第8話 静かな再出発

 それは早朝だった。

 如月ミカは誰にも告げず、街の外れにある小さな山のふもとへと向かった。

 かつて学生時代、ひとりでよく訪れていた場所。整備されていない小道と、自然のままの空気だけがある静寂の領域。


 高層ビルも、便器型の彫刻も、信者たちの目も届かない場所。


 彼女は草を踏み分け、木々の間を歩く。

 腸は静かなままだった。だが、その静けさに、以前のような喪失感はなかった。

 むしろ、その“沈黙と共にある自分”を、ようやく理解しはじめていた。


 風の音、鳥のさえずり、足元の枯れ枝の乾いた感触。

 自然の中で五感が目覚めていく。


 ──出すことがすべてではない。


 そう、思えた。

 かつては、排泄こそが自分の表現であり、生であり、祈りだった。

 だが、いまの自分には、それとは異なる生のかたちがある。


 それは、沈黙のまま何かを“抱えて生きる”という在り方だった。


 頂上近くの大岩のそばに腰を下ろす。

 ミカは、小さなスケッチブックを取り出した。

 大学時代に使っていたもの。最後のページには、便器の上に座る自分の横顔が鉛筆で描かれていた。


 彼女はそのページを破り取り、風に乗せて飛ばす。

 紙は旋回しながら宙を舞い、やがて遠くの木々の間へと消えていった。


 その瞬間、身体の奥にわずかな温かさが灯るのを感じた。


 「私の身体は、まだ生きている」


 ミカはゆっくりと立ち上がり、山を下りはじめる。


 この道の先に、信仰も崇拝もない。

 ただ、彼女自身の生活と、時間と、沈黙があるだけだ。


 ──次に何があるかは、わからない。


 けれどその“不確かさ”こそが、生の実感だった。


 ミカは、静かに歩みを進めた。

 それは祈りではなく、革命でもなかった。

 けれど確かに、自分だけの“再出発”だった。


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