16

 静音の部屋の入り口は、引き戸になっている。


 部屋の名前を《雪》といい、九曜家にある多くの客室の中でも、特に格の高い部屋だ。


 履き物を脱ぐたたきは天然石の一枚板を使用し、下足箱の上には、季節の花が活けられている。


 入ってすぐの部屋が応接間、その奥に、滞在者の食事用の部屋、居間、寝室と続く。居間には、滞在する部屋に相応しい香、若しくは滞在者の好む香が焚かれ、空気に清浄な気配を足す。


 寝室の脇には洗面室、更にその脇の戸の向こうには、檜の湯殿があり、湯殿に外から直接で入りできる掃除用の出入り口があった。この出入り口は、掃除の世話だけでなく、高貴な客人の身の回りの世話をする職員の出入り口でもあった。高貴な客の中には、湯殿に入って出るまでの間、指一つ動かさない者もいて、《神木の巫女》などはそういった客の一人だ。


 そうはいっても、静音の場合は、自分の身支度はすべて自分で行うから、この通用口を九曜家の職員が使うのは、湯殿の清掃の時だけだったのだが。


事は、静音は粥が主の朝食を終え、下げ膳に立ったときに起きた。


普段は静音に供される朝の献立には、主菜が付かないのだが、今朝は良篠が見立てた主菜が四点付いていた。その小鉢を綺麗に重ね、お膳を出入り口にまで運びだそうとしていた――無論、他の《神木の巫女》はそのようなことはしない――時のことだ。


「失礼致します。昨夜ご挨拶しそこねた者を連れて参りました。少し、よろしいか?」


 昨夜、挨拶に来た日色兄弟の兄の声だった。静音は少し考えて、名前を思い出す。


「……響様、でしたね。お入りください」


 響が戸を開けると、お膳を持った静音が立っていた。


「お膳がどうかなさいましたか?」


「いえ、食べ終わったので、下げて頂こうと思いまして」


 繰り返しだが、《神木の巫女》は自身の食べた膳など下げたりはしない。日色兄弟でさえ、膳を下げるのは、使用人の仕事だと考えている。


「なるほど。お膳を下げたい、ということですね。これは申し訳ない。配膳係を叱っておきましょう」


「……え? なぜですか?」


 思いもしなかった日色の言葉に、静音は驚いた。


「食事が終わって膳を下げに来るのは、配膳係の仕事ですから。下げるタイミングが遅いというのであれば、それは職務怠慢、ということになりますから」


「いえ、食べ終わったのは、今さっきで、こうして戸口近くに置いておけば、配膳係さんが下げやすいかな、と思って。それで配膳係の方が叱られるなら、困ってしまいます」


 つまり、下げ膳の遅さに見かねたわけでなく、自ら進んで膳を下げようとしたというのである。


「お台所が付いていれば、食器を洗ってお返しするんですけど、給湯設備しか、この部屋にないので、それもできなくて。食器洗い用のスポンジを持ってこれば良かったかなとか思っています」


 響は目眩を覚えた。


 これが、《柊》の《神木の巫女》。格で言えば、九曜家直系の長女・美鏡や長男・剣と同格なのだ。それが、下げ膳の食器洗いを気にしているのである。


――柊家は、どういった家なんだ?


「そ、それは、不自由をおかけして申し訳ない」


 なにかが違うと考えながら、響は言葉を続けた。


「ただ、食後の膳は、そのままにしておいて頂いて結構。そのうち配膳係が下げに来ますから」


 予想外の状況に響と奏が絶句しているその後で、叶省吾は、笑い出すのを必死で堪えていた。


『百合ヶ丘女子の校訓は、良妻賢母なので、家事はすべてできるんですよ』


 高校生の時に、静音が誇らしげに言っていた言葉だ。


『自分のこともできずに、神木のお世話だけはできる、っていうのは少し不思議なんですよね』


 静音は、《神木の巫女》だ。だが、どこへ出しても恥ずかしくない程度には、しっかりと家事を仕込まれ、躾られた女性でもある。


『出来損ないの《神木の巫女》だから。いつ「お前は《神木の巫女》から降ろす」って言われてもいいようにしておかなきゃって考えてるの』


もし。


 そうなったなら、どういう未来が待っているのか、二人は核心に触れず話したことがあった。静音は、お母さんになりたい、そして子どもの洋服を作りたい、と。お弁当を作って旦那様に持たせたいとも。


 結局、静音は《神木の巫女》から降ろされることもなく、長野へ帰っていった時、その夢の時間は終わったのだ。


 それでも、静音は家事を続けているらしい。柊家は静音を維持するために、静音の強い要求は全て通しているだろうから、その常識外れな行動も追認されているだろう、ということは、内情を知っている省吾には想像に難くない。


 しかし、響たちにとってみれば、天変地異を目の当たりにしているようなものだった。いや、天変地異の方がマシかも知れない。そういった怪異ならば、九曜家に所属していれば一つや二つ当たり前のように遭遇しているからだ。


「スポンジ……ですか」


 響は抜かれそうな毒気を、意志の力で取り戻すべく、かすかに首を振った。今はその話をしに来たわけではない。


「さて、本題に入らせて頂きますが、よろしいか?」


 静音が戸口に置こうとした膳を廊下に置くと、手前の居間まで戻ってくる。


 それから流れるように自然に、静音が今度は席に着いた響たちに茶を出そうとするので、それも止めて、話に入った。


「こちらの者が、昨夜道場でお目にかけたかとは存じますが、九曜の《要》が《戊》、叶省吾」


「《戊》叶省吾と申します。以後、お見知りおきくださいますよう」


 省吾は、硬く、型どおりの挨拶をする。


「そうですか。昨夜は、日色様方にもそうですが、見事なお手合わせをお見せくださって、ありがとうございます。私は、柊家が《神木の巫女》、柊静音と申します。以後、お見知りおきを……」


 静音も、型どおりの挨拶をする。


 ここは、知り合いであることを表に出しては決してならない。それくらいは、静音にもわかる。


「お三方とも、惚れ惚れとするような、見事なお身裁きでした。さすがは、九曜ですね」


――社交辞令だって、きちんと言える。


 静音は心に決めた。ここでボロを出すわけにはいかないと。


 自分が風変わりな《神木の巫女》だということは、静音も自覚がある。でも、何事も周囲の者に身を任せて、ただお勤めをするだけの存在に静音はなりたくなかった。


 だから、九曜家でも自分が正しいと思ったことを通す。それを笑われたとしても、静音は気にしない。既に十七の時に、出来損ないの《神木の巫女》として由木家に預けられているのだ。それを越える恥など、一つを除いて静音にはない。静音にとっての恥は、省吾の足を引っ張ることだけだった。


「そうそう、これは《戊》から聞いたことですが、静音様とこの《戊》はご面識がお有りだとか」


 響は、奏に言っていたように、静音に聞いた。それを静音は涼しげに受け流す。


「ええ。随分幼い頃のお話かと存じますが。叶様のお名前を伺うまで気が付きませんでした。失礼致しました」


 静音は、省吾に会釈をする。ここは、百合ヶ丘女子校の校舎内とは違う。能力を使えば、すぐにそれが露見するし、周囲はぼんやりした女子高生ではなくて、戦闘訓練を積んだ《要》ばかりだ。特に、昨日の手合わせを見せられて、油断はできないと静音は思ったのだ。


 この後も、裏が取れるような情報は一切出てこなかった。省吾と静音が口裏を合わせた形跡もない。響も奏も引き下がるしかなかった。


 三人を見送って、静音はどっと疲れが出た。


――省吾さん、立派になってたな……。


 最後に別れてから七年。


 二人の仲立ちをしてくれる互いの友人を介しての遣り取りも、頻繁だったのは最初の一年ほどだった。やり取りを控えた理由、それは仲介者の負担と、秘密の露見を恐れてのことだった。仲介をしてくれた白河と古永は構わないと言ってくれてはいたのだが、白河が正式に高倉議員の令嬢と婚約をし、古永が留学をしたことも契機となった。


そのあとは、他の《神木十家》への季節の挨拶に混ぜてのことだけになった。


 静音は、省吾が座っていた当たりをじっと見ていた。省吾は、静音と視線を合わせることはなかった。それでも、省吾の姿を間近で見られた、それで静音は満足だったのだ。

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