部門と言われて久しいが、人気がない点では血液内科も変わらない。血液内科で扱う代表的な疾患は白血病や悪性リンパ腫など、急性慢性含めた血液疾患だ。つまり、血液内科では日々死にゆく患者がいて、治らない病と付き合い続ける日々を送る患者がいる。はっきり言うと、患者を救った実感はあまり得られない。そんなところも不人気の所以だろう。でも、そういう日々が僕は案外性に合っている。人間は病と無縁には生きられないのだから。
マフラーを巻き、駐輪場への道を歩く。自転車で家まで十分なのもこの大学病院のいいところだ。
「あれ、乙女だ。今帰り?」
大学から同期の女性医師、佐竹が車のキーを指で回しながら手を振っていた。疲れているはずなのに、佐竹からは陽のエネルギーを感じる。
「乙女って呼ぶな」
そっけなく返事をするが、その後の流れはわかりきっていた。
数分後、僕は佐竹の運転する車に自転車をつみこんで、佐竹がチェックしていた店に向かっていた。
「カルビ、ハラミ、あとタン」
「え、ジンギスカンあるじゃん。最高。ジンギスカン追加で」
真剣な顔でメニューを眺め、早口で注文する。空腹と疲れを癒すのは何と言っても焼肉だ。個室の焼肉屋で、一心不乱に肉を焼く男女。傍目に見れば僕らはカップルだ。無言で肉を焼いては食べるだけの二人組で、それらしい会話も雰囲気もないのに思い込みとは恐ろしい。だが周りが勝手にカップル割を適用してくれるなら当然使う。僕らは専攻医。近年待遇が改善されたとはいえ、多忙と懐の寂しさは未だそこにある。
しばらく僕らは無言で肉を焼いて食べ続けた。肉の焼ける音、たれのにおい、肉の焼ける香り。料理は嗅覚や聴覚も用いて楽しめるのだ。
部屋が焼肉の香りに染まった頃、佐竹が切り出した。
「あ~、肉美味かった~。……美味い肉の後に悪いけど、クソ親父の話するね」
「……おう」
佐竹の目が据わっていた。さて、佐竹の親父さん――クソ親父さんは今度は何をやらかしたのか。だいたいの見当はつく。かなり大規模に展開する医療法人のトップで名医との評判だが、娘の佐竹に言わせると「医者としてはよくても親にはしたくない」人物だ。嫌っていても職業人としての評価は別なところに佐竹の強さを感じる。
「実家に帰ったら見合いをセッティングされててさあ、しかも相手はどこぞの大病院の跡継ぎで、魂胆見え見えなんだよね。娘の結婚相手と事業提携して手広くやろうっていう魂胆が」
「それはまた、きついの来たな」
「しかも、お母さんを安心させてあげなさいって、何? 私のママはとっくに安心してますけど? おまえが職場で不倫した話、こっちは全部知ってんだからなあのクソ親父本当に殺す」
病床の母まで持ち出して結婚を強いるなんて、クソ親父さんも人でなしを極めている。クソ親父さんは医者や経営者としては優秀なのだ。婚姻を利用して事業拡大するのは経営戦略だ。愛のない結婚も僕は否定しない。結婚するなら愛が必要なんて法律の条文にはない。両性の合意のみに基づくわけで。利害が一致していれば何でもいいと思う。僕は結婚なんて面倒なこと頼まれても嫌だが。
でも、自分の利害を親孝行や結婚適齢期なんて言葉でコーティングして娘に強いる態度は僕も好きになれない。正直に「利用させてくれ」と言えば交渉を始められるのに、問答無用で娘を利用するのはよくない。
「私に稼ぎがもっとあったらママと世界一周でもしてから看取るのに」
佐竹の母の病状は僕も知っている。末期のがんで数年の後には死ぬ。元気なときには医師をしていたが、佐竹が小学生の頃に最初のがんになり、以降は治療と育児といくつかの趣味をして過ごしていた。卒業試験前や国家試験前に佐竹の家で勉強会をしたときには自作のタペストリーのあるリビングで、バラの形のカップケーキと紅茶でもてなされた。外科医だったと聞き、細かな操作を必要とする趣味の数々に納得した。彼女は最後まで外科医復帰を諦めていなかったのだ。
「佐竹のお母さんは、今の佐竹を見れて喜んでるだろ」
「うーん、でもさあ、結婚式の感動はまた別じゃない?」
「僕でよければ相手役くらいはできるけど」
「いや、ママは乙女が恋しないの知ってるじゃん」
アロマンティック・アセクシュアル。恋愛感情を抱かない、他人に性的に惹かれない。それが僕のセクシュアリティだ。その件で学生時代にいろいろあって、佐竹とは協力関係にある。
「相手なんてどうでもよくて、娘のウェディングドレスがメインなんじゃないの、こういうのは」
「それならソロで撮るわ。……あ、それいいな。ママとドレス着て写真撮ろう。それくらいなら何とか調整できそう」
うん、と佐竹は一人納得して、「クソ親父は殺す」と宣言した。僕は声を上げて笑った。佐竹の母も佐竹も強くて格好いい。
ほぼ同時刻、異世界にある公爵家の書庫の奥。公爵令嬢のアメリアは毒薬の生成を試みていた。強い魔法が使えたらもっと楽だっただろう作業をアメリアは一人きりでこなしていく。
婚外子、さらには呪われた令嬢として忌避されるアメリアのそばには離れで世話をしてくれるメイドが一人きりで、侍女もいない。貴族の子女のほとんどが学ぶアカデミーの類にも通ったことがない。表向きは病弱さが理由とされているが、アメリアが冷遇されていることなんてこの国の貴族であれば皆知っている。
だが、アメリア自身は冷遇されている自覚はあまりない。幼い頃は平民だったため、呪いに振り回されていても医者にかかるなど夢のまた夢だった。公爵令嬢となった今は毎週公爵家の専属医がアメリアを診察する。診察したところで打つ手がないのは変わりないが、感情を波立たせないようにとの助言はあった。それだけでもアメリアが倒れる回数はぐっと減ったのだ。
公爵家に娘がいないのも大きかったかもしれない。異母兄も異母弟も剣と魔法の鍛錬や学業に忙しく、アメリアに寄せる関心などなかった。公爵夫人はアメリアを外に出さず離れに住まわせたほかは書庫への出入りもとやかく言うことはなかった。憎しみを向けられる可能性を予期して怯えていたアメリアに、公爵夫人は優しく告げた。
「放っておいても死ぬ娘をわざわざいじめて悪評の種をまくつもりはありませんの」
弱い魔法しかない、呪われた公爵令嬢。縁談などないままに公爵家で朽ちていくのだとアメリアも周囲も思っていた。それなのに、王国におけるもう一つの公爵家からアメリアに縁談が来たのだ。欲しいのは公爵家同士の連携だろうが、アメリアの境遇を思えば、破格の申し出だった。
薬草をちぎり、すり鉢で念入りに潰していくアメリアに表情はない。
アメリアにはもったいないくらいの縁談。それこそがアメリアが今こうして毒薬を作る理由だ。婚約者が嫌いかといえば、そうではない。向こうもアメリアを何とも思っていないだろう。優しく礼儀正しい彼の言葉に何の情も乗っていないと身に染みて知っている。
どこであっても、私は誰かに利用される運命なのだろう。
それは静かな絶望だった。一つでいい。何か一つは自分で選びたかった。結婚しないことでも、生を終わらせることでも、何でもいい。ただ一つ、私は選びたい。
そうしてアメリアは弱い魔法で生成した少しばかりの水と潰した薬草をよく混ぜて、一思いに飲み干した。
僕の目を覚ましたのは二日酔いと間違うほどの頭痛だった。
「おかしいな、昨日はノンアルだったはずだが」
不審に思いながら僕は立ち上がる。古めかしい本の数々、そして散らばった植物の葉。それどころか、ここは――どこだ?書庫のようだが、どうにも年代が違うというか。しかも、やけに視界が低い。これでは一五〇センチかそこらしかない。
ひとまず本と植物の葉を片付けようと手を伸ばす。窓に映る己の姿、本に書かれた見知らぬ文字を認識した途端、頭痛は激しさを増す。頭が割れそうな頭痛とともに、僕の頭には膨大な情報量が注がれた。この体の持ち主――公爵令嬢アメリア・クローセルの境遇や身につけた知識がとめどなく流れこんだ。
アメリアは魔法が存在する王国の公爵令嬢。ここはいわゆる異世界で、アメリアは冷遇されていることも、アメリアが呪いを受けていることも、すべて。
アメリアの知識と記憶に翻弄されること数分。僕は大急ぎでアメリアが置いていった植物の葉を隠した。トウワタ――学名アスクレピアス。医神アスクレピオスの名を冠する薬草。毒性はそう高くないが、有毒植物である事実は揺らがない。この状況で見つかれば毒草と勘違いされるだろう。自殺未遂が知れるならまだいい。誰かを毒殺しようとしたと疑われれば、アメリアは終わりだ。後ろ盾もなく殺されてしまうかもしれない。
分厚い本をパラパラと読みながら整頓していく。それが薬草や医学に関する本だったおかげでこの世界の医学のレベルを推し量るには十分だった。
感染症の概念は浸透しきるには至っていない。当然各種血液検査も存在しない。血液内科の専攻医としては見知った手法の多くを封じられたも同然だ。異世界に放り出された現代人が誇れるものなんて持てる知識しかないというのに。
軽く絶望しつつ、身なりを整えていく。
どう生き残るかよりも、まず先に僕は
書庫のある本邸から庭を横切ってアメリアの住む離れへと向かう。庭では植木の世話をしている庭師が、邸宅には使用人たちがいたものの、”アメリアお嬢様”が別人と気づく者はいない。姿かたちに差異はないから当然なのだが、僕の所作はアメリアのそれほど洗練されてはいないだろう。何か勘付く者がいてもおかしくないのに。公爵家全体のアメリアへの冷たさを身をもって感じる。他人事だから平気だが、この年頃の少女には堪えるはずだ。
考えを巡らせながら歩いていると、剣を携えた少年が二人こちらへ向かってきた。アメリアの異母兄と異母弟だ。なるほど、アメリアとはあまり似ていない。アメリアが静かに咲く花だとすれば、この二人は注目を一身に集める華やかさがある。アメリアがしていたように挨拶をして去ろうとして、僕は異母弟の肩を見つめていた。肩を痛めたか。兄に合わせて過度な負荷をかけたといったところか。
「ルシアンがどうかしたか」
異母兄、テオドールの声で我に返った。
「いえ、大したことではありません」
医師と認識されていないのに何かを口にするのは躊躇われた。
「少し考え事をしておりました。失礼いたしま……」
「……お母様に言いつける気はない。だが、おまえがまっすぐに私達を見るなどそう起こることではない。何かあったと思うのが自然だろう」
剣を握る以上は観察眼も優れているというわけか。記憶によればテオドール・クローセルは次期公爵で、同年代に剣では並ぶ者はないのだとか。
「……肩を痛めたのではないか、と思っただけです」
僕の言葉にルシアンが身を固くする。
「先ほど私もルシアンにそう言ったところだ。なぜわかった?」
なぜも何も、大学病院の総合ロビーを日々歩いていれば、その程度は見て取れる。人は怪我をすれば無自覚にその部分を庇った動きになる。
「何となく、そんな気がしたといいますか……」
「では、試してみよう」
そう言うやいなや、テオドールはルシアンの肩を強く叩いた。うめき声を上げてその場にうずくまるルシアンに「なるほど、私とアメリアの考えは当たっていたわけだ」と口角を上げる。おそるおそる顔を上げたルシアンににこやかに休養を言い渡すが、笑顔の裏には底知れないものを感じさせた。
「さて、アメリア。我が義妹はいつの間にそのような慧眼を身につけたのか、私はとても興味があるのだが」
ルシアンに向けられたのと同等、いやそれ以上におそろしい笑みが向けられる。
どう切り抜けたものか。別世界からやってきた血液内科医だと正直に言ったところで信じてもらえるわけはない。
「書庫で医学の本を読んでいたから、でしょうか……?」
変化など自分では意識していない。何か変わったと自覚していない風を装うのが一番だ。
「今日はそういうことにしておこう。ああ、今日は往診の日か。先生を待たせてはいけないな。部屋に戻りなさい」
「はい、お義兄様」
テオドールの疑念は晴れてはいまい。僕は必死にアメリアを演じ、彼の視界から離れたところでほっと息をついた。緊張が解け、一気に脱力する。――言葉通りに。
そして僕はその場に崩れ落ちる。視界の端で人が呼んでいる。誰だろう。意識はあるのに体は何一つ命令を受けつけなかった。
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