蠱毒の後宮妃

及川 桜

序章

 

 夕暮れの湿地を抜けると、鋼色の屋根瓦をいただく大きな宮殿が見えた。

 草むらには、一人の女がしゃがみ込んでいる。


陀宝林だほうりん!」


 呼ばれた女は立ち上がった。

 夕日に照らされた輪郭は、上級妃にも劣らぬ美しさである。


(……蠱師こしにするには惜しい人材だ)


 第四皇子である楊胤よういんは心の中で呟いた。

 文武両道、長身に端正な面立ち。

 天は彼にすべてを与えたように見える。

 だが実際は、不遇の生い立ちの持ち主だった。

 今回もまた、蠱毒による呪殺事件の犯人捜しという任を押し付けられている。

 犯人を捜すということは、自らも呪殺される危険を背負うということ。

 つまり「皇子の中で死んでも構わない者」として、楊胤に白羽の矢が立ったのだ。

 もっとも楊胤は、呪いなど信じていない。

 面倒ごとに巻き込まれたな、その程度の認識でしかない。

 ――しかしながら、長く冷遇されてきた不遇の皇子が、この件をきっかけにやがて皇帝へと君臨することなど、このときの彼はまだ知る由もなかった。


 楊胤は、犯人捜しのため、蠱師が住むという後宮の奥深くの宮殿へ足を運んでいた。

 そこには、蟲師見習いの風変わりな妃がいると聞く。

 その妃こそ、十数丈先に佇むあの女だった。

 呼べば近づいてくると思ったが、女は立ったまま動かない。

 拱手の礼すらしないとはどういうことだ。

 お前の方から来い、という意味なのだろうか。

 楊胤は思わず眉間に皺を寄せたが、女が動く気配はない。

仕方なく、内侍長ないしちょうと共に彼女の元へ歩み寄った。


「こちらは皇子の楊胤よういん様だ」


 ようやく会話できる距離に達し、内侍長が紹介する。

 楊胤は内心、なんて失礼な女だと呆れていたが、表情には出さず、いつものようにやわらかな笑みを浮かべた。

 楊胤の微笑に頬を染めない女などいない。

 本人もそれを心得ており、時にはそれを巧みに利用してきた。

 しかし女の反応は、楊胤の予想を裏切るものだった。


「……ああ、そうですか」


 興味なさげな返事に、楊胤のこめかみがぴくりと動く。


(こやつは……)


 皇子と紹介されても礼ひとつしないとは、無礼にもほどがある。

 だが内侍長から「変わり者」と聞いていたことを思い出し、怒りを飲み込んだ。

 努めて穏やかに口を開く。


蠱婆こばに取り次ぎをお願いしたいのだが」


「なんの用ですか?」


「それは蠱婆に会ってから言う。二度手間になるからな」


「面倒くさいですが、いいですよ」


(面倒くさい、だと⁉)


 楊胤は思わず口を開けたまま固まった。


「こら、陀宝林! 皇子様になんたる無礼な物言いだ!」


 内侍長が慌てて叱りつける。

 楊胤は苛立ってはいたが、それを表に出すほど愚かではない。

 生意気な女だとは思うが、処罰する気までは起きなかった。


「大丈夫だ。気にしていない。それより……さっきから何を抱えている?」


 楊胤は、女がさっきから大事そうに抱えているものを覗き込んだ。

 すると次の瞬間、赤子ほどもある巨大な物体が突き出された。


「ガマガエルです」


 笑みを浮かべた女の手には、ぬらりとした蛙が載っていた。

 背中のいぼが湿り気を帯びて光り、目だけがぎょろりとこちらを見据えている。


「うっ……」


あまりの気持ち悪さに、思わず楊胤は後ずさった。


(男が蛙ごときに驚いてどうする)


 ハッとしてばつの悪さを感じた瞬間――


「ぎゃああ!」


 隣では内侍長が真っ青になって腰を抜かしており、そのおかげで楊胤の失態はうまく紛れた。

 内心ほっとしながらも、予想以上の異端妃ぶりに、思わずため息がこぼれる。


(……会えば分かるとは、このことか)


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