第16話
波獣ヴォラティナが姿を消してから、海はしばらくの間、まるで息をひそめるように静まり返っていた。
夜空には無数の星々が広がり、風も潮も、その一瞬だけ完全な均衡を保っているように感じられた。
俺の中には、今までにない感覚が満ちていた。
全身に巡る潮の気配、風の音の細部にまで意識が届く感覚。
《潮導核》――その力は、単に戦うためのものではなかった。
海を、風を、そして生命を、調和させる力。
それが、今の俺に与えられた“選択の結果”だった。
「……これが、俺の波」
俺が呟くと、波が小さく返事をするように足元を撫でた。
もはや、海と会話することに言葉は要らない。
意思と意思が、そのまま波に乗って伝わっていく。
俺は船の舵を握り直し、帆を張る。
夜の風が追い風となり、小舟は滑るようにミリアナの島へと向かっていった。
港に戻ったとき、桟橋の上にはシーナの姿があった。
その隣には、オルーと数人の村人たちの姿も見える。
俺が戻ってくることを信じて、夜通しここで待っていたのだろう。
船を接岸させると、シーナが最初に駆け寄ってきた。
「レン様……!」
その顔に浮かぶのは、心からの安堵と、確かな敬意。
試練がどれほどのものか、彼女には伝承を通して知らされていたはずだ。
「試練、終わったよ。俺の波を、海が受け入れてくれた」
そう言うと、彼女はゆっくりと微笑んだ。
「おかえりなさい、レン様。……あなたは、もう“この海のひとり”です」
その言葉が、胸の奥にしっかりと響いた。
かつて“何者でもなかった”俺が、今は“この海の誰か”になったのだと。
オルーがゆっくりと近づき、俺の手の甲をじっと見つめた。
「その紋様……“潮導核”の刻印か。ふむ、わしの代で見ることが叶うとはのう」
「知ってるのか?」
「古き伝承にある。“波の器”と呼ばれる者の証じゃ。
己の波で他者を裁くのではなく、導く者。
それは、海に選ばれし中でもごく稀な存在とされておった」
「導く、か……」
力を得た今でも、俺は何かを制圧するつもりはない。
俺が望んでいるのは、ただひとつ。
――この海で、誰かと繋がりながら、生きていくこと。
その意思が、きっとこの“潮導核”の真価なのだろう。
夜明けが近づき、空が白み始めていた。
シーナと並んで浜辺を歩く。
風が心地よく吹き、朝潮が足首をくすぐる。
「次は、どうなさるのですか?」
シーナの問いに、俺は迷いなく答える。
「旅に出るよ。……この海の“声”を集めに。
各地に残る潮核石。まだ見ぬ海龍。失われた波の記憶。
全部、自分の目で確かめたい」
それが、俺にしかできない“波の旅”。
海に選ばれたからこそ、俺はこの世界の“深さ”を知る義務がある。
「……では、私も同行させてください」
シーナの声が響いた。
「この海が変わろうとしているのなら、私もその目で見届けたい。
そして、あなたの波を、隣で支えたい」
俺は目を細め、彼女を見つめた。
その瞳には、一片の迷いもなかった。
「……ああ。頼りにしてる」
ふたりの影が、朝陽に照らされて長く伸びていた。
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