第5話 最後の楽園
硝子温室での白昼の儀式は、アリスとマリーの関係性を決定的に変えた。それはもはや、単なる主従や共犯という言葉では言い表せない、魂の深部で絡み合った、
太陽が中天にかかり、城全体が午後の穏やかな光に包まれている頃、マリーはアリスの私室を訪れた。その足取りは軽く、表情には抑えきれない高揚感が浮かんでいる。まるで、待ち焦がれた祝祭の準備が整ったことを告げに来た使者のように。
「アリス様…ついに、その時が来たようですわ」
マリーの声は、熱を帯びた囁きとなって、部屋の静寂に溶け込んだ。その響きには、有無を言わせぬ響きと、甘美な誘惑が同居している。
「私たちの絆を、私たちの存在を、この世の何ものにも汚されぬ、絶対的なものへと昇華させるための…最後の儀式が」
「最後の…儀式…」アリスは、息を呑んで繰り返した。その言葉が持つ、不吉でありながらも甘美な響き。終わりが来る。それは、これまでの人生との決別であり、そして、マリーとの完全なる一体化を意味するのだろう。破滅か、あるいは究極の救済か。アリスの心臓が、期待と恐怖で激しく脈打った。
「ええ、最後にして、最高の儀式ですわ」マリーはアリスに近づき、その肩に手を置いた。ひんやりとした指先が、アリスの肌に電流のような感覚を走らせる。「これまでの全てを内包し、そして超越する…私たちの愛の、最終証明ですの」
マリーの瞳は、狂信者のように爛々と輝いていた。彼女は、この儀式によって、アリスを完全に自分のものとし、二人だけの世界を完成させようとしていた。
「アリス様、あなたは公には、あの小さなキャバリアの子犬…アンジュを、それはそれは大切にされていますわね?」
その名前を聞いた瞬間、アリスの血の気が引いた。アンジュ。城の庭を駆け回り、誰からも愛される、栗毛色の巻き毛を持つ、天使のような子犬。アリス自身も、公の場でその柔らかな毛並みを撫で、優しい微笑みを向けることが多かった。それは、彼女の「清らかな姫君」というイメージを補強する、重要な小道具でもあった。
「アンジュを…まさか…」
「そう。その、あなたの愛と、世間のイメージを一身に受ける、無垢な『天使』を…私たちの聖餐の、最後の生贄とするのですわ」マリーの言葉は、悪魔の福音のように響いた。「あなたが愛でるものを、あなた自身の足で踏み砕く。あなたの外面と内面、光と闇を、完全に統合するのです。これ以上の純粋な行為がありましょうか? これ以上の愛の形がありましょうか?」
アリスは全身の力が抜けていくような感覚に襲われた。アンジュを殺す? それも、自分の足で? これまでの対象とは違う。名前があり、個体として認識し、少なからず情を抱いていた存在。それは、一線を越える行為だ。しかし、その一線を越えることへの、抗いがたい誘惑が、アリスの全身を痺れさせていた。マリーの期待に応えたい。マリーと完全に一つになりたい。そして、自分の中の最後の枷を、自らの足で破壊してしまいたい。
「そして、そのための舞台も、ご用意いたしました」マリーは窓辺に歩み寄り、広大な庭園の一角を指差した。「『忘れられたバラ園』…覚えていますか? 幼い頃、一度だけ迷い込んだことがあると仰っていた、あの秘密の場所」
アリスの脳裏に、陽光が降り注ぎ、色とりどりのバラが野生的に咲き乱れる、少し物悲しくも美しい庭園の光景が蘇った。訪れる者もなく、時間が止まったかのような、隔絶された空間。
「あそこで、行いますの。物置の陰鬱な闇でもなく、温室の閉塞的な空気でもない…白日の下、青空に見守られ、咲き誇るバラの香りに包まれて…私たちの真実の姿を、太陽の下に曝け出すのです。生命の賛歌の中で、命を終わらせる…そのコントラストこそが、私たちの儀式を完璧なものにするでしょう」
白昼、屋外、全裸で、愛玩犬を踏み殺す。あまりにも大胆で、危険で、背徳的で、そして…官能的だった。アリスは、もはや考えることを放棄した。マリーの描く狂気の計画に、身を委ねるしかない。そして、その狂気の中にこそ、自分が求めていた究極の快楽と解放があるのだと、確信に近い予感があった。
「…わかったわ、マリー」アリスは、震えながらも、はっきりとした声で答えた。「あなたが望むなら…それが、私たちの愛の形なら…」
「ああ、アリス様!」マリーはアリスを強く抱きしめた。「これで、私たちは真に結ばれる…永遠に!」
その抱擁は、もはや主従のものではなく、対等な(あるいはそれ以上の)共犯者として、互いの魂を認め合う、熱く、そして業の深いものだった。
「さあ、参りましょう。明日の正午…太陽が最も高く昇る時刻に、私たちの儀式を執り行いますわ」
翌日の正午。城は午後の穏やかな陽気に包まれていたが、アリスとマリーの心は、嵐の前の静けさと、熱病のような興奮に満たされていた。マリーは周到に準備を進め、アンジュを小さな籠に入れ、庭園の管理者に気づかれぬよう、忘れられたバラ園へと向かう道筋を確認していた。アリスは、自室でマリーを待ちながら、これから起こるであろう出来事を想像し、恐怖と期待で身悶えしていた。
約束の時刻。二人は、召使いたちの目を盗み、城の回廊を抜け、庭園の奥深くへと足を進めた。マリーが抱える籠の中からは、アンジュの不安げな鼻息が聞こえる。人気のない小道を選び、生い茂る緑を掻き分けて進むと、やがて、陽光に満ちた、忘れられたバラ園の入り口が見えてきた。
錆び付いた鉄の門を軋ませて中に入ると、むせ返るようなバラの香りと、濃厚な草いきれが二人を迎えた。そこは、外界から隔絶された、秘密の空間だった。壁面や崩れかけたアーチには、赤、白、ピンク、黄色と、色とりどりのバラが、人の手を離れて奔放に咲き誇っている。その力強い生命力とは対照的に、足元の石畳は苔むし、所々にひび割れが見える。中央には、芝生が広がり、その中心には、まるで祭壇のように、平らな一枚岩が置かれていた。燦々と降り注ぐ太陽の光が、芝生と花々を照らし、空気は暖かく、そしてどこか非現実的なほど静かだった。遠くで鳥のさえずりや、虫の羽音が聞こえるだけだ。
「…ここですわ」マリーは、芝生の中央、一枚岩のそばで立ち止まり、恍惚とした表情で周囲を見回した。「私たちのための、完璧な舞台…」
マリーは籠を岩の上に置くと、アリスに向き直った。強い陽射しが、二人の決意に満ちた表情を照らし出す。
「さあ、アリス様、始めましょう。この太陽の下で、全てを脱ぎ捨て、真実の姿になるのです」
二人は、互いを見つめ合いながら、ゆっくりと衣服を脱ぎ始めた。アリスの薄絹のデイドレス、マリーの簡素な侍女服、そして下着。一つ、また一つと布地が芝生の上に落ちていくたびに、彼女たちの肌が露わになり、太陽の光を浴びて輝き始める。白いアリスの肌、小麦色のマリーの肌。その対比が、これから始まる儀式の倒錯性を象徴しているかのようだった。
風が吹き抜け、二人の裸体を撫でる。それは、羞恥心を煽るというよりも、むしろ、自然と一体になるような、原始的な解放感をもたらした。
最後に残されたのは、足元の靴だけだった。
アリスは、芝生の上に置かれた、純白のエナメルパンプスに素足を入れた。緑の中で、その白さと艶やかさが、異常なほど際立っている。柔らかな芝生が、靴底の格子状の凹凸(グリッドパターン)を通して、足裏に奇妙な感触を伝えてくる。5センチのピンヒールは、緑の絨毯にわずかにめり込み、まるでこれから始まる出来事への覚悟を示すかのように、凛と立っていた。
マリーもまた、自身の黒い革靴を履いた。土や草の上を歩くことを想定した、頑丈で実用的な靴。低いヒールは安定感があり、磨かれた黒革が、太陽光を鈍く反射している。その飾り気のなさが、かえって彼女の揺るぎない意志と、内に秘めたる激しい情念を感じさせた。靴底の、おそらく単純な溝にも、まだ微かに過去の儀式の痕跡が残っているかもしれない。
裸体に靴だけ、という究極の姿になった二人は、改めて互いを見つめ合った。相手の瞳の中に映るのは、もはや恐怖や躊躇ではない。あるのは、共に深淵へと飛び込む覚悟を決めた共犯者の、強い絆と、禁断の儀式への抑えきれない渇望だけだった。
「太陽よ、風よ、花々よ…証人となりなさい」マリーは、両手を広げ、天を仰ぐように呟いた。「今、ここで、二つの魂は、真に一つとなる…!」
そして、マリーは岩の上の籠から、アンジュを優しく抱き上げた。アンジュは、久しぶりにアリス以外の腕に抱かれたことに戸惑いながらも、マリーの手に顔を擦り寄せた。
「さあ、アリス様。最後の愛撫を…そして、祝祭を始めましょう」
マリーは、アンジュを芝生の上に、アリスの足元へと、そっと置いた。
芝生の上に降ろされたアンジュは、一瞬きょとんとしていたが、すぐに目の前に立つアリスに気づき、喜びの声を上げて駆け寄ろうとした。そのあまりにも無垢な反応が、アリスの胸を鋭く抉った。しかし、感傷に浸る時間は許されない。隣では、マリーが既に自らの秘部へと手を伸ばし、恍惚とした表情でアリスを見つめ、儀式の開始を促している。その瞳は「さあ、始めなさい。私に見せなさい」と雄弁に語っていた。
アリスは深呼吸をし、腹を括った。震える指で自身の秘唇に触れる。陽光の下で自慰を行うという背徳感と、これから行う行為への罪悪感、そしてそれら全てを凌駕する倒錯的な興奮が、アリスの全身を貫いた。彼女は、マリーの期待に応えるため、そして自分自身の暗黒面の欲求を満たすため、右足の白いパンプスをゆっくりと上げた。ピンヒールが太陽光を反射し、きらりと光る。
「まず、頭からですわ、アリス様」マリーの声が、熱っぽく響く。「その小さな頭蓋を、あなたの美しいヒールで貫くのです。思考も、記憶も、その愛らしい表情も、全て…無に帰して差し上げなさい」
アリスは、狙いを定め、アンジュの頭頂部目掛けて、ヒールを下ろし始めた。アンジュは、迫り来る白い凶器に気づき、怯えたように後退ろうとするが、アリスの左足が巧みにその動きを阻んだ。
「キャン!」
ヒールの先端が、柔らかい毛を掻き分け、皮膚に触れる。アリスは一瞬ためらったが、マリーの熱い視線と、自身の高まる快感に後押しされ、ぐっと体重をかけた。
プツリ。
鈍い音がして、ヒールが頭蓋骨を貫通した。アンジュが甲高い、断末魔の悲鳴を上げる。その瞬間、アリスの体にも激しい痙攣が走り、同時に自身の指の動きも激しくなった。
「ああ…あああああっ!!」
絶叫に近い喘ぎ声が、アリスの口から漏れた。足裏から伝わる、骨が砕ける感触、温かい血液と脳漿が噴き出し、白いエナメルと素足に飛び散る感覚。それらが、自慰による快感と混ざり合い、アリスを狂気の淵へと突き落とす。
「素晴らしい! なんて力強いの、アリス様! もっと! そのまま、ヒールを深く抉り、全てを掻き回して!」
マリーは、自身の快感を高めながら、アリスを煽る。アリスは、言われるがままに、ヒールをさらに深く捻じ込み、アンジュの頭部を内部から破壊していく。白いパンプスの先端は、もはや赤黒い液体と組織片で見る影もなかった。
アンジュの体は、数度痙攣した後、ぐったりと動かなくなった。しかし、儀式はまだ終わらない。
「さあ、次は、その柔らかい胴体を…あなたのパンプスの底全体で、感じなさい。内臓が破裂し、骨が砕け散る様を、あなたの足裏で味わい尽くすのです!」
アリスは、もはや理性を失い、ただマリーの言葉と自身の本能に従っていた。体重を移動させ、パンプスの底全体で、アンジュの体を芝生に押し付ける。ミシミシ、グシャグシャという生々しい音が、バラの香りに混じって響き渡る。芝生は見る見るうちに赤黒く染まり、パンプスの底の格子状の凹凸には、潰れた内臓、砕けた骨片、毛皮、そして泥や草が混じり合った、おぞましいペーストが詰まっていく。その確かな「踏み応え」と破壊の感触が、アリスの性的興奮を、これまでのどの儀式よりも激しく燃え上がらせた。
「アリス様! 私も…私も、もう我慢できませんわ…!」
マリーは、自身の絶頂が近いことを悟ると、アリスの隣に駆け寄り、自らの黒い革靴で、アンジュの亡骸をアリスと共に踏みつけ始めた。
「二人で! 一緒に! この命を、完全に消し去りましょう!」
白いパンプスと黒い靴が、並んで、狂ったように上下する。ヒールが突き刺さり、靴底がすり潰す。二人の荒い息遣いと喘ぎ声、そして肉と骨が破壊されるおぞましい音が、白昼のバラ園に響き渡る。互いの汗ばんだ裸体が触れ合い、興奮は極限まで高まっていく。
「「ああああああああっっっ………!!!!」」
太陽が真上から照りつける中、二人の絶叫が重なり合い、響き渡った。それは、破壊と創造、絶望と恍惚が混じり合った、究極のオルガズムの叫びだった。二人は、互いに支え合うようにして、その場に崩れ落ちた。芝生の上には、かつてアンジュと呼ばれたものの、もはや原形を留めない赤黒い染みと、おぞましく汚れた二組の靴、そして、あらゆる体液にまみれた二人の裸体が転がっていた。
どれほどの時間が流れたのか。太陽は少し西に傾き始めていた。アリスとマリーは、極度の興奮と疲労の残滓の中で、芝生の上に倒れたまま、ただ互いの存在を確かめ合っていた。周囲には、むせ返るようなバラの香りと、微かな血の匂いが混じり合い、奇妙に甘美な空気が漂っている。
やがて、マリーがゆっくりと身を起こした。その表情は、驚くほど穏やかで、満ち足りていた。
「…見なさい、アリス様」マリーは、自分たちの足元に広がる惨状を指差した。「これが、私たちの愛の形。私たちの証ですわ」
アリスもまた、ゆっくりと体を起こした。目の前の光景は、客観的に見ればおぞましい地獄絵図に違いない。しかし、今の彼女には、それが、二人だけの、血塗られた、しかし絶対的な愛の誓いの儀式に見えた。涙が、再び頬を伝ったが、それは悲しみではなく、全てを曝け出し、受け入れ合ったことへの、深い感動の涙だった。
「私たちは、もう何も恐れる必要はないのね…」アリスは、マリーの手を握りながら呟いた。
「ええ。私たちは、互いがいれば、それで完全なのですから」マリーは強く握り返した。「社会も、道徳も、神さえも、私たちの愛の前では無力ですわ。私たちは、二人だけの楽園を見つけたのですから」
二人は、見つめ合い、そして、深く、穏やかなキスを交わした。太陽の光が、祝福するかのように、二人の裸体を黄金色に染めていた。
その後、二人は、まるで神聖な儀式を終えた後のように、静かに、そして協力して後始末を始めた。アンジュの残骸を布に包み、マリーが持参していた袋に入れる。芝生についた血痕は、近くの土や落ち葉で、できる限り隠蔽した。完全には消せないだろう。このバラ園には、永遠に二人の秘密が、赤い染みとして残り続けるのだ。互いの体を、近くにあった古い噴水の、苔むした水盤に溜まった雨水で拭い清めた。それは、どこか原始的で、清らかな洗礼のように感じられた。
最後に、二人は、血と土と草で汚れた、それぞれの靴を拾い上げた。アリスの白いパンプスは、もはや白とは呼べないほどに汚れていたが、その汚れこそが、彼女が真の自己に到達した証のように見えた。マリーの黒い靴もまた、鈍い光沢の上に、生々しい赤黒さを纏い、彼女の揺るぎない愛と支配の象徴となっていた。二人は、その靴を、まるで
城へと戻る道すがら、二人の間には、穏やかで満ち足りた沈黙が流れていた。すれ違う人々は、彼女たちの内面で起こった、恐ろしくも決定的な変化に、気づく由もない。城壁の中へ戻ると、そこは依然として、偽りの平和と秩序に満ちた世界だったが、二人にとっては、もはや牢獄ではなかった。互いがいれば、どこであろうと、そこが二人だけの聖域となるのだ。
アリスの寝室に戻り、クローゼットの奥深く、秘密の場所に、汚れたままの白いパンプスと黒い靴を、寄り添うように並べて仕舞う。それは、彼女たちの歪んだ、しかし絶対的な愛の誓いの証として、永遠にそこに在り続けるだろう。
その夜、二人はアリスのベッドで、裸のまま寄り添い、穏やかな眠りについた。窓の外では月が輝き、遠いバラ園では、昼間の惨劇の痕跡が、夜の闇に静かに隠されている。彼女たちの未来が、平穏である保証はない。しかし、二人一緒ならば、どんな運命も受け入れられるだろう。そして、必要ならばいつでも、あの忘れられたバラ園を訪れ、あるいは新たな祭壇を見つけ、二人だけの秘密の儀式を繰り返し、その歪んだ愛を確かめ合い、燃え上がらせるのだ。
白百合は、陽光の下で真紅に染まり、そして枯れることなく、二人だけの楽園で、永遠に咲き続ける道を選んだ。白と黒の靴が奏でた倒錯の輪舞曲は、破滅ではなく、二人だけの歪んだ幸福な結末へとたどり着いた。彼女たちの物語は、ここで一つの完成を見たのだった。これ以上の結末は、彼女たちにはあり得なかった。
姫君の秘密 写乱 @syaran_sukiyanen
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