第2話 日常と異常
「咲空、遅刻するよ!」
襖を開け放ちながら声をかけると、案の定、布団の山はぴくりとも動かない。
夏の朝の空気はすでに熱を帯びているのに、この弟はよくまあ平然と眠れるものだと、柳は呆れを通り越して感心すらしていた。
何度目だろう、この光景。
寝ぐせもそのままに、ようやく咲空が頭をもぞもぞと出してくる。
「ったく、朝からこれかよ……」
文句だけは一丁前。
でも、その声が返ってくると、なんとなく安心する。ちゃんと今日も、あの場所へ向かわせられるという確信。
柳は何も言わずに背を向けた。廊下に出て、声のトーンを切り替える。
「さて……咲空は起こしたし、八手――起きろー!」
襖の向こうで妹の八手がまどろむ気配を感じながら、咲空のことが頭から離れなかった。
背中越しに、ぼそりと声が届く。
「今日もまたオカルト研究会かよ……」
玄関から出ていく声に柳は聞こえないふりをした。
高校を卒業している私は、研究会には行けない。でも――咲空だけは、行かなきゃならない。
オカルトを否定する咲空には、せめてあの日の側面の一端だけでも知ってほしいから。
今さらあの日のことを説明する気もないし、謝る気もなかった。
ただ、今日もちゃんと足を向ける。それで、いい。
八手の部屋の前に朝食を置いて、柳は小さく背伸びをした。
「さて、今日も宇宙人を探すか!」
気合いを入れるように声を出したが、自分でもその無理やりな明るさに少し苦笑してしまう。どこか空元気。それでも、何かが起こる予感はしていた。
ふと視線を上げると、森の上空を走る光の筋が目に飛び込んできた。煌めく謎の光が、静かに、けれど確かな速さで森の奥へと吸い込まれていく。
「え?あれって!?」
瞬間的に胸が高鳴り、柳はためらうことなく玄関へと駆け出した。扉を開けると、熱気と蝉時雨が全身を包み込む。じりじりと照りつける太陽の下、非日常がすぐそこにある気がして、彼女の足は自然と動き出していた。
――重い。あまりにも。
機体が地表に激突した瞬間、制御装置の全警告音が同時に鳴った。空気の振動。重力のねばつき。熱気と水分を多く含んだ酸素層。すべてが「青の惑星」――地球の過剰さを物語っていた。
ムーンライト・デュランバルは、操縦席から這い出るようにして外に出た。森。濃い緑の植物がうねるように密集し、奇妙な昆虫音が周囲を満たしている。空は青く、太陽は容赦なく彼の仮初めの皮膚を灼いた。
「……想定より青の惑星は重力が強かったようだ……小型宇宙船では帰ることが出来ないな……」
通信装置は沈黙したままだ。救難信号も、ここでは銀河域には届かない。
しかし焦りはなかった。彼は冷静にキューブを起動し、擬態スーツを展開する。地球人類の平均体格、発声器官の位置、言語パターン。滞在中に収集した断片的な情報を統合し、スーツとの差異を再度確認する。
「問題ないな……擬態や言語習得はしっかりした。調査を優先するか……」
風が吹き、森の梢がざわめいた。彼は視線を空へ向ける。遥か彼方に帰還の星がある。だが今は、調査任務が優先だ。
ムーンライト・デュランバルは、人間の歩行速度に調整された動作で森の外へと足を踏み出した。
全身黄色のティキル人……地球人と微妙にかけ離れた姿のまま――
その背後では、半壊した宇宙船の残骸と青く光る箱が、夏の陽光にきらりと反射していた。
「……あー、ちょっとお兄さん?通報受けて来たんだけど、どうしたの、そんな格好で?」
森の木々を抜けた瞬間、黒い服を着た地球人が目の前に現れ、声をかけてきた。性的種別は男か。
ムーンライトは、ぴたりと動きを止めた。
きょとんとしたまま、その人物を観察する。体温の分布、心拍、声の音階――おそらく地球人の中でも「威圧的役職」に該当する存在。
「恰好? これが“正装”であると聞いたが?」
彼は丁寧に答えたつもりだった。だが、相手の眉間のしわはさらに深まる。
「どこの部族の風習ですか!?ここ日本だよ?酔ってる?」
“部族”という語彙の使用に、ムーンライトは軽く困惑した。地球人は内部的に文化的な区分を持っているらしい。
そして「酔ってる」という表現――これは脳神経に影響を及ぼす液体の摂取状態を指す。彼はそれを否定した。
「酩酊なし。精神状態は正常範囲内。ヴァトボレ調査機構第3調査団所属。職務は調査任務」
地球人の手が胸元の小型通信端末へ伸びる。
ムーンライトは「敵意反応の可能性あり」と判断し、掌を開いて掲げた。
「……なるべく友好的でいたい。可能な限り質問にも応じよう」
「……なあ、それ、全裸って自覚ある?」
ムーンライトの思考が、数秒だけ静止した。
(全裸……?)
彼は自らの身体を確認した。黄色の保護膜スーツ。光学迷彩加工こそないが、生体防御力は充分。露出部位もなし。
だが――データベースに“羞恥”という感情に紐づく衣類の存在を思い出した。
(……まさか。擬態対象が求めるのは“布”なのか……?)
身体の一部を“布片”で覆い隠す文化を持つ種族がいた。
それは単なる保温のためではなく、社会的な意味を帯びた行為だったはずだ。
(しまった……完全なスキンスーツでは、彼らにとって“裸”と誤認されるのか……!)
「誤解だ。私は全裸ではない!これは被覆機能を持つ外皮スーツでティキル……ティキル人ではないのか!?」
「ティキル人!?言い訳っぽいけど裸にしか見えないから!!えー10時43分!公然わいせつの現行犯で逮捕します!」
(……まさか、これは任務失敗の兆候か?)
その瞬間、彼の任務難易度が静かに、そして劇的に上昇した。
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