第2話 よごれた手
第二部 第二章「よごれた手」
暗灰色の空が海から吹きつける風に、曇り硝子のように歪んでいた。
高台の視界から広がるのは、焼け焦げた森と、溶けた地形、別府湾に浮かぶ数十隻もの海上自衛隊の艦船。
衛星情報と照合すれば、かつては農地だった場所だ。土に埋もれた灌漑パイプの断面が、レイのブーツの先でひしゃげた金属音を鳴らした。
何でもない日常が営まれていた田園風景が壊されていた。ただ、それでも空は存在していた。
天宮レイは、その空の下で、初めて“敵”を殺した。
音はしなかった。否、音はしていたはずだ。骨が砕ける音。血が弾ける音。
だが、レイの耳には、自分の心臓の鼓動だけが響いていた。
高性能AIユニットが即時に脳へ送り込む戦術情報、敵影の予測、射線の最適化――すべてが滑らかに流れていたのに、ただ一つ、心だけが追いついていなかった。
「……一体、私は何をしてるの」
ヘルメットの内側、通信を切って、レイは呟いた。
隣では、東堂リクが肩を上下させながら、じっと敵の死体を見下ろしていた。
南北朝鮮連合軍の融合兵士。かつては同じように「救済の技術」と信じて身体を捧げたであろう、適応者。
「レイ。やっぱり……こいつらも、俺たちと同じだ」
リクの声には、怒りも、悲しみも混じっていた。
政府の広報は言う。侵略者。テロリスト。敵対的融合体。
だが、目の前のそれは、どこかで聞いたことのあるモデル名の義肢を使い、旧式の適応アルゴリズムを搭載した、かつて日本で設計された技術の残滓だった。
「あまりいい気持ちのするもんじゃないな…これは」
リクはその場にしゃがみ込んだ。
ミラグレイス(戦闘義装装甲スーツ)の関節が、軽く軋んだ音を立てた。
その脇を重装備の自衛隊隊員たちが駆け足で前線に出る。
空には無数のドローンが羽音を響かせ舞っていた。
それは戦争だった。けれど、それ以上に「技術の連鎖反応」だった。
一度手にした力は、戻せない。使うべきかそうでないかを問う暇もない。
命の代償が、アルゴリズムで見積もられる世界。
リクの傍らに立ったレイが、倒れた敵兵の顔を見た。少年だった。十代後半、彼女とあまり変わらない歳ごろだろうか。
口元に、なぜか微笑みが残っていた。
「……笑ってる」
レイがつぶやくと、リクが小さく息を呑んだ。
「なんでこんな顔で……死ねるんだよ……」
応えはない。だが、レイにはわかる気がした。
死せる悦び。苦悩や苦闘からの解放。自分が信じた未来ある世界の崩壊から、命を落とす事によってしか、逃げ出すことの出来ない現実。
見なければよかったとレイは眼を背けた。
でも、見なければならないと胸の内の奥底から、もう一人の自分が叫んでいる気がした。
私が殺したのだから…そこから逃げることは許されないのだから…
敵を殺したということが、正しかったかどうかなんて誰にも決められない。自分一人の命が掛かった争いではない。全世界の生き残りを賭けた戦いなのだ。
「……殺れって言うなら、せめて覚えておこぜ。この事を…名前も分からないコイツラの事も」
レイの言葉を待たずして、突然全方から激しい爆裂音と共に、鋭い閃光が二人の眼を打った。
前進していた自衛隊隊員の叫び声がいくつもあがった。皆が血まみれで這いつくばりながら敵影に掃射していた。
「任務続行。前進せよ」
頭の中に、軍事技術応用局が開発した指令アルゴリズムが告げる。冷徹に、正確に。
「敵、接近中。距離150メートル。熱反応複数。戦術パターンF-07を推奨」
脳内のインターフェースが、氷のように冷たい声で警告を走らせる。だがレイは、それを即座には受け取らなかった。
数秒の沈黙ののち、ようやく視線を前に向け、銃を構える。
人間としての思考が、生きるためとして命令を受け入れた。
「リク、三体。遮蔽に入る」
「了解。右から回る。……もう誰も死ななきゃいいのにな、って思っちまうのは甘えかな」
返答はなかった。レイも言葉を持たなかった。
甘えかもしれない。だが、それを言葉にできるうちは、まだ人でいられる気がした。
瞬間、乱射音と敵影。
レイは動いた。足の義肢が地を滑り、反動なく跳躍する。標準化された融合義肢の動き――敵と、レイの間に、大きな違いはなかった。
三八式融合銃を肩に構えて撃った。あらゆる方角から敵の熱反応が眼球に映し出された。レイは、正確に、迷いなくそれらひとつひとつを撃ち抜く。
左前方から見方の掃射をくぐり抜けてレイに銃口を向ける小柄な兵士がいた。すかさず、木々の間からリクが2発の弾丸でそれを射止めた。
小さなうめき声を上げて、蹲るようにして敵は倒れた。
丘の向こう側。広めの車道に敵車両が次々と姿を現し、30名近い兵士たちが荷台から飛び降りてくる。陣形を組んでこちら側に銃撃を開始した。
リクの銃声。彼もまた、ためらいのない軌道でさらに応戦する。しかし敵の数がこちらを上まりつつある中ではまともに照準を合わせきれない。
だが脳内のインターフェースの指令は、冷淡に攻撃目標を送り続けてくる。
レイは撃ち尽くした弾倉を投げ捨て、新たな弾倉を銃に送り込んだ。
敵が投げつけた手榴弾が頭上で爆裂したが、彼女は射撃を止めない。
一人二人と敵影が倒れるが、敵の掃射の威力は落ちなかった。
味方の自衛隊隊員が反撃を試みるも、次々に殺られていく。
その時、耳をつんざく強烈な爆音と共に爆風と熱風が、レイとリクの身体をさらった。
敵味方の銃声はやみ、木立ちが猛火に巻かれ、敵車両が勢いよく黒煙をあげている。
上空には微かな機影が見て取れた。
TSURUGI(ツルギ-高速攻撃型無人機)だ、とリクが苦しげに仰向けになりながら鉛色の空を銃口で差した。
レイも咳き込みながらヘルメット脱ぎ捨てると、膝をついて宙を仰いだ。
血のにおい。機械と人が焼ける臭気が辺りを満たしていた。
敵の小隊は全滅。レイとリクの加わった自衛隊小隊も半数以上が死傷した。
初めての戦闘が終わった。
山腹に建造されたダムの奪還を目指して、これからも激しい戦闘が予想された。南北朝鮮連合軍の兵士らも自国の存続をかけて必死に抵抗してくるのは間違いない。
厚い雲が割れ、わずかに神々しい陽の光が差してきたが、何も祝福してはくれなかった。
リクは立ち上がり、茫然と地べたに座り込んだレイの肩に手を回して強く抱き寄せた。
「生きて帰ろうな…」
彼の口から零れた言霊に、レイは無意識に大粒の涙を流していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます