第2話 暴かれた秘密
いつものように、アリスは古びた物置から姿を現した。埃と黴、そして微かな血の匂いを纏いながらも、その表情には倒錯的な満足感が浮かんでいる。純白のミニフレアドレスの裾を軽く払い、何食わぬ顔で薄暗い廊下に出た瞬間、彼女は息を呑んだ。すぐそこに、侍女のマリーが立っていたのだ。その手には、アリスが頼んでもいないお茶のセットが乗せられている。
「アリス様、こちらにいらっしゃったのですか? 少し探しましたのよ」
マリーは穏やかに微笑んでいる。しかし、その目はアリスの足元、真っ白なエナメルのパンプスに注がれていた。今日の「儀式」は特に念入りだった。数匹のネズミと、予想外に多く現れたゴキブリを、ヒールの先端と底で執拗にすり潰した。その結果、パンプスはこれまで以上に汚れていた。表面は拭ったものの、靴底の格子状の溝には、赤黒いペースト状のものがべっとりと詰まっている。
「ええ、少し…考え事をしていただけよ」
アリスは動揺を悟られまいと、必死で平静を装った。足元を見られないように、さりげなく体をマリーに向け、壁際に寄る。
「まあ、アリス様、その靴…!」
しかし、マリーの声は驚きに染まっていた。アリスが隠そうとした動きが、逆にマリーの注意を引いてしまったのだ。マリーの視線は、アリスのパンプスの靴底に釘付けになっている。それは明らかに、ただの泥汚れではなかった。生々しい赤黒さと、格子に詰まった異様な物体。それは、何かを踏み潰した痕跡以外の何物でもなかった。
「ああ、これは…少し庭で汚してしまって」
アリスはしどろもどろに言い訳をしたが、マリーの表情は晴れない。むしろ、疑念の色が深まっている。
「庭、ですか…? このような汚れがつく場所が、庭にありましたでしょうか…?」
マリーの声は震えていた。彼女は城の地理を熟知している。そして、アリスが今出てきたのが、誰も近づかない、埃っぽい物置であることを知っていた。物置で、このような汚れがつくとしたら…。まさか。
「…大丈夫よ、マリー。少し休めば平気だから」
アリスはマリーの横をすり抜けようとした。しかし、マリーは無意識にか、アリスの腕を掴んだ。
「アリス様、本当に、大丈夫でございますか? 何か、隠していらっしゃいませんか?」
マリーの真剣な眼差しに、アリスは心臓が凍りつくのを感じた。まずい。見られた。そして、疑われている。これ以上ここにいては、ボロが出るかもしれない。
「…離してちょうだい、マリー。少し疲れているの」
アリスは、やや強い口調でマリーの手を振り払った。そして、早足でその場を去った。カツ、カツ、と響くヒールの音が、焦りと恐怖を物語っているようだった。
残されたマリーは、アリスが消えた廊下の先と、アリスが出てきた物置の扉を、交互に見つめていた。姫君の異常な様子。そして、あの靴底の、禍々しい汚れ。まさか、あの物置の中で、アリス様が…? いや、そんなはずはない。清らかで、心優しいアリス様が、そんなことをするはずがない。しかし、疑念の種は、マリーの心に深く根を下ろしてしまった。確かめなければ。マリーは固く決意し、お茶のセットを近くの台に置くと、意を決して物置の扉に手をかけた。
軋む音を立てて、物置の扉が開く。中は薄暗く、埃っぽい空気が淀んでいた。マリーは恐る恐る足を踏み入れる。床にはがらくたが散乱し、壁際には古い麻袋や木箱が積まれている。そして…。
マリーは、息を呑んだ。床の数か所に、明らかに新しい、赤黒いシミが点々と付着している。それは、アリスのパンプスの底についていたものと、同じ色をしていた。そして、そのシミの中心には、何かを激しく踏みつけ、すり潰したような痕跡があった。目を凝らすと、小さな毛皮の欠片や、黒光りする虫の脚のようなものが見える。
「…嘘…」
マリーは口元を押さえた。吐き気が込み上げてくる。これは、間違いなく、ネズミやゴキブリを踏み潰した跡だ。それも、一度や二度ではない。執拗に、何度も、原型がなくなるまですり潰されている。こんな残酷なことを、あの清楚なアリス様が? 一人で?
さらにマリーは、アリスが先ほど腰かけていたと思われる木箱の周りを入念に調べた。すると、木箱のすぐそばの床に、小さな白いリボンが落ちているのを見つけた。それは、アリスがいつも髪を結んでいる、純白のリボンと同じものだった。なぜ、こんなところに?
そして、マリーはある可能性に思い至り、全身の血の気が引いた。アリス様は、この場所で、ネズミを踏み潰しながら…? いや、それだけではないかもしれない。あの時のアリス様の、妙に上気した表情、乱れた呼吸。もしかして、この残酷な行為に、性的な興奮を覚えていた…? ドレスの下は、もしかして…。
そこまで考えた瞬間、マリーは立っていられなくなり、その場にへたり込んだ。敬愛する姫君の、信じられない秘密。清楚な仮面の下に隠された、暗く、歪んだ性癖。マリーは混乱し、恐怖に打ち震えた。しかし、同時に、心のどこかで、別の感情が芽生え始めていた。それは、好奇心。そして、アリス・サザーランドという完璧な存在の、弱みを握ってしまったという、黒い優越感だった。
(どうしよう…このことを知ってしまった…)
マリーはしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。リボンを拾い上げ、スカートのポケットにしまい込む。床の惨状から目をそらし、静かに物置を出た。そして、何事もなかったかのように、自分の仕事に戻った。だが、彼女の心の中は、もはや以前と同じではなかった。
その夜、アリスは自室で落ち着かない時間を過ごしていた。マリーに見られた靴底。彼女の疑いの眼差し。もし、あの物置を調べられたら…。考えただけで、全身から血の気が引く思いだった。全てが終わってしまう。築き上げてきた何もかもが、崩れ去ってしまう。
コンコン、と控えめなノックの音。
「…誰?」
「マリーでございます、アリス様」
アリスの心臓が大きく跳ねた。来た。恐れていた瞬間が。
「…入りなさい」
震える声で許可を出すと、マリーが静かに入ってきた。その表情は硬く、いつもの柔和さは消えている。手には何も持っていない。
「アリス様、少し、お話が」
マリーはそう言うと、部屋の扉に鍵をかけた。アリスは息を呑んだ。
「マリー、何を…」
「今日、あの物置を拝見いたしました」
マリーは単刀直入に切り出した。その言葉は、アリスにとって死刑宣告のように響いた。
「……!」
アリスは言葉を失い、顔面蒼白になった。マリーは続けた。
「床の汚れ、そして…これを」
マリーはポケットから、あの白いリボンを取り出した。アリスは、それが自分のものだとすぐに分かった。いつ落としたのだろう。
「マリー、違うの、あれは…」
「何が違うと仰るのですか?」
マリーの声は冷たかった。
「あの惨状を見れば、全てわかります。アリス様が、あの場所で何をなさっていたのか。そして、おそらく、どのようなお気持ちで…」
マリーの視線が、アリスの体を射抜くように見つめる。アリスは、もはや隠し通せないと悟った。
「…お願い、マリー…誰にも言わないで…!」
アリスはベッドの前に崩れ落ち、マリーの足元にすがりついた。涙ながらに懇願する。
「お願いだから…! もしこのことが知られたら、私はもう生きていけない…! 父上にも、国民にも、合わせる顔がない…!」
必死に訴えるアリスの姿は、哀れだった。いつも気高く、完璧だった姫君が、今は一人の侍女の前で、尊厳も何もかもかなぐり捨てて許しを請うている。
マリーは、足元で泣きじゃくるアリスを、冷めた目で見下ろしていた。憐憫の情は、もはや欠片も感じなかった。代わりに感じていたのは、圧倒的な優越感と、この状況を支配しているという全能感だった。この国の光である姫君が、今や自分の意のままになる。その事実に、マリーは打ち震えるほどの興奮を覚えていた。
(この方は、もう私のものだ…)
「…わかりました、アリス様」
マリーは、ゆっくりと言った。
「誰にも申し上げるつもりはございません。ただし…」
マリーは言葉を切った。アリスは、希望の光が見えた気がして、顔を上げた。
「ただし?」
「私の言うことを、何でも聞いてくださる、とお約束してくださるなら」
マリーの唇に、微かな、しかし残酷な笑みが浮かんだ。アリスは、その笑みの意味するところを悟り、絶望に顔を歪めた。しかし、彼女に選択肢はなかった。
「…わかったわ…約束する…だから、お願い…」
アリスは、震える声で答えるしかなかった。力関係は、この瞬間、完全に入れ替わったのだ。
その日から、アリスの密やかな愉しみは、マリーによる屈辱的な支配の道具へと変貌した。二人きりになると、マリーは遠慮なく本性を現した。
「アリス様、今すぐここで、ご自身を慰めてくださいませ」
最初は、アリスの自室で、マリーが見ている前で自慰を強要することから始まった。アリスは羞恥と屈辱に震えながらも、逆らうことができなかった。マリーは椅子に座り、冷たい目でアリスの一部始終を観察する。
「もっと、声を出しなさい」
「もっと、いやらしい顔をなさい」
マリーの命令は、次第にエスカレートしていった。アリスは涙を流しながらも、言われるがままに従うしかなかった。奇妙なことに、その屈辱感自体が、アリスの中に新たな、歪んだ興奮を引き起こしていることにも気づき始めていた。
次にマリーが目をつけたのは、アリスの「儀式」そのものだった。
「物置へ行くのでしょう? 今日は私もお供いたしますわ」
マリーは、アリスが物置でネズミを踏み潰す様子を、すぐそばで観察することを要求した。そして、その殺し方にも、口を出すようになった。
「あら、アリス様、そんなに早く終わらせてはつまらないではございませんか」
「もっとゆっくり、ヒールの先で弄ぶように…そう、苦しむ姿をよくご覧なさい」
「今度は、靴底全体で、ぐりぐりと…骨の砕ける音を、よくお聞きなさい」
マリーは、まるで演劇の演出家のように、残酷な指示を次々と与えた。アリスは、マリーの嗜虐的な要求に応えながら、罪悪感と、そしてマリーの命令に従うことへの倒錯した快感に身を震わせた。白いパンプスは、以前にも増して、赤黒く汚れていく。
そして、ある夜、マリーはさらに過酷な要求を突きつけた。
「アリス様、今宵は、そのドレスをお脱ぎなさい」
「え…?」
「全てですわ。下着も。そして、このパンプスだけをお履きになって、物置へいらっしゃい」
マリーは、アリスが昼間に履いていた、汚れたままの白いパンプスを差し出した。全裸に、ヒールパンプスだけ。その格好で、あの薄暗い物置へ行き、ネズミを踏み潰せというのだ。
「そんな…! マリー、あんまりだわ!」
アリスはさすがに抵抗しようとした。しかし、マリーは冷ややかに言い放った。
「お嫌ですの? では、今すぐ国王陛下にご報告に上がりましょうか? アリス様の、その素晴らしい『ご趣味』について」
その言葉に、アリスは全ての抵抗力を失った。震える手で、ドレスを脱ぎ、下着を外し、マリーに差し出された汚れたパンプスを素足に履いた。全裸の白い肌に、エナメルのパンプスだけが異様な存在感を放っている。羞恥で顔を上げられないアリスを、マリーは満足そうに見下ろした。
「さあ、いらっしゃいませ、アリス様。今宵の獲物が、お待ちかねですわ」
マリーに促され、アリスは全裸にヒールという屈辱的な姿で、夜の城の廊下を歩き、物置へと向かった。冷たい床の感触が、素足の裏以外の全身に伝わってくる。誰かに見られたら終わりだという恐怖と、極度の羞恥心。そして、その状況自体がもたらす、抗いがたい興奮。アリスの心は、完全にマリーに支配されていた。
物置の中で、マリーはアリスに、いつも以上に残酷な方法でネズミを踏み潰させた。全裸の姫君が、白いヒールで必死に小さな命を嬲り殺す姿を、マリーは恍惚とした表情で見つめていた。アリスの恥辱に歪む顔、涙、そして喘ぎ声。それら全てが、マリーのサディスティックな欲求を掻き立て、満たしていく。マリーは、姫君を辱めることで得られる快感に、完全に酔いしれていた。自分の中に、これほどまでの加虐的な喜びが眠っていたことに、マリー自身も驚き、そして興奮していた。
アリスを支配し、辱めることに歓びを見出したマリーだったが、やがて彼女の中に新たな欲求が芽生え始めた。それは、見ているだけでは物足りない、という渇望だった。アリスがヒールでネズミを嬲り殺す姿、その時のアリスの表情、そして、踏み潰される瞬間の音と感触…。それらを、自分自身で体験してみたい、という強い衝動。
ある日、物置での「儀式」の最中、マリーはついにその衝動を抑えきれなくなった。アリスが、マリーの命令通り、白いヒールの先端でネズミをいたぶっている時だった。マリーの視線は、アリスの足元ではなく、壁際を走り抜けようとする別の、小さな黒い影に向けられた。
(私も…やってみたい…)
その思いは、もはや抑えがたい欲求となっていた。マリーはアリスに命令する代わりに、自ら一歩前に出た。アリスはマリーの突然の動きに驚き、ネズミをいたぶる足を止めた。
マリーは、壁際に逃げ込もうとしていたネズミの進路を塞ぐように、静かに足を置いた。彼女が履いているのは、アリスの華奢な白いエナメルパンプスとは違う、侍女としての実用的で飾り気のない、黒革の低いヒールの靴だった。それは日々の勤めのために頑丈に作られているが、今はそれがマリー自身の、初めての凶器となろうとしていた。
マリーの心臓は激しく高鳴っていた。恐怖と、期待と、そして未知の快感への予感。彼女は息を吸い込み、そして、自らの靴を履いた足を、躊躇なく振り下ろした。
ゴツン、という鈍い音。
そして、硬い革靴の底が、抵抗する何かを押し潰す圧力が、彼女の足裏に直接伝わってきた。アリスの鋭いピンヒールが貫き、切り裂くのとは違う、もっと鈍重で、しかし確実な破壊の感触。ネズミの小さな体が、マリーの体重のかかった靴底の下で、ぐしゃりと音を立てて潰れていく。
「……ぁ……っ!」
マリーの口から、声にならない声が漏れた。それは、驚きと、嫌悪と、そして何よりも、強烈な快感の発露だった。足裏から伝わる、生々しい感触。小さな命を、自分の足で、いとも簡単に消し去ってしまったという事実。それが、マリーの中に眠っていた、暗い獣性を呼び覚ました。
「…もっと…」
マリーは、無我夢中で、さらに体重をかけた。靴底で、何度も、何度も、ネズミの残骸を床に擦り付ける。黒い革靴の底も、当然のように赤黒い体液と肉片で汚れたが、マリーは構わなかった。その汚れさえもが、彼女の興奮を高めているようだった。
アリスは、そのマリーの豹変ぶりを、呆然と見つめていた。自分を支配し、辱めていた侍女が、今や自分と同じ、いや、それ以上の残酷な喜びに目覚めてしまった。アリスの白いパンプスではなく、マリー自身の黒い靴で。それは、マリー自身の内から湧き上がった衝動であることを示していた。その事実に、アリスは恐怖と同時に、奇妙な連帯感のようなものさえ感じていた。
マリーは、完全に形がなくなるまですり潰すと、ようやく足を上げた。靴底は、言うまでもなく、ひどい有様になっている。しかし、マリーの表情には、嫌悪感はなく、恍惚とした、深い満足感が浮かんでいた。
「…素晴らしい…これが…」
マリーは、恍惚と呟いた。初めて知る、直接的な破壊と支配の快感。それは、アリスを辱めることとはまた違う、もっと本能的で、強烈な悦びだった。
マリーは、アリスに向き直った。その目は、以前の冷たさとは違う、熱を帯びた光を宿している。
「アリス様、これからは、二人で楽しみましょう?」
その言葉は、もはや命令ではなかった。共犯者への、誘いの言葉のように響いた。アリスは、マリーの瞳の奥に、自分と同じ暗い炎が燃え盛っているのを見た。
もはや、主従関係だけではない。二人は、血と快楽と背徳で結ばれた、共犯者となったのだ。物置の暗闇の中で、一組の白いパンプスと、一組の黒い靴が、これからさらに多くの小さな命を弄び、踏み潰していくことになるだろう。そして、その度に、二人の絆は、歪んだ形で、より深く、強く結びついていくのかもしれない。白百合の姫君と、その侍女。二人の秘密の輪舞曲は、新たな、より暗い楽章へと進んでいくのだった。
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