第11話 眷属

紫音は資料をにらみつけるように睨みながら、ペンをくるくると指で回していた。紅獣学――試験範囲は広くて地味に難しい。分類、生態、紅核器の位置や特徴、戦闘行動の傾向……正直、実技よりよっぽどめんどくさい。


「なあ紫音、分類のとこ、ちゃんと押さえてるか? 今回もたぶん“変異段階ごとの行動特性”出るで」


隣から声をかけてきた藤森は、相変わらず茶髪を指でいじりながら、悪びれもなくプリントをのぞき込んできた。


「覚えてるわ。幼体、幼成体、成体、成熟体、完全体の五段階。吸血鬼が注入した血液とエネルギー量で段階が進むんだろ」


「おお、ちゃんとわかってるやん。……じゃあ、量産型と希少種の違いは?」


「難易度と、個性の強さ。量産型はだいたいどの吸血鬼でも作れる基本形。希少種になるほど、造った吸血鬼の特性が色濃く出る。見た目も能力もバラバラで、完全に一点モノになる」


「せやな。吸血鬼本人の相性とか血液因子の質まで反映されるし、“癖”が強いって言われるやつや」


「でも癖が強いぶん、こっちの戦い方に合わせられるってことでもある。扱いにくいけど、強い」


「完璧やん。さすがは楓ちゃんに勝った男や」


「勘弁してくれ。いつまで言ってんだ」


紫音はムッとした顔で言い返し、プリントをバサッとめくった。そこには、紅獣の臓器配置図が印刷されている。各種の生体構造の違いが、細かい線画でびっしり並んでいた。


「これ、鳥型だけ紅核器の位置が背中側にあるんだよな。やや上方、肩甲骨の間」


「そうやね、だから頭狙うとかわされやすい。しかもこの前みたいに火吐いたりもするから、遠距離戦が地味にやっかいなんや」


「よく覚えてんな、お前」


「紅獣学、地味に好きでな。性格出るやん、動きに。まあ、その調子で頑張らんと“眷属化実技”出られへんから気をつけな」


「……わかってるよ、だから今やってんだろ」


紫音は若干語気強めに言い返し、ペンの回転を止めた。そのままページをめくり、注釈の欄に赤線を引いていく。


「幼体に血液注入して紅獣化させるなんて、普通の訓練じゃまず経験できへんからな。観察とかじゃなくて、自分でやれる貴重な実技や。落としたらもったいなさすぎる」


「分かってるって。……絶対落ちねぇよ」


「その意気や。じゃあ次は紅核器の構造な。図入りで覚えんと意味ないやつ」


「はあー……しんど」


紫音はため息をつきながら、真剣な目でプリントを見つめていた。



 * * * * *



翌週。


「近づくな。幼体とは言え、こいつらも紅獣だ」


 開口一番、黒づくめの教官が言い放った。目元に深い皺を刻んだ無愛想な男で、袖口に刺繍されたHILのエンブレムがやけに目立っている。


「……まあ、今は俺の支配下にある。十分な血液も与えてるし、基本的にはおとなしくしてるはずだ……“はず”だがな。調子乗って手出すと、指の一本くらい持ってかれるぞ。」


 柵の向こう、幼体の紅獣たちがぬらぬらと赤黒い皮膚を蠢かせている。紫音が配属初日に戦った相手と同じ種のようだが、あの時に比べ数段おとなしいように見える。


 第一班の訓練生たちがざわつく中、藤森が紫音の横に立ち、小声で話しかけた。


「前、この実技の説明あったとき、紫音と椎名さんだけおらんかったやろ。俺、てっきり落としたんか思ったで」


「……ギリギリだっただけだし。あのあと、つきっきりで補講と説明受けたんだよ」


 紫音は面倒くさそうに頭を掻いた。補講教官の話は長かったし、同じこと何度も言われたし、最終的には軽く叱られたし……思い出すだけで気が重い。


「そこ、静かにしろ」


 教官の声が飛んできた。反射的に背筋を伸ばす二人。


「すんません」


 気まずさにちょっと目を合わせて、すぐに視線を前に戻す。柵の中では、紅獣の一体がのそのそと立ち上がった。


「では実演に入る」


 教官の声に、全員が再び視線を向ける。教官は柵の鍵を外し、幼体の紅獣の前に立った。


「紅刃を幼体に刺し、血液を注入する。先端から液状化させた紅刃を流し込む感覚だ。圧をかけすぎれば暴れるし、浅ければ反応しない。感覚は自分で掴め」


 そう言って、教官は手元に紅刃を展開する。鮮紅色の光が刃先にきらめき、そのままぬるりとネズミ型の幼体の脇腹に突き立てられた。


 ――ジュルッ。


 何かが混ざり合うような音がしたかと思うと、幼体の紅獣が震え、皮膚が泡立つように膨らみ始めた。骨が軋むような音を立てながら、小型だったそれはみるみるうちに大きく、獰猛な姿へと変貌する。


 背中に骨質のトゲが生え、目が爛々と紅く染まっていく。最終的には、二足歩行に近い姿勢を取る、まるで小型の恐竜のようなシルエットになった。


「これが眷属化だ」


 教官が言う。紅獣の変化を前に、第一班の訓練生たちがざわつく。


「とはいえ、すぐにできるようになるものではない。紅刃に血液を通すこと自体は誰にでもできるが、眷属化させられるのはごく少人数だ。適性の問題だな」


 藤森が反応する。


「努力次第でなんとかできるもんじゃないてことですか?」


「そういうことだ。眷属化は“別の才能”だ。変体能力の強さとも相関がない。実際、前線でも眷属を使うヒルは極めてまれだ。トップクラスでも数人いるかいないか。使えなくて当たり前と思っておけ」


 そう言い切った教官は、一拍置いてから口角をわずかに上げた。


「……まあ、物は試しだ。紅獣学で学んだはずだな?今日はお前らの才能があるかどうかを確認するだけだ。もしあれば――結果はすぐに出る」


 ざわめく生徒たちを一瞥し、教官は柵の内側を顎で示した


 「少なめに入れてみろ。暴走のリスクも低い」


 教官の言葉に、第一班の訓練生たちが互いに視線を交わしながら戸惑う。誰が最初に行くべきか、決めかねているようだった。

 その空気を壊すように、椎名梨湖がガツンと足を鳴らして前に出る。


「んっだよ、誰もいかねーの? まったく、できるかどうかってだけの話じゃん。やってやるわよ」


 金髪ショート、褐色肌に鋭い目。腰に手を当てて、堂々とした態度。だが、その目はしっかりと紅獣を見据えている。


「梨湖ちゃん、ちょっと待って……!」


 後を追うように柏木がついていく。どこか控えめで真面目な柏木は、椎名に振り回されつつも、信頼を寄せている様子だった。


「早く来なさいっての。チャンスなんだからしっかりアピっときな!」


 二人が幼体の前に立ち、教官の合図で紅刃を展開する。椎名の紅刃は力強く、ためらいもなく幼体へ突き立てられた。柏木もそれに続く。


 ――ジュ……。


 数秒の沈黙。幼体の体がびくりと震え、わずかに皮膚が盛り上がる。


 その膨張はじわじわと広がり、やがて骨が音を立てて伸び始める。体長は80センチほどに成長し、背中に半透明な羽が二枚生えた。


「っしゃ! 見たかコラ、これが梨湖ちゃんの実力よ!」


 勝ち誇ったように腰に手を当てて振り返る椎名に、周囲の生徒がざわついた。

 紅獣は静かに呼吸を整え、従順な視線を彼女に向けている。


 教官も目を細める。


「……妖精種の量産型幼生体か。初回でこれは上出来だ。状態も安定している。文句なしで才能ありだ」


「へっへーん、ま、当然っしょ。やればできる女なんでね!」


 その隣で、柏木が小さく拍手して微笑んだ。


「梨湖ちゃん、すごい……。私、全然変化なかった」


 椎名は少し驚いたように柏木を見てから、軽く肩をすくめて笑う。


「ま、そーゆーこともあるって。あたしがちょっと天才だっただけよ!」


 誇らしげな椎名の声に、周囲からは感嘆とやや呆れ混じりの笑い声が漏れる。




「……あかんかったわ」


 それから少しして、後ろから藤森がぼそりとつぶやいた。軽い調子ではあるが、わずかに悔しさがにじむ声だった。


「僕も。手ごたえゼロ……」

 杉岡も苦笑交じりに肩をすくめる。


「てかあの子も補習組やったやろ? やっぱお勉強よりセンスってことやなぁ」


 視線の先には、満足げに紅獣を撫でる椎名の姿。

 

 紫音は息を吐き、黙って一歩前に出た。


 赤黒い幼体が、じっとこちらを見つめている。少しだけ汗ばむ手に、短い紅刃を生み出す。ぐ、と力を込めると、幼体の胸元に一閃。刺し込むと、刃の先からぬるりとした感触が走った。


(……入った)


 確かに、血液が流れ込んでいく感覚があった。


 次の瞬間、幼体の体がぶるりと震え、みるみるうちに変化を始める。細い前肢が広がり、骨格が軋みながら伸びていく。全身に黒い羽毛が広がり、鋭いクチバシが形作られた。


 それは――先週、紫音が訓練で戦った、鳥型の紅獣とそっくりな姿だった。

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